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 いったい、なにがあったのか。
 いったい、なにが起きているのか。

 ダイアナにはわからないが、怖いのだろうな、と思う。
 自分が彼女の立場だったら、やはり、怖いと思う。
 怖すぎて、なにもかも捨てて夜逃げしていると思う。
 この仕事は気に入っていて、天職だと思っているから離れたくはないが、それでも背に腹は代えられないと逃げ出すだろう。首尾よく逃げられるかどうかは別にしても、そうせずにはおれないだろうと思う。
 それを我慢して居残っているだけでも、彼女は偉いと思う。
 義務なのか、それ以外のなにかなのかは推し量れないにしろ。
 書庫の隅に設けられた閲覧席をカウンターから眺めながら、ダイアナは密かに溜息を吐いた。
 それが合図だったかのように、なあ、とムスカがひそひそと声をかけてきた。
「あの噂って、やっぱりほんとうなのかな」
 その向かう視線の先は、やはり彼女と同じ方向。
 ピンポイントで銀の髪を簾のようにして顔を隠した魔女の娘に注がれている。
 隣にいる王子がなにかを言ったり、動きをみせる度に、魔女の娘はびくびくと震えているのが遠目でもわかる。
 その傍らで、戸惑う表情で見て見ぬ振りをしているマーカス。
 そして、なにやら熱心に説明しているタトル館長は、たぶんそれらのことに気付いてやしないだろう。
 みな、椅子に座らず立ったまま、大机の上に広げた本やら図面やらを眺めながら、先ほどから、ずっと話し合っている。
 小耳に挟んだところによると、この国の呪いについてらしい。
 ご丁寧に、彼等以外の人間の書庫への立ち入りも禁止して話している。
「あの噂って」
「あれだよ、クラディオンの姫が生き残ってるって話。ひょっとして、あの娘がそうなのかな。クラディオン王も銀髪だったそうだし。どう思う?」
「そんなこと関係ないでしょ」
 ダイアナは大して興味をもっていない風を装った。
 男がデリカシーがないと言われるのは、こういうところだと思う。
 折角、とぼけてやったのに、わざわざ虎の棲む洞窟に入りたがるのは気が知れない。
 でも、とムスカはダイアナの気遣いに気付いた様子もなくことばを重ねた。
「だって、そうじゃないとヤバイだろ」
「やばいって?」
「だって、クラディオンの姫なら、シャスマールを別にして、王子の伴侶最有力候補で間違いないだろ。国は亡いし、父親もどちらかわからないけれど、王族の血筋であることは間違いないし、ポウリスタ公爵家の血筋だってのは確実なんだしさ。でも、そうじゃないんだったら、ヤバイだろ。これまで女を近付けなかった人がべったりだろ。どうみてもあれ、気に入ってるようにしか見えないじゃないか。正妃より先に側室ってのも問題だろ?」
 あれ、とわざわざ指すあからさまな視線に、ダイアナは苛立ちを感じた。
 シュリの腰には軽く抱くようにする男の手が添えられていた。
 手の持ち主は、言わずと知れたルーファス王子だ。
 さきほどから、なにかにつけ娘の身体に機会あればさりげなく触れようとしているのが見て取れるし、そうしている。
 王子にそうされて喜ぶ女は、すくなからずいるだろう。
 色々と言われてはいるが、相手は未来の国王となる王子だし、ルーファスは黙って立っているだけならば、娘心にアピールするだけの容姿を有している。
 基本的に興味をもっていないダイアナであっても、ふ、とした瞬間、見蕩れたことは一度ならずある。
 ケダモノと陰口を叩かれる王子ではあるが、育ちのよさは隠せるものではないし、なんだかんだ言いながら、頼りがいがある。
 そうでなくとも、息のくさい脂ぎった中年のチビ禿げ出腹オヤジにそうされるよりは、嫌ではないに違いない。
 だが、結婚となると話は違ってくる。
「彼女がクラディオンの王女じゃなかったら、シャスマールの姫との婚礼は確定ってことだろ。いくら好きでも、身分違い以前に魔女じゃ話にならないしさ」
「あんた、なにが言いたいわけ?」
 ダイアナはすこし凄んでみせた。
「なにって……王子の結婚相手がだれになるかって」
「馬鹿」
「なんだよ、馬鹿って」
「馬鹿だから、馬鹿って言ったのよ。ほんと、見損なった」
「見損なったって、なに怒ってんだよ」
「王女だろうとなんだろうと、あの娘が嫌がっているのにそういうこと平気で言うんだ」
「嫌がってる?」
「嫌がっているでしょう。っていうか、怖がってるじゃない」
「そうなのかな。戸惑っているようには見えるけれど」
「それが嫌がってるってことよ」
「でも、相手は王子だぜ? 嫌がっていても、命令されれば拒否権はないだろ。もし、あの娘がクラディオンの姫だったら、間違いなく綺麗だろうし、トカゲ族の姫よりはずっといいと思うな。王族の姫なら、政略結婚なんて当り前のことだしさ。本来だったらしていただろうお姫さまらしい生活ができるんだから、悪い話じゃないと思うけれど。マジェストリアもクラディオンの土地がまるまるの所有権を得られるし。今は荒地になっているけれど、あれさえなんとかなれば良い話じゃないか」
 ダイアナは、これ見よがしに大きく溜息を吐いてみせた。
「じゃあ、ムスカはさ、たとえば、王子じゃなくて王妃さまみたいな王女さまがいたとして、あんたが欲しいとか言われたら、躊躇うこともなく結婚するなり愛人とかになったりするんだ。尻に敷かれながら、豪勢な暮らしをして人に傅かれて、なにひとつ自由にならない鳥籠に囲われるような窮屈な生活に満足するのね」
「なんでそんな話になるんだよ」
 ムスカの表情が、むっ、としたものになった。
「そういう話をあんたがするからじゃない」
 顔も声も負けずに、ダイアナは言い返した。
「たとえ王女さまだったとしても、あの娘はずっと魔女になりたくて一生懸命やってきたのよ? 普通に庶民と同じような生活してきたのよ? それを今更、お姫さまだったからって言われて、家族でもない人たちに豪華な生活させてやるからって言われて夢を諦めて、好きでもない男との結婚に納得できると思う?」
 しかも、王子の後ろには、あの女王陛下がいるのだ。
 姑が女王陛下――こんなにリアルで怖い話はない。
 おそらく、どんな形であれ、毎日、きびしく次期王妃に相応しい者としての教育を受けることになるのだろう。
 気に入らないことがあっても、言い返すことなどできやしないだろう。言ったところで、頭ごなしに捻り潰されるがおちだ。ひたすら、言われるままに頷き、文句は飲み込んで耐え忍ぶしかない。
 考えるだけで身震いがでるし、ストレスが溜まる。
 国王陛下は優しい舅だろうが、なにかあっても頼りにならないに違いない。
 しかも、慣れない生活にきゅうきゅう言いながら、相談する相手もろくにいない。
 ダイアナにしても、短い間にすこしは親しくはなったが、複雑な相談を受け付けられるほどではないし、器量を超える内容には対処しかねる。
 たとえ、王女ということが証明されても皆にすぐに信頼でされるわけでもないし、うまく政治的に利用されるだけだろう。
 可哀想だ、とダイアナは繰り返し思った。
 ムスカのにやつきがより強まった。
「ひょっとして、やきもち焼いてるのか? 自分がルーファス王子のこと好きだから」
「どうしてそんな話になるのよ!?」
 声を出してから、思いがけず響いてしまったことに慌てて王子たちに視線を向ける。
 幸い、彼女の声に気に留めた様子はなかった。
「ばか」
 ダイアナはずり落ちた眼鏡を指先で押し上げると、暇そうに見えるへらへらとした笑い顔を睨め付けた。
「くだらないこと言っている暇があったら、仕事しなさいよ」
 彼女の殴りつけることばにムスカは、「おおこわ」、と反省したようすもなく呟いて離れていった。
 こどもじみたその態度に、ダイアナは苦々しく思う。
 充分に教育を受けた者である筈なのに、思慮の足りなさが己を貶めていることに気付かない馬鹿さ加減に、なぜ気付かないのか不思議で仕方がない。
 だが、そういう者が大半を占めていることも間違いないのだ。
 こと、この宮中に於ては。
 他人のことなど放っておけば良いのだ。どうせ、自分には関係ない話なのだから。
 王子の結婚相手が誰だろうと、大半の者にとっては直接、関係のない話だ。
 実際、次期王妃がトカゲ族の姫だろうと、今ある彼女の生活を乱すことさえなければかまわない、とダイアナは思っている。
 だが、そんなのは少数派だ。大多数の人間は、なんやかんやと言いたいものらしい。

 ――かわいそ……

 関係ない連中に引っかき回されて、余計に混乱しているだろう娘に同情する。
 彼女もすこしはその気持ちがわかるのだ。
 初恋が駄目になったのも、ほかの子が囃し立てる声に負けて意地を張ったせいだ。
 いまは、二十歳を過ぎて嫁き後れとお節介な者たちに言われて恥ずかしい、と家族に罵られもしている。
『お姉さまが嫁がないから、私まで話が回ってこないじゃない! わたしまで行き遅れにする気!?』
 妹にそう言われて腹を立てたのは、つい一昨日のことだ。
 侯爵家の娘にして、華やかさも出会いもないこの仕事がいけない、と非難もされる。
 まったく、余計なお世話だ。
 実のところ、家族の知らないところで、ダイアナにも想い合う相手がいる。
 しかし、彼が、フランツが求婚してくれないから仕方ないのだ。
 公爵家と男爵家の身分の差がどうしても無視できないのだろう。
 おまけに、西の砦にいる彼とでは会える機会さえ滅多にない。
 唯一、いまは手紙のやりとりだけで繋がっているのみ。
 まるで、蛇の生殺し状態。
 果たして、これでいいのか。
 彼女も悩みもする。
 はあ、とダイアナは溜息を溢した。

 ――呪いなんか解かなくていいから、転移用の方陣を私たちも使えるようにしてくれたらいいのに。

 そうしたら、フランツにもいつだって会える。
 浮気をしているんじゃないかとか、ほかの女に誘惑されてやしないかとかヤキモキせずにすむのだ。
 してたらしてたで、天誅をくわえることもできる。
 それだけで、王子には感謝しまくりだ。
 感謝しまくって、一生ついていってもいい……なんにもできないけれど。
 ふ、と動かした左手首の内側にある赤い色に目を留める。
 ひらひらとした尾ひれをもつ赤いちいさな魚がいた。
 シュリにもらったものだ。
 マーカスがおまじないをしてもらったと聞いて、彼女もしてくれるよう頼んだ。
 好奇心半分と、どんな些細なものでも縋りたい気分半分で。
 シュリは快く引き受けてくれた。

「ええと、その、どんな感じなんですか。他人のことを好きになるって。どうしてそうなるんでしょうか? そうなるきっかけとかあるんでしょうか? やっぱり、繁殖のため?」

 繁殖!
 そう問われて困りはしたが、できるだけ答えはした。
 いま思えば、自身がこうなることを予見していたかのような問いだったと感じる。
 本人としては、嬉しくもないだろうが。
 魚は、水の精霊だという。
 シュリは、庭園に造られた小川から取り出した。
 滞ったものの流れをよくしてくれるらしい。
 ほんとうに効くかどうか、正直、当てにはしていないが、ちいさな魚は見ているだけで可愛らしく、和む。

 ――いい娘なのに。

 ちょっとずれたところがあるけれど、好い娘だ。不本意なめにあって可哀想だ。
 とは言え、やはり、ダイアナにとっては他人事だ。
 どうせ、彼女はシュリを助ける方法をもってはいない。
 だから、せめて、なにも言わないし、なにもしない。
 それが彼女なりの親切だ。
 煩わしいことは頭の片隅に追いやって、彼女は自分の仕事にもどった。




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