65




 重いはずの扉を割り破らんばかりに入ってきたカミーユを認めたのち、ルーファスは瞠目し、その名を繰返した。
「シュリが?」
「シュリさん?」
 人々にまじって会話を聞いていたエンゾも呟いた。
 ルーファスは、ひと息ついて身嗜みを整える側近に問いかけた。
「どういうことだ。シュリは部屋にいるのではないのか」
「いいえ、いつかはわかりませんが、昨夜から今朝の間にひとり部屋をぬけだされたらしく、キルディバランド夫人が訪れた際には、すでに姿はなかったそうです」
「護衛をつかせていただろう! 衛兵は気づかなかったのか!?」
「大方、熱を出してお休みになられていたので、席を外していたのでしょう。窓から出ていかれたらしく、衛兵も気付かなかったかと」
 一を聞いて十を知る。
 カミーユの察しのよさは、有象無象の貴族社会を渡り歩く上での、おおいなる強み。
 結果的に、知らずしてグロリアたちを庇った恰好になった。
「この者たちは、現在、王宮中を捜索中だそうです。報告は、まだ?」
「来ていない」
「そうですか」
 ルーファスの口から、深い溜息が吐かれた。
 そして、次に顔をあげた時には、怒り一色だった表情に別の色が加わっていた。
「王宮の外に出た可能性は」
「それはないと。マーカスが門番にも確認をとったようです」
「そうか。そういえば、やつの顔をみていないな」
「いま、キルディバランド夫人を伴って、こちらに向かっているかと。私だけ先に急ぎ報告に参りました」
 火はまだかけられていないことに、カミーユも安堵の表情で答えた。
「……で、シュリはどこに? 見当もつかないのか」
 その問い掛けには、はい、と頷いた。
「ですが、魔女の性質を聞く限りは、庭のどこかにおられるのではないかと。シュリさまが原因でこうなったのか、これを収めようとなさっているのかはわかりかねますが」
 そういわれてルーファスも、ああ、とやっと気がついた。
 満月の下、ふたり交わした会話を思い出した。
「そうか、そういうことか。たしかに、これは調和が乱れていると言ってもよいか。となれば、理由はどうあれ、より繁茂する東か南の庭のいずれかにいる確率がたかいな」
「はい。しかし、お身体のことが心配されます」
「ああ、庭よりも、今はシュリの身こそが大事だ」
 それは、国が滅亡する危機を回避するためだけではなく、個人的に。
 今も草葉の陰、もとい、草の間で泣いているであろう父親である国王よりも。
「わかった。庭を焼き払うことは一旦、中止する」
 今も泣いているであろう父親は置いておいても、シュリのために。
 一般的には、道義的にどうかと批難もおきそうだが、ルーファスの価値観では間違いようのない選択だった。
 実の父親よりも、惚れた女。
 感覚的にも、同じ状況下にあっても、足を引っ張られているとは感じない方が優先される。
 男は放っておいてもかまわないが、女はそうはいかない。
 レディーファースト、オア、騎士道精神。
 或いは、男の義務とか存在意義みたいなものとか。
 そういう理屈もある。
 なにはともあれ、その決定に、息を潜めて聞き耳たてていた者たちの間から、ほっ、と溜息が沸き起こった。
 ハリネズミの庭師は、当然のように涙を流さんばかりに喜んだ。
 他のふたりの庭師と手を取りあって、頷きあった。
 ひときわ大きくなった騒めきを耳にして、ルーファスは声を落した。
「まずは、シュリを捜すことが先決だ。植物に襲われていることはないだろうが、あの身体では今頃どうなっているかわからん。無事であればいいが……」
 動じることはないにしても、心なし眉根が寄せられ、ことば通りの心情が表にあらわされた。
 こうしている今も、シュリはどうしているのか。
 大丈夫なのか。
 苦境に立たされてはいないだろうか。
 怪我を負ったり、危ないめにあっていないだろうか。
 庭にいるのであれば何者かに害されることはないにしても、心配のネタは、次から次へと尽きることなく湧きあがる。
 早くなんとか助けなければ。
 でも、どうしたら?
 陽炎のように全身から、苛立ちが立ちのぼって見える。
 カミーユはそれに気付きながら、引きずられることなく冷静さを保った。
「ご心配はお察ししますが、どこをどう捜すか、ある程度、見当をつけてからの方がよろしいかと。庭も広くありますし、この状況では動くにも限られますので」
 カミーユは国王が迷子になっていることまでは知らない。
 たとえ知っていたところで、やはり、優先順位を変える進言はしないだろう。
 おとなの事情で。
「だが、見当をつけるにも、どうする」
「そうですね……シュリさまがどうされているかにもよりますが、原因の中心近くにおられるのではないかと推察されます」
「しかし、原因もわからねば、中心がどこかも見付けられないだろう」
「はい。ですが、他の場所とは違う兆しみたいなもの、なにか違うものがあったかもしれません。それには、最初にこの異常に気付いた者に聞いてみる必要があるでしょう」
「何者だ」
「それは、まだ私も聞いてはおりませんが」
「そうか」、とルーファスは相槌をうつと、視線を周囲に向けて声を大きくした。
「ここにいる者の中で最初にこの異変に気づいた者、また、それを知る者はいるか」
 ぴたり、と大きくなりかけていた話し声が止まった。
 ふたたび、広間に静寂が駆け足でもどってきた。
 気まずそうに。
 喜びに沸き立っていた者たちは、それぞれに顔を見合わせた。
 そして、数人の視線がエンゾに向けられた。
「おまえか」
 ルーファスは、再度、ハリネズミ族の庭師を視線にとらえた。
 エンゾも髭の先を下げて、みなの視線に押されるようにおずおずと前に進み出た。
「……いえ、あの、はい、おいらのせがれが」
 進言をした時の勢いはどこへいったやら、いつもの臆病風……気の優しさが庭師の上に戻っていた。
「息子か。どこにいる」
 それもそのはず。ひた、と据えられるルーファスの眼差しに光はない。
 ついさっきまでそこにあった、やかんの湯を沸かせるのではないかという怒りの炎はどこへいったのだろう。
 いまは逆に、真冬の吹雪の中に放り込まれたほどの冷え冷えとした空気を思い出させた。
 ハリネズミ族の庭師に、冬眠の支度の必要を感じさせるほどの。
「……家に帰らせました」
「あなたもその場に?」
 横からカミーユが会話を引き取り、丁寧に問いかけた。
 優しさからではなく、折角の情報提供者の口をきけなくしてしまうことを危ぶんで、だ。
 彼女としても、時間が惜しい。
 はい、と返事がある。
 エンゾも、話す相手がカミーユに交代したことでいくぶん安心した。
 雪深い真冬から啓蟄ごろの気候にかわった程度だが、それでも生き物にとってはありがたい差だ。
「それは、どこですか? どんな様子でしたか?」
「えっと、東の庭の樫の木のところです。せがれが呼びに来て行ってみると、樹に絡まる蔦が見たこともない勢い出伸びていて、枝の付け根のところに球みたいにからまっていました。おいらもその場ですぐに蔦を刈り取ろうとしたんですが、その間も蔦はどんどん伸びて、球を大きくしていました」
 エンゾは一音、一音、丁寧に答えた。
「球? そんなふうに蔦が球状になることはあるのですか?」
「いいえ、あんなの、おいらもはじめて見ました。鳥かなんかの巣みたいで」
「中がどうなっているかとか、なにかがいるとか、見ましたか?」
「いいえ。上の方だったんで。おいらも木登りはできませんし、梯子もなく。あと、そのせいかわかりませんが、いつもより鳥の数が多かったように思いました」
「ああ、そういわれれば、鳥の鳴き声が賑やかですね」
 響き聞こえてくる囀りに気付いたカミーユは、窓の外に目をやる。
「くさいな」、とルーファスが呟くように言った。
「そこが中心に思える」
「ええ、そうですね」、とカミーユも頷くと、質問をつづけた。
「その近くで、顔を覆う長い銀髪の若い娘を見かけませんでしたか」
「……いいえ、気付きませんでした」
 エンゾはシュリの名は口にしなかった。
 賢明というよりは、本能的に。
 より面倒なことになりそうだったので、という勘は正しいだろう。
「本当に? 人がいた気配がしたり、目の端でなにかが動いたように感じたということもありませんでしたか」
「はい。そういうこともありませんでした。のびてくる蔦を刈るのに必死でしたし、せがれに呼びにいかせたポルコさんたちが来るまで、なにもなかったと思います」
「後から来た者たちも、なにも気付きませんでしたか」
 向けられた視線に、エンゾの後ろにいたふたりの庭師たちも、無言で頷いた。
 なるほど、とカミーユは答えた。
「気配に敏いハリネズミ族がそういうのだから、間違いないのでしょうね」
「だとすれば、シュリはどこにいる」
 辛抱切れたようすで横から口を挟みかけたルーファスに、「落ち着いてください」、とカミーユは声をかけた。
 それで黙りはしたものの、爪先が早くしろと言わんばかりに、タイムリミットが近いことを知らせる。
 いるだけで五月蝿い。
 焦りがよい結果を産むはずがない。
 カミーユは内心で嘆息しつつ、ふたたびエンゾに向き直った。
「他になにか変わったことはありませんでしたか。草木が伸びた以外に、いつもと違っていたところで。どんなちいさなことでもかまいません」
「変わったこと……なにもなかったと、あ、」
「なんですか」
「ええと、関係ないと思うんですが、」
 床上で跳ねていたルーファスの足先が、ぴたり、と止まった。
「さっさと言え」
 ふたたび耳を打った男のたったひと言が、エンゾのちいさな心臓を凍らせた。

 いま言え、すぐ言え! 簡潔に、無駄な話もなく、要点だけをとっとと吐きやがれ!
 でなければ、ぎたぎたに切り刻んで、煮え滾った鍋の中に放り込んでやる!

 言外のことばは明らかだ。
 道端でやくざに因縁つけられるより、なお悪い。
 ちいさなおこさまやご高齢者、心臓などに持病のある方はご遠慮くださいレベル。
 その証拠に、庭師の背中の針が、瞬時に全開した。
 ひっ、と短い叫び声も洩れる。
 カミーユはわざとらしく大きな溜息を吐いて、フォローにまわった。
「関係あるかないかはこちらで判断します。それで、咎め立てすることはありません」
 彼女たちに半分向けられた、庭師の尖った針の先っぽと尾が一斉にふるふると震えた。
 人を傷つけるには充分な筈の武器をもっているにも関らず、まったく威嚇にもならず、逆に頼りなさが感じられる不思議。
 普段、大人しいやつほど怒ると……という話もあるが、所詮、癒し系は癒し系だ。
 脅しにかけては年期の入った者とでは、はなから勝負にならない。
 それどころか、態度によっては、対する者の加虐心をより刺激しもするだろう。
 いまのハリネズミ族の庭師が、まさにそれ。
 だが、幸いなことに、ルーファスの興味をひくものではなかった。
 それはそれで命拾いをしたとも言えるが、その態度も長くはもつまい。
「言いなさい。言わないと、よけいに悪くしますよ」
 カミーユのことばは、脅しなのか忠告なのか。
 だが、それは、本人がいちばんよくわかっていた。
 逃げの姿勢で石になりかけていたエンゾは、咽喉の奥から搾り出すようにして、やっとの思いでひとことを口にした。
「フラシュカが、」
「フラシュカ」
 ルーファスは口の中で繰返した。
「フラシュカ?」
 カミーユは問い返した。
「なんですか、フラシュカというのは」
「……花です」、と怯えの色も濃く、エンゾは短く答えた。
「花? それがどうかしたのですか?」
「それが……咲いていたんです。樫の木のところに」
「植物ならば、どこでも生えるものでしょう」
 それには、ぶるぶるとエンゾは何度も首を横に振った。
 だが、次のことばが続かない。と、
「フラシュカは、陽当たりがよくて水はけの良い草原などに生える花なんでございます」、とそれまで無言のエールを送っていたポルコが、仲間の窮地にみかねて助け船をだした。
「マジェストリアの環境では育てるには難しく、めったに見ることのない花でして。花自体をご存知ない方のほうが多いでしょう。見た目はそこらへんにある雑草とかわらないのですが、匂いがよく、ご婦人の香水などに使われるほか、昂ぶった気を穏やかにさせる効果があるとかで、不眠のほか、病の治療薬としても用いられると記憶しております。それにしても、滅多に出回るものではないようでございますが」
 職業上以上に花のことを知る老人は答えた。
「ほう。そんな花なのですか」
「ええ、一時、乱獲もされて、数を減らしたこともあります。ここマジェストリアで野生の種というのは、ないとみていいかと」
「では、どこでならば見られるのですか」
「はあ、クラディオンでは多く見られたと聞いておりますが、いまは、オウガの一部などで見られる程度だそうでございます」
「そうなのですか。だとすると、確かに変ですね。国境を四つも越えた先からとは思えませんし」
 腕組みをするカミーユに、ポルコは言った。
「一株だけでしたら、南棟の温室に鉢植えがございますが」
「温室? 王家の薬草園の?」
 限られた者だけが入ることを許された場所だ。
 もちろん、所有者に限っては出入り自由。時間を問わず。
「王太后殿下のご気分が優れない時によいと御典医殿がお取り寄せになったもので……お薬よりはお気に召されているとかで」
「……へえ、そうなんですか」
 カミーユの視線がルーファスに向けられた。
 だが、顔をみる間もなく背が向けられ、唐突といったようすで、テラスに通じる窓ガラスに向けて大股に歩み始めた。
 踵が、がつがつと乱暴に、磨かれた床石を割らんばかりの音を鳴らした。
「どちらへ?」
「きまっている」
 シュリのところだ。
「お待ちください」
 庭師たちをその場において、カミーユはルーファスのあとを追った。
「確証もないうちから動かれるのは、危険です」
 返事はない。
 乱暴に外に通じるガラス戸が開けられて、そのままテラスへと出た。
「殿下!」
 その場に残っていた騎士たちも、慌ててあとに続いた。
 と、テラスの真ん中で、ふ、とルーファスの歩みが止まった。
 そして、頭上を見上げた。
 カミーユの目の前で、突然、黒い姿が全身、影に覆われた。
 そして、カミーユ自身も。
 突然、薄暗くなった視界に、そこにいた者たちは、皆、空を見上げた。
 そこにあったのは、両羽根を大きく広げた鳥の形をした影。
 見たこともない大きさの。
 ルーファス以外のだれもが驚愕に目を瞠り、口をあんぐりと開けたまま声をなくした。




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