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 あ、と真っ先に声をあげたのは、見ざる言わざるも吹っ飛んだエンゾだった。
「フラシュカが、こんなにたくさん! いつのまに!?」
 樫の木まで約五メートルの距離。
 その距離が、白い花で埋め尽くされていた。
 稀少植物、フラシュカの群生。
 植物を愛する庭師には、夢のような風景だ。
 シュリが声をあげたのも、これを見たから。
 まさに、夢で見た光景そのまんま。
 手にした可哀想な花は精霊たちの力を借りて、切り花の状態でありながら種を結ぶまでこぎつけ、それを地面に落とした。
 そして、地面に蒔かれた種は芽を出して兄弟を増やし、宿根草らしく根からも分身を増やした。
 花にとっては、あまり居心地のよい場所ではなかったが、精霊たちが一生懸命に面倒をみた。
 愛娘を喜ばせるために。
 以心伝心。
 シュリがそれを望んでいることがわかったから。
 そして、ついに出来た花畑。
 人の精神を落ち着かせる、と言われる甘い匂いも立ち篭める。が、
「シュリっ! 無事かっ!?」
 ルーファスには効かないようだ。
 残念なことに。
 その張り上げた声に、シュリも気付かないわけにはいかなかった。
 ぴい、と短く高い声もあげる。
 その声をどう勘違いしたか。
 ルーファスは前にいたハリネズミの庭師と魔女を追い越し、前に出ようと……
「待ってくださいっ!」
 エンゾが叫び、針を逆立てた。
「待て!」
 祝福の魔女は男の肩を掴んだ。
 その足下にはちいさなネズミがいて、また、ちぃちぃと金切り声をあげていた。
 必死のようすで。
 そして、
「来ちゃだめぇーーーーーっ!!」
 離れた位置から、シュリも叫んだ。
「シュリッ!」
「駄目、駄目、ダメダメダメッ! 来ないでぇえええっ!!」
 その声には、焦りと悲愴さが滲み出ている。
 まるで、立てこもり強盗犯の人質にとられているかのような。
 もしくは、追詰められても尚、往生際の悪い殺人犯に盾にされているかのような。

 『近付くな! 近付くとこの娘の命はないぞ!』
 『これは罠よ! 来ては駄目っ! わたしのことはいいのっ!!』

 目の前にそんな光景はないにも関らず、危機意識が彼を駆り立てる。
 それが、早くひと目会いたいという欲求と相乗効果をもたらした。
 衝動というか、野生の本能というのか。
 理性を司るという左脳は、ブラックアウト状態だ。
 いったい、なにが駄目なのか。
 いまのルーファスにはわからない。
 ただ、大事な女が危機に瀕していると受け取った。
「どけっ!!」
「落ち着け、小僧っ! そのまま動くなっ!」
 魔女は両手で片腕を掴み、全身でその場に留めようとした。
 ハリネズミの庭師については、雇われる立場からして手を触れることもかなわないから、それ以上、前にいかせないよう両手を広げてのとおせんぼが精一杯。
 その時には、シュリも覗く穴の位置を変え、しっかりとなにが起きているか、蔦のドームの中から把握していた。
「ししょおーーーーっ!」
 当然、いちばん頼りとするその姿に、真っ先に呼びかける。
「師匠ぉっ、その人を止めてくださいぃぃっ! 来させないでぇっ!」
「なにを言っているっ!? いま行くっ!」
「煽るんじゃない! 黙っていろ、馬鹿むすめっ!!」
「殿下、それ以上は……」
「離せ! そこをどけっ! 邪魔だっ! シュリッ!」
「やめろっ! 事を荒立てたいのかっ!?」
 魔女がそう言うのも、やむなし。
 ルーファスたちには見えないが、シュリを見守っていた精霊たちが既に外に出て臨戦待機状態になっていた。
 その様子は、巣を守る蜂のごとく。

 ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ……

 あの独特の羽根の音が聞こえてきそうな様相だ。
 蔦のドームを取り囲むようにして、ルーファスたちの動向を監視している。
「殿下、やめてくださいっ! これ以上行くとっ!」
「みんな、やめてえっ!」
「シュリ、いま行くぞっ!! 待っていろっ!」
「行かなくていい! おまえはここで、じっとしていろっ!!」
 押しては、引き。
 しかし、力でルーファスに敵うものなど滅多にいない。
 すくなくとも、ここには。
 美女にしがみつかれている自覚もなく、そのままじりじりと前に進む。
 柔らかい土に足先を埋もれさせながら、一センチでも近くにと躙り寄る。
 前に立ちはだかるエンゾの尖った鼻先が、もうすぐそこに迫ってきている。
 憶病者の庭師はこの時点で諦めた。
 敵前逃亡ともいうが、結果的に道をあけた。
「殿下、後生ですから、おやめくださいぃ……」
 それでも、口だけではまだ訴え続けた。
 涙声で。
 だが、最も聞いて欲しい人間の耳は素通りされていく。
 耳どころか、目にもはいっていない。
 遮るもののいなくなった視界で、ルーファスの目に映っているのは、樫の木にできた大きな蔦の球のみ。
 ピンポイントで焦点が結ばれている。
 恐ろしいばかりの集中力、というものではなく視野狭窄。
 恋の病とはいうが、ここまでくれば、立派な病気だろう。
 カウンセリングを受けることもお薦めだ。
 しかし、いまはそんなことを言っていられる場合でもなく。
「ししょおーーーーーっ!!」
「シュリッ!!」
「やめんか、おまえたちっ!!」
 鳥のいなくなった静かな緑のなか、ここだけが喧しい。
 しかし、この状況のなにがどうなっているのか、さっぱりわからない者もいた。
 カミーユとザル持ちのその他数人。
 置いてけぼりの第三者たち。
 少し離れた場所から、ぎゃあぎゃあ騒いでいる者たちを手持無沙汰で眺めていた。
 わけがわからないのはその者たちも同様だったが、理性的であるぶん、まだましだ。
 はて?
 王子の側近である男装の麗人は首を傾げた。
 シュリが拒むのは理解できるにしても、魔女と庭師は、なにをそんなに必死になっているのか?
 よくよく観察してから、ぽん、と手を打った。
 そして、騒ぎの中心となっている男の背後から、静かに近付いて静かに語りかけた。
「殿下、お待ちください。せっかく咲いている花を踏んでは、シュリさまが哀しまれます」

 ぴたり。

 ルーファスの動きが止まった。
 やはり、呪いか。
 シュリの名ひとつが、ようやく男の耳の奥まで届けられた。
 前しかみていなかった視線が、下に向かった。
 そおっと、足下を見た。
 今にも大きく踏み出さんと浮き上がった片足――黒いブーツは体形に合って相応の大きさがある――の、足裏を撫でるように白いフラシュカの花がゆらゆらと風に揺れていた。
 踏躙られそうになっていることなど、気付かない様子で。

 ――あぶない、あぶない! また、シュリを泣かせるところだった!

 ルーファスも気付いて、息を詰める慎重さで足を引っ込めようとした。
 そおっと、そおっと……
 だが、
「踏んじゃだめえっ!!」
 シュリの叫び声が響き渡った。
 間が悪くも途切れさせた、静寂と集中力。

 ぐらり。

 ルーファスの体勢がくずれた。
「馬鹿ッ!」
 とっさに出た魔女の罵声はだれに向けられたものか。
 しかし、そんなことを考える間もなく、伸し掛かる体重を全体重をかけて食い止めた。
 それにしても、如何な魔女にしても、特別、腕力があるわけではない。
 並みの女性よりも、すこし強いぐらい。
 だから、支えるにしても、限界があった。
 だが、そこはルーファスの卓越した運動神経とバランス感覚が、転倒を回避しようと動いた。
 フラシュカを踏まないよう片足のまま次なる足場を求めて、くるり、と身体が半回転。
 腕にしがみついていた魔女も自然と身体を捻じるようにして、半回転。
 女の踏み込んだ片足に重心が移動した。

 でぇいっ!

 唐突なまでの掛け声、一声。
 同時に女よりも一回り以上もおおきいルーファスの身体が、花畑とは別の方向へ飛んでいった。
 もとい、投げ飛ばされた。

 ずざざざざざざざざざっ!!

 わっさわっさと緑に生い茂る、植え込みだかなんだかわからなくなった植物の密集地に向かって。
 強風に煽られたかのような、葉擦れの音だけがだれの耳にもやけに大きく聞こえた。
 これも以前にあった光景。
 それもそのはず。
 シュリを仕込んだのは、ほかならぬこの魔女であるのだから。
 その腕は、おそらく免許皆伝。
「あ」
「殿下ッ!!」
 ギャラリーが口々に声をあげた時には、ルーファスはすでに草叢の中に沈み込んでいた。
 尻もちをついた恰好だが、植物がうまくクッションの役割を果たしたようだ。
 だが、周囲は唖然とするばかり。
 か細い女が大の男、ルーファスを投げ飛ばしたのだから。

 ――魔女、つええっ!

 感嘆まじりの驚愕と怖れから、報復行動を起こすどころか、主を助け起こすことすら思い浮かばなかった。
 それはそれで、幸いだったろう。
 二次災害はまぬがれた。
 だが、納まりつかないのは、直接被害……攻撃をこうむった者だ。
「きさま……」
 茂みの中から、図らずも師弟ともに投げ飛ばされた男は唸り声をあげた。
 投げ飛ばした方はと言えば、しげしげとその姿を眺めて、
「ああ、すまん。つい、勢いでな。まあ、気にするな」
「気にするわっ!!」
「いや、気にしなくていい。これで、精霊たちの気も収まったようだしな」
 祝福の魔女は樫の木の方向を見ながら、しれっとした表情だ。
 どう見ても、反省の欠片もない。
 そして、尚も言った。
「わたしがおまえを投げ飛ばしたことで、溜飲をさげたらしい。案外、簡単な子たちだ。怪我の功名というやつだ。よかったな」

 ――わあい!

 樫の木を取り巻いていた蜂の大群のごとき精霊たちは、いまは散じてまばらになっていた。
 シュリのもとへ戻ったり、辺りを跳ね回ったりしてひやかしている。

 ――やーい、やーい! 投げられたあ! わーい!

 魔女の耳には、嬉しそうな声もきこえてくる。
 ただ、もとからルーファスになついている炎の精霊たちだけが、ちいさな赤い蝶々や小鳥の姿で彼の周囲を気遣わしげに飛び回っていた。
「なにがよかっただ!」
「よかっただろう。これ以上、なにも起こさないだろうし」
 魔女は、耳元で飛び回る精霊たちを、傷つけない程度に手で軽く追い払う。
「花を踏み散らかしそうになったり、シュリを怖がらせただろう。精霊たちにとっては、シュリをかまうにじゅうぶんな理由さ。あの子たちは、保護したつもりだろうけれどね。おまえには見えないだろうが、あの子たちは、ずっと見ていたよ。なんとかしたかったのはやまやまだったろうが、魔女が介入しないかぎりは、精霊は人に直接、手を下すことはできないから、おまえになにかしようにも出来なかったろう。私も普段から、シュリに必要以上にかまわないように言っているし、鬱憤もたまっていたんだろうな。限界もあったってことだ。ま、この程度ですんで、おまえも助かったな」
「そんなことは知らん!」
 ルーファスはきまり悪さを隠して、不機嫌に答えた。
 差し出された魔女の手を借りることなく立ち上がる。
 と、
「ししょーーぉっ、しーーしょーーぉっ」
 花畑の向こう側から、シュリの張り上げる声があった。
「ししょおっ、お花は無事でしたかあっ? 踏まれていませんかあっ!?」
 だれのせいでこうなったのか、なにも知らない娘は問いかけた。
 やれやれと呟いたのは、カミーユか。
 エンゾをはじめとする他の者たちも、居心地悪そうに俯いたり、溜息を溢したりした。
「ああ、無事だ。なにごともないよ」
「よかったあ!」
 魔女は苦い表情を浮かべるルーファスの顔を見て苦笑した。
「おまえも浮かばれないな」
「まあ、いいじゃないですか」、と慰めには程遠い様子でカミーユが口を挟んだ。
「シュリさまのために、殿下が差し上げた花なのでしょう。いつお渡しになったかは存じませんが、よかったじゃないですか、こんなに大切に思っていただけて」
「おや、そうなのかい?」
「ええ、昨晩、シュリさまはうなされておりましたから、多分、それで」
「へえ、」
 女ふたり、にやにやとした笑顔をルーファスにむけた。

 ふん!

 大きく鼻を鳴らして背が向けられる。
 フラシュカの花たちが、長閑に風にゆらゆらそよいでいた。




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