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 登るよりも降りることの方が、実はむずかしい。
 危険も大きい。
 階段ですらそう言われるのだから、高い樹から降りるとなれば、尚更。

「うきゃっ!」
 一瞬にして、背中が冷えて動悸が激しくなった。
 いらぬ考え事に気を取られて、足下がおろそかになってしまった。
 シュリは必死で枝を掴んだ。
「いま行く! 手を離すな!」
 頭上からルーファスの声があって、幹を回り込むように降りてくる気配を感じる。
 シュリはいまにも滑り落ちそうな両の指先に力を込めて、枝にしがみついた。
 そして、足がかりを求めて、幹を足裏で探る。
 しかし、二度、三度と足は滑るばかりで、そうしている間も手の力がゆるむ。
 と、左に人の体温と息遣いを感じて、腰をしっかりと抱きかかえる手の感触があった。
「そのままゆっくりと両手を離して、右足を下ろせ。すぐ先に枝がある」
「でも、」
「大丈夫だ。ちゃんと支えているから、心配しなくていい。放したりはしない」
 答えるルーファスは片手で幹の瘤に掴まり、もう片方の手でシュリを支えていて、とても安定した状態とは言えない。
 しかし、声と表情に揺らぎはない。
「大丈夫だ」、とルーファスはもういちど言った。
「ゆっくりと手を放せ。慌てるな」
 本当に大丈夫か不安はある。
 が、シュリは言われた通りに枝を握る手の力をわずかに緩めた。
「そうだ。ゆっくりと。いいぞ」
 樹から完全に手を放した時、ずるり、と身体が沈む感覚に、心臓が大きく跳ねた。
 しかし、腰に回された手が離れることはなく、右足の爪先に触れる樹の感触もあった。
「よっ!」
 掛け声とともに支えられたまま身体全体がさがって、両足が着地した。
 シュリを抱きかかえたまま、ルーファスも幹を伝うようにして枝に降りた。
 同時にかかったふたりの体重に、足下の枝はわずかにたわんだが、折れる気配はない。
 しっかりしたものだ。
 目線を下にやれば、枝間にのぞく地面まではさして遠くない位置まできていた。
 落ちれば、怪我は必至の高さにはちがいないが。
「少し危なかったな」
「……ごめんなさい。ありがとうございます」
 ルーファスの首下に顔を埋める体勢になりながら、シュリは礼を言った。
 しかし、まだ安心はできない。
 こうして立っていられるのは、ルーファスが身体を支えてくれているからだ。
 腰を抱えられ、密着状態で。
 そのルーファスは、背を幹に預け、片手だけで軽く掴まっている状態だ。
 つまり、どちらかが足を滑らせようものならば、一蓮托生で落下するのは目に見えている。
 どこか掴まるところを、とシュリは求めた。
 身を捩って、ルーファスの後ろにある幹に手を伸ばせば、腰を支える手に力が籠められるのを感じた。
 まるで、動くなと言わんばかりに。
「あの?」
「もう暫く、このままで」
 囁く声と、はあ、と深い溜息が続いた。
 耳元に吹き付けられる息がくすぐったい。
 シュリは頭の角度をかえようと顔をあげた。
 途端、黒い双眸と視線がぶつかった。
 それが、陰った。
 一瞬だけ。
 シュリは、ふにゃっとした感触を唇に感じた。
 あれ、と思った時には、また目の前にルーファスの顔がある。
 ええと、とシュリは大きな疑問符を描いた顔を傾げた。
「いま、なにかしましたか?」
「したな」
「ええと、接吻というものでしょうか」
「随分と古風な言い方だな」
「したんですか?」
「ああ」
 悪びれたようすもなくルーファスは頷くと、またシュリの唇を己の唇をつかって塞いだ。
 こんどは、先ほどよりすこし長めに。
 下唇と上唇を交互に軽くついばむようにして、二度、三度と繰返した。
 この男らしからぬ丁寧さと優しさをもって。
 しかし、自然と逃げ腰になるシュリを支える手は微動だにしない。
 上半身だけのけぞり気味の姿勢で、シュリはゆっくりと名残惜しそうに離れていくルーファスをみつめた。
 ぱちぱちと、なんども瞬きを繰返した。
 疑問符は顔だけでなく、頭上にも大きく浮かんでいた。
 あの、と声をかければ、困惑の表情がルーファスの顔に浮かんでいた。
「嫌だったか」
 思いがけず、問われた。
「ええと、嫌とかではなくて、その、なぜなんでしょうか」
 姿勢を斜めにしたまま、シュリは問い返した。
「なぜ、とは」
「つまり、なぜ、ここで挨拶をする必要があるかと」
 ルーファスの片方の眉だけがあがった。
「挨拶?」
「ちがうんですか?」
「違う」
 むっつりとしながらの答えがある。
「そうなんですか? では、なんでしょうか」
「改めて、なに、と問われると……好意だ」
「好意? ええと、わたしが好きだということでしょうか」
「……そういうことだ」
 はじめての告白としては、随分と間の抜けた部類にはいるだろう。
 言う方も、聞く方も。
 しかし、すくなくともシュリはそんなことは気に留めもしなかった。
 照れるどころか、驚き、慌てふためくこともなかった。
 運動したせいで多少、頬は上気してはいるが、急激な変化はみられない。
 脈拍、呼吸ともに正常。
 ただ、その場で考え込んだ。
 眉をしかめ、ヘの字に歪めた唇から、ううん、と唸り声もでる。
「……なぜ、挨拶なんだ」
 ルーファスの声が、一段、低いものになった。
 しかし、怒りからではなく訝しむ感じだ。
「いえ、ただ、ちがうなと思ったものですから」
 でない答えにいったん諦めて、シュリは返事をした。
 淡々と、冷静に。
「ちがう? なにがだ」
「お師匠さまから教わっていたのとはちがってたものですから」
「魔女から?」
「はい」
 シュリは、たった今、彼女にキスをした男に言った。
「前にお師匠さまから教わった異性に対する接吻というのは、もっと乱暴な感じでしたから」
「は?」
「なんというか、口の中を舐め回されて、正直、気持ちが悪いというのか、なんでそんなことをするのかわからなかったんです。涎でべたべたになるし。それになんの意味があるんだろうって、ずっと疑問でした。かえって相手を嫌いになるんじゃないかしらとわたしは思うんですけれど、師匠さまに訊いても、そういうものだって答えばかりで。でも、いまのは、ときどきお師匠さまがする挨拶のものと変わらないものでしたし、だからなぜいま挨拶をするのかと、」
「待て、まて、マテッ!」
 突然のルーファスの遮ることばは硬く、発音も妙だった。
 しかめっ面を向けられたが、怖くはなかった。
 単に、慌てているだけだ。
 なぜ慌てているのかまでは不明だったが。
「おまえは日常的にいまのようなキスをしているのか!?」
「いいえ、ふだんはひとりで暮らしていますし、自分からしたことはありませんが」
「当り前だっ! いや、そうではなくて、いや、その、実際にしたのか、魔女と? それとも別のだれかと」
「なにをですか?」
「キスというか、口の中に舌を突っ込まれたり、舐め回されたりしたことがあるのか!?」
「はい」
 シュリは素直に頷いた。
「一度だけですけれど、人族の繁殖行為はどのように行われるか教わった時に、実際にどんなものか教えてやるって、師匠が。それはそれっきりで、唇があてられる程度のものは、たまにされてますけれど」
「繁殖、行為……だと?」
 その指し示す事柄は、アレだ。
 思春期のこどもを前に大事なことだと理解しつつも、父親が見てみぬ振りをし、母親は困惑に眼を背ける、所謂、性教育と言われる代物だ。
 『花には雄しべと雌しべというものがあってね』、からはじめるのが一般的に伝えられる。
 しかし、シュリが教わった相手は魔女だ。
 人と同じ姿を持ちながらも、人ではないもの。
 自らは進化も繁殖も関係ない、自然の摂理から外れた者だ。
 よって、そこに含まれる感情はまったくない。
 ロマンも卑猥も突き抜けて、実に合理的な教育をシュリは受けた。
 生物学上の観点から。

 ――お師匠さまあ、なんで動物は雄と雌がいっしょにいるとこどもができるんですか?
 ――ああ、それは繁殖行為が行われるからだ。
 ――繁殖?
 ――そうだ。最も原始的で、本能的な行為だよ。

 それは、ある意味、有意義と言えるかもしれない。
 が、そう割り切れないところが、人でもある。

 はあぁぁぁぁぁあっ!?

 男の一際、大きな声があがった。
 拡大した瞳孔に、あけられた口。
 ルーファスは、呆気にとられた表情で固まっていた。
 全身、かちこちに。
 腰にまわされた手も、ぴくりとも動かない。
 石像になってしまったかのように。
 シュリは小首をかしげた。
「あの?」

 ぐらり。

 ルーファスの身体が、斜めに傾いだ。
「あぶない! あぶないですっ!!」
 シュリは腰を抱かれた状態のままバランスを崩しながらルーファスの身体を支え、なんとか踏ん張った。
 ルーファスも我に返り、寸でのところで落下は免れた。
 だが、その顔色はすぐれない。
「あのう、大丈夫ですか?」
 病気にでもなったのか、とシュリは声をかけてみた。
「……いや……気にするな……」
「でも、」
 樹の幹に背を預け、がっくりとうな垂れた様子は、見るからに大丈夫ではなさそうだ。
 足下も、まだなんとなく危なっかしい。
 ルーファスと出会って短い付き合いでしかないが、この男のこんな様子は徒事ではないだろうとシュリにも感じられた。と、

 はああああああああああぁっ。

 俯いた口から、深い溜息があった。
「……悪いが、先に行っていてくれ」
 ぼそぼそとした力ない声が言った。
「えと、具合が悪いなら、先に行ってもらったほうが、」
「いや……気にするな。すこし休んでからあとを追いかける」
 見るからに、立っているのがやっと、の状態。
 しかし、近くに人がいるのが嫌なこともあるのだろう、とシュリは思った。
「そうですか。じゃあ、ひとりでどうにもならないようでしたら、大声で呼んでくださいね。すぐに助けにきますから」
「……ああ」
 顔をあげようとしないルーファスを気にしつつも、シュリは幹伝いに身体を回り込んで、下に降りはじめた。
 枝をひとつ、ふたつ越えて、もとの枝が真下に見えた頃、ごん、と硬い音が上から聞こえた。

 ごん! ごん! ごん! ごん! ごん!

 なにかで幹を、繰り返し殴りつけているかのような音だった。
 シュリの手にも、微かに振動が伝わってくる。
「あいたっ!」
 落ちそこなっていたのだろうどんぐりが、弾みでシュリの頭に当たった。

 くっそ魔女ぐああああああああああぁぁぁぁぁぁぁあっっ!!

 いっしょに雄叫びも降ってきた。
「……だいじょうぶかなあ?」
 シュリは上を見上げた。
 これだけの声があげられるのだから、思っていたよりも元気らしい。
 それとも、いつもああやって怒鳴り声をあげていたのは、なにかの発作だったのだろうか?
 あのぐったりと力をなくしたのは、発作が起きる兆候だったのかもしれない。
 そんな病気をシュリは知らないが、だとすれば、気の毒な話だ。
 しかし、やはり、ルーファスのことはよくわからない。
 吐息をつきながら、根本的なところで一般的な人の営みから外れて暮らしていた娘は、そう思った。




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