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 ぱちり、とビストリアは手の中で、本日、二本目の扇を鳴らした。
 一本目の扇は先ほど、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、「ビスティぃぃぃぃぃっ!」、と泣き叫びながら飛びついてきたドレイファスの額の上で傷めた。
 つい、うっかりと。
 結果、夫を更に泣かせる羽目になってしまったが、反射的な自己防衛で、けっしてわざとではない。
 事故だ。
 人前で、あの大きらいな軽薄きわまりない呼び方をされたせいとか、涙だか鼻水だかでドレスが汚れそうだったからとかでは、けっしてない。
 たぶん。
 しかし、それは別にしても、最近の扇は作りが甘くなってきているようだ、と感じる。
 丈夫さが足りない。
 こうも頻繁に取り替えなければならないのは、わずらわしくもある。
 これから、レディン姫のしつけもある。
 人の額に当たったぐらいで簡単に折れてしまう弱い作りではこまる。
 指示ひとつするにも空手では様にならないし、ひとつ指導するにも素手では慎みがなく、野蛮だ。
 こんど、出入りの商人にそう伝えて、もう少し丈夫なものを作らせようか。
 いや、だが、或いはこの弱い作りは、わざと頻繁に取り替えさせるための商いの方策かもしれない。
 であれば、新規の商人を選抜させるのも手だろう。
 女王たるもの、常にひとびとを牽引すべき立場である。
 ファッションリーダーであることも、そのひとつ。
 扇ひとつにもこだわりをみせたいところ。
 最近、そのあたりの意匠もマンネリ気味ではあるし、ここら辺で新しいものを試してみるよい機会かもしれない……
 ビストリアは、そんなことを考えながらも、「さて」、と一声だすことで瞬時に頭を切り替えた。
「では、本日の騒ぎは、シュリという娘に原因があったということか」
「原因ということばが適切かどうかは判断に悩むところではありますが、大きく関ったことは否定いたしません」
 現状報告に呼びつけた、息子の側近である男装の麗人は答えた。
 いかにもそつのない返事はらしいものであったが、いまひとつ締まらない感じが見受けられる。
 ビストリアもカミーユのことをよく知っているわけではないが、数日前に接見したときの隙のない印象とは違った雰囲気だ。
 半日、ことを収めるのに、王宮内を文字通り駆けずり回ったとも聞いている。
 疲れもしたかとも思うが、ここで腹芸を保つ気力まで失われているようでは、まだまだ。
 しかし、そういうところが、年相応と言えるのかもしれない。
 案外、かわいらしいところもある、とビストリアは両の口角を微かに引き上げた。
「では、なにが原因であった」
 訊ねれば、ゆるく首が横に振られる。
「さて、そもそも原因というものがあったかどうかも定かではありません」
「どういう意味か」
「はい、もともとは熱に苦しまれているシュリさまを見兼ねて、ルーファス殿下が一輪のフラシュカの花を枕元に贈られたことが始まりのようです。そして、一夜明け、花の効用もあって健やかに目覚められたシュリさまは、件のフラシュカが萎れているのを見て、とても哀しまれたようです。なんとか元気にならないかと、庭師にでも訊ねるおつもりだったのでしょう。だれも気付かぬうちに、庭にお出になられました。しかし、生憎、病み上がりであられたので、途中、しばらく休憩することにしたようです。しかし、そこで、シュリさまの元気のないご様子に精霊たちが見兼ねて、なんとか励まそうとあのようなことになったのだろう、と魔女は申しておりました。妖精族の血をひくシュリさまは、特別、精霊の加護が厚いそうですので」
「励まし? あらぬ植物を増やすことがか」
「シュリさまは、普段は森深くにお暮らしになられておりますので。環境を似たものにし、腹も空かせておられれば、口馴れた食べ物をと思ったようです。精霊の思考とは単純なものであるらしく、直裁的なうえに、加減もできぬからこのような騒ぎにもなったとのことでございます」 
「ふむ、迷惑なものであるな」
「それも受け取りようかと。半日で、季節を問わず、珍しい山菜や果実が食料庫に入りきらぬほどの量が採れましてございます。また、稀少なフラシュカも株を増やし、王太后陛下のお心が安らかに過すに、しばらくの間は充分かと存じます」
「ほう」
「採取した中には、女王陛下のお好みの素材も多数まじっていたと聞いております。今宵よりさっそく、お口を愉しませることにもなりましょう」
「そう聞けば、いらぬ騒動とばかり言い切れぬか」
「はい」
 食欲に身分は関係ない。
 ビストリアは開いた扇で、深い笑みをつくった口元を隠した。
「しかし、話をもとに戻すが、先ほどの話、聞きようによっては、シュリという娘もルーファスをすくなからず慕っているようにも聞こえたが」
 言いようひとつ、受け取りようひとつで、ことばは様相を変える。
 フラシュカが萎れたから、シュリが哀しんだわけではない。
 『ルーファスが贈った』フラシュカが萎れたのを、シュリは哀しんだ。
 ビストリアには、そのように聞こえていた。
「その辺は、わたくしもご本人の口からしっかり聞いたわけではございませぬので、確証はもてませんが」
 と、答えるカミーユのようすは、頼りなくも感じる。
「しかし、私が受けた報告によると、殿下が樹の枝にひとり残られたシュリさまに軽食を届けたのち、おふたりだけで木登りを愉しまれたとうかがっております」
「木登り? ルーファスはともかく、娘まで木に登ったと?」
「そのようで。王宮では最も高いといわれる樫の木の、かなり高いところまでお登りになったようでございます。私も聞いた時にはおどろきましたが、森に暮らしておりますと、そのようなこともお出来になられるのでしょう」
「ふむ、妙齢の娘、しかも、名ばかりとは言え姫がそのようなことをするとはな」
 僅かなあざけりを匂わせる。と、
「ルーファス殿下は身体に優れ、闊達なお方でありますれば、正直に申しまして、近習として長く傍にある私にも、時にはついていけぬこともしばしばございます。その点、シュリさまは、私よりも遥かに殿下に近くあられるかと存じましてございます」
 溜息を含んだ声音が答えた。
 疲労からだけではなく、諦めとも、主とはっきりと一線を画した一抹の寂しさを隠すようだとも、ビストリアには感じられた。
 ふむ、と頷き、扇を閉じた。
「ここに来た当初は、ルーファスに怯えて泣いていたと聞いているが」
「そのような時もございましたが、今はそのようなこともなく。殿下におかれましても、花を贈られたこともそうですし、シュリさまを気遣われている様子がだれの目にもはっきりしてございます。それが通じぬことはありませんでしょう」
「人の心は移ろうか」
「よき意味で」
「なるほどな」
 手のなかで、扇を弄ぶ。
 亡きフェリスティアの一子であるというシュリという娘。
 ルーファスと気持ちが通じているのであれば、王太子妃とするのも吝かではない。
 証拠さえ揃えば血筋としては問題なく、外貌のよさから表向きの体裁を整えるのは容易い。
 ただ、育ちによるところの躾けは、少なからず必要なようだ。
 その点、今、目の前にいるカミーユは、多少、鍛え直すだけで、充分に次代の王妃として通用するだろう。
 気持ちの在り処は兎も角、ルーファスと気心が知れている仲だ。
 王族の婚姻で気持ちは二の次のことを思えば、相性がよいだけで、充分に恵まれている。
 ただ、王宮にありがちな、貴族同士のしがらみが障害となりかねないのが玉に瑕、というところだろう。
 どちらを嫁として迎えるにしても、一長一短。
 ひとりを正妃として、もうひとりを側室にするというのも手だろう。
 問題は、彼女がどちらを優先させるか、ということだ。
 この順位を間違えてはいけない。
 間違えれば、将来、次々代の後継者問題にも影響しかねない。
 とは言え、今のところは、決めかねる。
 しかし、ひとつだけ決めていることがある。
「あい、わかった。報告、ご苦労」
 扇の音も鋭くして、ビストリアはあいまいな空気を断ち切った。
「時に、明日の夕刻、シャスマールのレディン姫一行がご到着の予定である」
「……いよいよにございますか」
 わずかに緊張した面持ちが向けられた。
「うむ、そこで、早急に明日より婚約式までの間、どこへでもよい。そちのほかシュリという娘、その他、必要な人員を伴い、ルーファスは王宮を離れるように申し伝える」
「それは……よろしいので?」
 確認の問いにも、しかと頷いた。
「殿下が出迎えぬとなれば、レディン姫もご気分を害されましょう」
「なに、もとよりこちらでは望むものではない。それをはっきりさせるに問題はなかろう」
 きっぱりと。
 力強く、言い切った。
「しかし、それが原因でシャスマールの心証を悪くし、のちにどのような要求を突きつけられるか、」
「こちらの意志をはっきりさせるぶんには、かまわぬ。それにどう対応し、どのような結果を導くかは、シャスマールの意志。なにかの切っ掛けで姫自ら辞すことがあっても、知ったことではない」
 表情筋をぴくりとも動かさずして、高笑いしているのではないかと錯覚させる。
 しかし、と言い添えて、カミーユに釘を刺すことも忘れなかった。
「シャスマールを退けられたにしても、その後の対応こそが重要。魔硝石の確保と……口にせずともわかるであろう。それはルーファスとその方らに任せる」
「……畏まりました」
「間違っても、国の利益を損なうことはなきよう。あてにしておるぞ」
 ビストリアは、席を立った。
 背筋を伸ばし、ドレスの裾ひとつ乱すことなく、宿す貫禄を見せつけるがごとく。
 些細なしぐさに威圧を籠めることなど、彼女にとっては容易いどころか自然と身についたもの。
 その後ろ姿は語る。

 ――どこからでもかかってらっしゃい、小娘!!

 幾つかはっきりしない点はあるものの、方針は固まった。
 とりあえず、注文する扇の数は二桁の本数が必要なようだ。




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