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 匂いが鼻先を掠めた途端、ばらばらと音をたてて雨が降りはじめた。
 あっという間に、地面がまっ黒に変わった。
 いっしょに庭にいた他の者たちが身を細くし、草叢の間を慌てて駆けていく。
 その中でエンゾは顔をあげて立ち止まり、顔全体に雨粒を受け止めた。
 全身、ずぶ濡れになるまでそうしていた。
 そして、背中の針のすみずみまで、泥や埃がすべて洗い流されたところで、すぐそばにある樫の木の下に身を寄せた。
 ハリネズミ族は人族とは違って、雨に濡れるのをそこまで厭わない。
 水浴びと変わらず、適度に浴びることが気持ち良いと感じる。
 特に、こうした夕立のあとは。
 たっぷりと水を吸い込んだ草木の、活き活きとした姿を見るのもうれしい。
 そして、その匂いも好きだ。
 エンゾは密かに満足しながら、全身を震わせて水を弾き飛ばした。
 と、ひゃあひゃあ声をあげながら、同じ樹の下にひとり駆け込んできた。
 トウモロコシのような髪の毛をもつ大柄な男は、見間違えようもなく彼の同僚のケルビンだった。
「いきなりひでえ降りだ。おかげですっかり濡れちまった」
 ケルビンは首にかけていたタオルを雑巾のように絞ってから顔をふき、身体に叩きつけるようにして湿り気を軽くぬぐった。
「こっちは、もう、ほとんど片付いたようだな」
「はい、城の人たちも手伝ってくれたんで」
 エンゾは答えた。
 フラシュカの花畑はなく、今は掘り返された土のあとが残るばかりだ。
 いっぽんずつ丁寧にポットに移し替えられたフラシュカは、すでに南棟の温室に運ばれている。
 ちゃんとした植木鉢に入るのは、明日以降だ。
「そっちは、すんだんですか」
「ああ、できるところでは、あらかたな。貴重なやつは根っこから掘っくり返して、藁でつつんで、苗木の処置をほどこしたし、育ちすぎたやつとか出来ないやつは、挿し木用に枝の一部を採っておいた。あと、実になったやつとかすこしな。腹の中に入れるぶんとはべつに」
「そりゃあ、よかったですね。ポルコさんの方は?」
「さあなあ、南っかわを見に行ってる暇もなかったし。でも、爺さんなら大丈夫じゃないのか? あっちにゃあ魔法師もいたみたいだし、土木作業に慣れた兵士とか呼んでもらって手伝わせていたみたいだし」
「へえ」
「ああ、爺さんも年だしな。しかし、俺もこんだけ働いたのはひさしぶりだ。おかげで苗木置き場もいっぱいで、足の踏み場もありゃしねえ。庭の見栄えを考えりゃあ邪魔なもんなんだけれど。でも、それさえ考えなけりゃあ、折角、生えてきたもんだしなあ」
「苗の移植先は、もう決まっているんですか」
 数本程度ならばこの庭のどこかに植えることもできるだろうが、とても全部は無理だろう。
「うんにゃ」、とケルビンは首を横に振った。
「たぶん、どっか別の城の庭とか貴族んちの庭とかにやられたりもするんだろうけれどなあ。それで、うまく根づきゃあいいが、そうならずに枯れるのもあるだろうなあ」
「ああ、みんなうまく育つといいんだけれど」
 庭師としては、折角、繋いだ命が断たれるのは植物であっても哀しい。
 それでも、仕方ないこととはいえ、どんなに手をかけようとも、土や環境が変わることについていけない植物もある。
 その辺は人といっしょだ。
「そういや」、とケルビンが周囲を見回した。
「シュリとかいう娘さんはどうなったんだ。みつかったのか? 王子さまがえらくご執心みたいだったけれど」
 詳細はほとんど知らないだろう同僚の問いに、エンゾの髭も一気に下を向いた。
「ああ、さっきまでここにいたけれど、夕立前に王宮に戻りましたよ。王子さまもいっしょに」

 『夕立がきますよ』、とだいぶ近くなった枝の上からシュリが声をかけてきて教えてくれた。
「さっき、木に登ったら、水の精霊がずいぶんと上まで来て遊んでいましたから。雲の流れもそんな感じでしたし」
 シュリがそんなことをしていたとは、仕事に没頭していたエンゾは気付かなかったが、それとは別にルーファスの姿が見えないことにも不思議に思った。
 それでも、シュリを濡らすのはよくないだろうと思い、早く枝から降りられるように頑張った結果、間に合うことができた。
 その頃には、いつの間にかルーファスも戻っていて、シュリを王宮へ連れ帰っていった。
 しかし、ルーファスは来た時にも増して仏頂面をしていて、どこかにぶつけたのだろうか、その額が赤く腫れていた。
 その姿にエンゾは密かに怯え、シュリは不思議そうに首を傾げていた。

「そうなのか。そりゃあ、よかった」
 ケルビンのことばに、エンゾは力なく笑った。
「まあ、いいんだか、悪いんだか」
 すると、意外なことにケルビンは、「いいこったろ」、と肯定した。
「いいかなあ?」
 今日一日を振り返れば、怖いことや大変なことばかりで終ってしまった気がする。
 だから、エンゾにはとてもではないが『良い事』とは言えないし、『良い一日だった』とも言えない気がした。
 だが、「いいこっただろうよ」、とケルビンは重ねて答えた。
「だれだか知らねえが、そのシュリって娘さんのおかげで庭は焼かれもせずに無事だったんだからな。しかも、珍しい株やら苗木やらが、ただで手に入ったんだ。いいことだろ?」
 それに、と言う。
「それに、王子さまだって、男であることにかわりないからな。好いた女のひとりでもできりゃあ、ちったあ落ち着きもするだろうよ。トカゲ族のお姫さまを嫁にもらうって話もあったけれど、よっぽどでなけりゃあ惚れた女の方がいいに決まってるしさ。それで腹もくくりもするだろうし。おまえだって、女房もらってそうだったろうが」
「まあ、そう言われると、」
 だが、シュリは魔女だ。正確には見習いらしいが。
 それがお妃さまになるってのはどうなんだろう、とエンゾは考える。
 いや、しかし、シュリが、『魔女になれないかもしれない』と悩んでいたことも思い出した。
 ひょっとしたら、そのこととなにか関係あるのかもしれない、と思った。
 そう言えば、とこの国の呪いを解くという話もあった筈だ。
「どうすんのかなあ……」
「なにが、どうするって?」
 ケルビンに問われて、思わずひとりごとがでていたことに気付いたハリネズミの庭師は、慌てて手を振った。
「いや、せがれ達に今日のことどう説明しようかなあって! ほら、うちのロンゾが最初みつけたし、心配しているだろうから」
 言い訳がましく取り繕えば、ああ、と納得したような返事があって、ほっと胸を撫下ろした。
 ハリネズミ族は、気配にも敏いが、聴覚も鋭い。
 ルーファスたちを案内している間、聞くともなしに聞こえていた会話もぜんぶ含めると、シュリのことを説明するにはむずかしすぎるから。
 どこから説明したらいいのかもわからない。
 そんなことを知らないケルビンは、エンゾのことばを真に受けて言った。
「そりゃあ、なんでもなかったって言えばいいだろ。多少、庭は変わったかもしんねえけれど、すぐにまた元通りになるだろうし、明日はきっと、チビたちもお零れのおやつがもらえるだろうってな」
「ああ、そうですね」
 エンゾのこどもたちは、くだものよりも、太ったカタツムリの方が喜ぶだろうけれど。
 だが、それよりも、遊び場が無事にそのまま残されたことをもっと喜ぶだろう。
 そう考えると、エンゾもやっと、よかったと思うことができた。
 こどもたちには、シュリのことをすこしだけ話してやろうと思う。
 精霊に愛される魔女見習いの女の子の話だ。
 おそらく、クレマンティスの話は、本気にしなくても面白がるに違いない。
 特に勇敢だったロンゾに。
 いっぱい心配させただろう罪滅ぼしの代わりに。
 そして、愉しそうなこどもたちの顔に彼の愛妻も安堵し、いっしょによろこんでくれるだろう。
 眼差しが明るさを取りもどし、優しさを思い出す。
「ああ、もうすぐやみそうだ」
 葉影から上を覗きながら、ケルビンが言った。
「今日は水やりも必要ないし、道具だけ片づけたら帰っていいだろう。疲れたしな」
「そうですね」
 待っているだろう家族の顔を思い浮かべながら、エンゾも笑顔でうなずいた。
 雨垂れの落ちる間隔が、またすこしゆっくりになった。

 ハリネズミ族の王宮専属庭師のひとりであるエンゾ。
 彼を表現するのに相応しい単語のひとつが、『マイホームパパ』。
 これ以上、コメントも必要ないだろう。
 彼は、幸せだ。
 青い鳥がいなくとも、それなりに。
 きっと、誰かが羨むほどには。



 ある意味、そうであろう者がぜんぜん関係ないところにひとり。
 溜息を吐きながら、窓ガラスの表面を伝い流れる雨の雫をながめている。
 書庫の片隅にあるカウンターの中。
 沈殿する知の空気に埋もれるかのような乙女がひとり。
 物憂げな表情と相まって、近寄りがたくさえある。
「フランツ……」
 しかし、口にするのは、滅多に会うことのできない恋人の名。
 ひとり世界をつくっている。
 残念というべきか。
 だが、よくしたもので、その程度のバリケードならものともしない強者が相方にいたりする。
「おおい、ダイアナぁ、ぼさっとしてないで、こっち手伝えよ! 大事な本がしけっちまう!」
「うるさいわね! そのくらいひとりでしてよ! 今、考え事してんだから!」
 逆鱗を掠めただけの衝動で、あっけなく世界は崩壊する。
 しかし、自分に非があることは、本人も自覚している。
 書庫の管理に、天気は関係ない。
 庭で起きた騒動も。
 そして、今はその仕事中だ。
「まったくもう、デリカシーのかけらもないんだから……」
 未練がましくぶつぶつと文句を言いながら、かけている眼鏡を押し上げ席をたつ。
 その左手の内側。
 ちいさな赤い魚が水を恋うように、尾をぴたぴたとはねあげた。




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