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 間が悪かったのは、どちらだろう。
 おそらく、両者共に、だ。
 それとも、気が合いすぎる、という言い方もできるかもしれない。
 両者共に否定するだろうが。
 ルーファスは、打ち付けた顔を左右に振った。
 額から流れ出る血が周囲に数滴、床に飛び散った。
「そんなに強く開けたつもりはなかったんですが。御典医を呼びますか」
 カミーユは慌てることなく言った。
 他の人物ならば放ってもおけないが、人並みはずれて打たれ強い彼女の主にはいまさらだ。
 もとより多すぎる血の気がすこしは抜けてましになるだろう、程度。
 この程度で騒いでいては彼女の身が持たないし、主もとっくにこの世に存在していないに違いなかった。
 案の定、「いらん」、とルーファスもぞんざいなほどに答えた。
「それより、魔女はどこにいる。まだ、厨房にいるのか」
「ええ、おそらく」
「そうか」
 頷いて廊下に出てくると、そのままずかずかと歩きはじめた。
「お待ちください」
 カミーユは引き留めた。
「急ぎ報せの件が。一旦、部屋へお戻りください」
 だが、
「あとにしろ」
 一言のもとに却下。
 歩みも止まらないどころか、いつもよりも大股の上、倍の早さで歩き続ける。
 その風圧だけで、そばの窓ガラスが、がたがたと震えた。
 カミーユは、その後ろに適当な距離をおいて追いすがる。
 しかし、と言いかけたそこではじめて、ルーファスが腹を立てていることに彼女も気が付いた。
 滅法。
 本気で。
 怒髪天に。
 男は背中で語る、とだれが言ったか。
 だが、ルーファスのそれは殺気限定かもしれない。
 シュリが言うところの、うようよでぬろんぬろんななにかがカミーユにも見えた気がした。
 ひぃ、と悲鳴をあげながら、すれ違った侍女が壁に張り付くのを横目で眺める。
 面白いぐらいに次々と、侍女も貴族たちも怯えの声をあげながら、道を譲るでもなく本能のみで壁と一体化していく。
 礼をとる余裕すらない。与えない。
 それだけ、いまのルーファスは凶悪化しているということだ。
 顔面、血まみれだし。
「……魔女にどんなご用で?」
「ぶっ飛ばす」
「やめて下さい。間違いなく、今度こそ城が壊れます」
 皮肉ではなく、事実を述べる。
 が、聞く耳なし。
 ルーファスは黙って厨房へ向かって足を進める。
「お待ちください!」
 ルーファスがこうなってしまっては、だれの言うことも聞かないことはカミーユにもわかっていた。
 だが、とめないわけにはいかない。
 宮殿東と南の間にある半地下へ下る階段を、中一段を飛ばしながら降りる。
 壁面が、磨かれた石のものからでこぼことした煉瓦に変わった。
 と、ルーファスが降りきったところで立ち止まり、急に振り返った。
 背後から近づいて来る、聞き覚えのある女の声にカミーユも気がついた。
「どこ、どこ、どこ? え、こっち?」
 誰かの案内を受けながら、場所をさがしている声だ。そして、
「お師匠さまあっ!」
 本日、なんどめになるのかその呼び声がして、モップのような銀髪の娘が同じ階段を駆け降りてきた。
「シュリ」
「シュリさま、どうしてこちらに」
 ふたり同時に声をかける。
 ルーファスは怪訝な表情を浮かべ、カミーユはルーファスをとめるために来てくれたのか、と一瞬、勘違いしそうになった。
 だが、シュリはふたりに答えるどころか目もくれず、階段を一気に駆け降りた。
 そして、厨房の扉に突進する勢いで開け放つと、大声を張り上げて叫んだ。
「師匠ぉっ! ダメですぅっ!!」
「なにが駄目なんだい」
 大広間ほどにも広い厨房の中ほど、釜の前で大鍋をかき回す男の横に立った祝福の魔女は悠然といった様子で答えた。
 シュリは髪の後ろで目を瞬かせた。
 いつもくしゃくしゃと流している魔女の黒い髪がなかったからだ。
 どうやら、結い上げて帽子の中におさめているようだ。
 めずらしい。
 髪をあげた姿など、養い子であるシュリも滅多にみたことがなかった。
 印象は、そう変わるものではないが。
「まったく、おまえときたらいつも騒々しい」
 香辛料が入っているのだろうちいさな壺を手にして文句がましく魔女に、シュリは落胆した様子でがっくりと肩を落とした。
「あああああ、遅かった……」
「なにが遅かったんですか?」
 シュリの不可解な様子にカミーユは訊ねた。すると、半泣き声が訴えるように答えた。
「師匠はもっのすごぉおく味覚音痴なんですよう。というか、精霊にはもともと味覚がないらしくて、師匠も必然的に味がどうかなんて区別がつかないみたいなんですう」
「そうなのですか」
「そうなんですよう。だから、師匠が作る料理はもんのすごくしょっぱかったり、火を吐きそうになるくらい辛かったり、頭が痛くなるほど甘かったりするんですう。おまけに、試しにとか言って、わけのわからないもの平気で入れたりもするし、おかげでなんど死にそうになったことか……」
「それは、それは、」
 同情の色を表面に浮かべながら、カミーユはこめかみに脂汗を滲ませた。
 なにを隠そう、魔女を厨房にやった張本人こそ彼女なのだから。
「きっと、きょうのご飯は食べないほうがいいですう」
 しょんぼりとうな垂れて言うシュリに、
「失礼なことをいうんじゃないよ」
「作ってる者を前にして、よくも言えたもんだな」
 と、男女の文句が重なった。
「全部、おまえを育てるために必要で覚えてやったことじゃないか。仕方ないだろう、これまで料理する必要もなかったんだし、味覚がなかろうと不自由はしなかったんだから。それを、二、三度、失敗したからってそこまで言われることでもないだろう」
 答えた女は、祝福の魔女。
「俺様の作った飯が食えねえわけあるかい。どこの娘かしらねえが、そういうことは食ってからいいやがれってんだ」
 答えた男は、隣りで休むことなく大鍋をかきまわしている。
 兵士とならんでも遜色のない体格の持ち主。
 赤銅色の太い腕は筋肉が盛り上がり、常に青筋が浮いている状態。
 鍋をかき回すたびに、ぴくぴくとどこかが動いている。
 肌色の衿のない丸首の半そでシャツは、汗でぴったりと張り付いて、上半身の筋肉を見せつけるかのようだ。
 頭は海賊のように布で一筋のこらずきっちりと覆われて、髪の色はわからない。
 だが、たぶん、短髪にしているだろう。
 顔に深く刻んだ皺からして、齢は五十かそこら。
 だが、その雰囲気には年齢にそぐわないほどの張りがあり、勢いがある。
 『どすこい!』、と言いたくなるほどの。
 ひと目見た感じでは、べらんめえ口調も手伝って、ならず者の親分といった印象だ。
「だって、本当に師匠の作ったものは、」
「俺様が自分の厨房で料理の腕も知らねえやつに口を出させるなんざあ、ありえねえ話だ」
 シュリの言い訳は、最後まで口にすることなく封じ込められた。
 その内容は、朗報ではあったが。
「じゃあ、師匠は料理に手を出してないんですか?」
「あたりめえじゃねえか」
「よかったあああ」、とおおきな安堵に、更にシュリの肩が下がった。
 ふかぶかと溜め息を吐きながら、魔女は男に謝った。
「すまない、大将、さっき話した私の不肖の弟子だよ。悪気はないんだ。気を悪くしないでやってくれ」
「ああ、森で育ったっていう雛鳥か。じゃあ、しょうがねえなあ」
 男は首にかけた手ぬぐいで顔の汗を拭いて答えると、シュリ達に向かって顎をしゃくってみせた。
「おい、おまえら、飯食わせてやるからそっちの嬢ちゃんのうっとうしい髪の毛をくくるなりしてやれ。鍋ん中に落とされちゃかなわねえからな。おい、だれか紐と頭巾をこの嬢ちゃんに渡してやれ!」
 いや、と答えたのは、ルーファスだった。
「俺はそっちの魔女に用があるだけだ。そいつを連れてすぐに出ていく」
「師匠に?」
 シュリが不思議そうに、隣りに来たルーファスを見上げた。
 そこで、やっと気がついた。
「あ、だ、大丈夫なんですかっ! そのおでこの傷っ! 手当てしなきゃっ!」
 慌てるシュリとはうらはらに、魔女は無関心にも、ええ、と嫌そうに答えた。
「あとじゃいけないかい。もう少しこの大将の話を聞きたい。いろいろと物知りだからな」
「食ってけ」、と魔女に大将と呼ばれた男は凄んでいると感じる強さで言った。
「なにがあっても、ちゃんと飯を食えと言っただろうが。ろくに飯を食ってねえからいらない腹も立つし、そんなロクでもねえ面にもなるんだ。せめて、そこにある手ぬぐいで、その血だらけの顔を拭け」
 知ったような言い方だった。
 ルーファスとは既知であるようだが、それにしても、王子と厨房に働く者とでは身分が違う。
 しかし、男はそんな身分の差などまったく頓着していないようだった。
「余計なお世話だ」
 がう、と噛みつくようにルーファスは答えた。
 それでも、近くに引掛けてあった手ぬぐいを取って、顔を拭いた。
 見た目ほどたいしたことがなかったのか、血はすでに止まっていた。
「いいから、食ってけ」
 一歩も退くことなく、男は重ねて言った。
「ここでの大将は俺だ。厨房に一歩でも足を踏み入れたからには、だれであろうと俺にしたがってもらう」
 と、有無を言わさぬ調子。
「殿下」、とカミーユが呼んだ。
「ここはおとなしく言うことをお聞き下さい。でなければ、契約違反になります。彼が臍を曲げて出ていったりすれば、明日の食事もままならなくなりますよ」
 現在、この厨房に務めている者たちは、『この男の下で働きたい』者たちが殆どだ。
 頭がうごけば、当然、尻尾もすぐにあとを追う。
 うう、と唸る声を発しながら、ルーファスは男を睨みつけた。
 そんな視線をものともせず、男は斜めに顔をあげたまま鼻で笑った。
「カミーユ嬢ちゃんは、そこんところちゃんとわかってんな。これからも俺様の飯が食いたければ、言うことを聞きやがれ」
 ルーファスはしばらくの間、男を睨みつけたまま動かなかった。
 しかし、その内、ふん、とひとつ鼻を鳴らすと、黙って厨房の奥に向かった。
「あのう、これ、よかったら使ってください」
 それを機に、ひとりの少女がシュリの元に走り寄って、髪を結ぶ紐と三角頭巾を手渡した。
「ありがとうございます。あとで返します」
 シュリが礼を言うと、「どういたしまして」、と年頃だろう少女は化粧っけもまったくない顔を綻ばせた。
「大将の作る料理は大陸一なんですよ。冷めてもおいしいけれど、やっぱり、あつあつが最高なんです。遠慮なく食べていってください」
「ありがとうございます」
 重ねて礼を言う横から、その大将からの怒号が飛んだ。
「おい、ヴィル! 南瓜の下ごしらえは終ったか!」
「はい! もうすぐです!」
 途端、背筋をぴんと伸ばした少女が、声を張り上げて答えた。
「だったら、急げ! その嬢ちゃんにパイシチューも食わせてやるからな」
「畏まりましたっ!」
 南瓜のパイシチュー。
 どうやら、それをシュリに食べさせてくれるらしい。
 シュリにとっては、未知なる料理だ。
 南瓜やパイやシチューを知っていても、パイシチューなどという小洒落た料理など、森の中に暮らしていては知る術もない。
 大将はシュリにむかって、にぃ、とした笑顔を向けた。
「楽しみにしていろ」
 細めた瞳は青く、愛嬌が覗く。
 それは、ドワーフのおじさんたちをシュリに思い出させた。
「はい!」
 『大変良くできました』の判子つきの返事。
 その後ろで、カミーユがシュリの長い髪を纏めようと必死に手を動かしていた。

 マジェストリア王宮で、唯一、ルーファスを従えさせることのできる男。
 ある者は、彼のことを『勇者』と呼ぶ。
 その実態は、厨房を預かるいち料理人。
 しかし、そこらの王宮料理人とはひと味ちがう。
 若き頃より東西の大陸を股にかけ修業をし、ありとあらゆる食材を知りつくす、美味を追究してきた男。
 あるときは、食材を得んがため、野にあってその身体、命を張りもする。
 体脂肪率一桁台の鍛え抜かれた肉体が、その証。
 まさに、鉄人。
 水にも浮かない。
 だが、食材確保のために水泳は超得意。
 同じ理由から、弓や剣、ついでに槍の扱いも超得意。
 同じ理由で、拳の威力も半端ない。
 料理一筋。
 人生をかけてきたといっても過言ではない。
 本日、ルーファスの指示以前から、厨房の者たちを率いて庭の実りの収穫の陣頭指揮をとったのも、この男。
 報告で叱られた、あの騎士をたらしこんだのも、当然、この男だ。
 生きた伝説。
 その手から作りだされる料理は大胆でありながら、舌に染み込むような繊細な味わい。
 素材の味を極限にまで引き出す、高度な技術と感性。
 ひとたびその味を口にすれば、すべての者に幸福をもたらし、深く記憶に刻みつけられる。
 故に、彼を招きたがる王侯貴族は数えきれず。
 あの料理を食せるならば、金貨をいくら積んでも惜しくない、と言わしめるほどに。
 その名を、エンリオ・アバルジャーニー。
 自ら最強を名乗る料理人。
 人呼んで、厨房の帝王……と言われているかもしれない。




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