機械的に手を動かす。
力をこめて、がしがしと。
始めた当初は、なんで自分がこんなことを、とむくれていたのだが、いまは気にならない。
飛び散る水や、呆れるばかりに周囲に山積みにされた調理器具も、似合わないとわかっているエプロンも。
それよりも、もっと気になることができてしまったから。
『普通』
エンリオ・アバルジャーニーに言われたひとことが、女騎士の頭の中でぐるぐると巡る。
そのたったひとことが、衝撃だった。
他の者にとっては当り前であるし、人によっては侮辱と受け取りかねない表現だ。
しかし、彼女にとって初めて言われたそのことばは、驚きと共に受け止められた。
これまでだれも、グロリアを『普通』と呼んだことはなかった。
親であっても。
普通じゃない、変、変わっている、並み以下、並み以上、その他もろもろ。
とにかく、普通とは反対を意味することばが、もれなくつけられるグロリアの形容詞だった。
彼女はそれを疎ましく思う一方、人とは違うことにアイデンティティとすこしの優越感を抱いた。
騎士になろうと思ったのも、それが大きく影響していただろう。
元から剣に憧れはあったし、そこら辺にいる男よりも力が強かったということはあったが、それでも『己はあくまでも女として普通である』という認識であれば、騎士を目指すことはなかったに違いない。
しかし、そうしてよかったと思っている。
家族の反対を押しきっても。
同じような境遇や嗜好、目的を持つ仲間にも会えたのだから。
『人並みの女の幸せ』とは縁遠くはあったが、数少ない女性騎士としての誇りもある。
だが、それとは別に、『もし、そうでなかったならば』、という思いがないわけではなかった。
ちょっとしたことで、封じたその思いを思い出す時がある。
いまのような時に。
彼女も恋物語をまったく読まないわけではない。
強く逞しく、不器用なまでに義と忠誠に厚く、一途に愛する姫を守る騎士の姿は憧れであり、彼女の理想でもあった。
同時に、そんな騎士に守られる姫を、密かに、ほんのすこしだけだが、羨ましくも感じていた。
しかし、断じてほんの爪の先程度、とグロリアは心の中で念押しをする。
仮にも騎士を名乗る者が、騎士たる者が……
がしがしがしがしがしがしがしがし!!
鍋が悲鳴をあげんばかりの強さでこすり上げられた。
なぜだ、という胸中の問いと共に。
なぜ、彼女よりも小柄なカミーユが、あれほどまでに腕がたつのか!?
それは、疑問であり、嫉妬を感じずにはいられなかった。
実際、カミーユは、ああ見えてもそれなりの剣の使い手らしい、という噂はあった。
だが、騎士団内のほとんどの者は本気にしていなかった。
カミーユは文官として有用だから王子の側近くに仕えていられるのだ、と誰もが言った。
いちおう腰に剣はあるが、あれは飾りだ、と誰しもが思っていた。
もちろん、グロリアも。
噂は、あくまでも、噂。
真実とはちがう。
実際、カミーユが剣を抜いたところなど、だれも見たことがなかった。
訓練場に来ても眺めているばかりで、身体を動かしているところを見たことがない。
ルーファスの行くところに常に付き添ってはいるが、そこでも指示を出すばかりで柄を掴むことすらしない。
あの、ドラゴン退治の時でさえ。
皆が、王子自らが必死で戦っている間も、ひとり冷めた顔で口を動かしていただけだ。
なのに、なぜ、あんな剣さばきができるのか。
ルーファスが本気でなかったにしても、なぜあれほどまでの攻めができるのか。
見事なまでのバランス。
素早さ。
力強さ。
どれをとっても手本となろうことは、グロリアでもわかった。
あの攻撃を彼女が受ければ、どうなるだろうか。
その疑問には、答えたくはなかった。
たとえ、口に出さずとも。
しかし、どうみてもグロリアよりも体格の劣る、普段から訓練も努力もしていなさそうな筈なのに。
同じ女で!
なぜ?
『非凡の才』
即座に、胸中が一言に答える。
それは、とりもなおさず、先ほど言われたエンリオ・アバルジャーニーのことばが己に相応しいものであることに気付かされる。
普通の枠から外れていることと、非凡であることは、けして同じ意味ではない。
如何に認めたくなくとも。
如何にこの時点で知りたくなかったとしても。
『普通』
ならば、これまで一体、己はなにをしてきたのか、なにをしているのか?
もうすこし、若ければ。
もうすこし、年を経て経験を積んでいたならば。
それでも、カミーユに剣で勝てるだろうか?
ふいに湧いてでた問いは、鍋の焦げ付きと共に根こそぎこそげ落とした。
半ば、自棄になりながら。
目の前の仕事に没頭する。
現実逃避だと自覚しながら。
そうせずにおれない時は、だれにだってある。
また、闘争心は男だけの専売特許ではない。
女の中にも存在する。
個を保つためであったり、目の前の敵に打ち克つためであり。
そして、できた山積みの副産物。
こなくそ状態で磨き上げられ、ぴかぴかになった鍋たち。
生産性のあるマイナス思考も有り得る、という証拠だ。
成した本人は、ちっとも望んでいないとしても得られるものはある。
したことに意味のないものなど、なかったりするものだ。
……そうでも思わないと、人間なんてやっていられない。