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 この世は不公平だ。
 唾棄したくなるほどに。
 なぜ必要としない者にばかり、彼女の欲しいものが与えられるのか。
 なぜ、他人には当り前にあるものが、彼女には与えられないのか。
 与えられるのは、屈辱ばかりだ。
 いまカミーユの胸の内は、吐きたくなるほどにむかついている。
 腸は煮えくり返り、火が吹けそうだ。
 なのに、なぜ涙がこぼれ落ちそうになっているのか。
 堪えるだけで、頭が痛くなりそうなくらいに。
 泣くわけにはいかない。
 泣くものか!
 裏切り者!
 と、叫ぶ心で己が主と呼ぶ男を睨み据えた。
 なのに。
「おまえは勘違いをしている」
 真正面から見下ろす視線には怒りも感じたが、どこかで呆れているようにもみえた。
 それがどうにも、より腹立たしい。
「なにが勘違いですかっ! 貴方が継承権を放棄すれば、アレクさまを傀儡に仕立てての強欲な貴族の思いのままに国が食いつぶされることは、目に見えてわかるでしょう!! 当然、貴方からはすべての発言力とこれまであった権限が奪われるにきまっています! あいつらは、己が利益を得るのに貴方がいちばん邪魔なんですから! そして、腐りきったところでシャスマールなり、オウガなり、他国に侵略されておしまいだ!!」
「そういうこともあるかもしれないな」
「だったら、なぜっ!?」
「その可能性もある、ということだけだ。しかし、他国の侵略はない。させないからな」
 ゆっくりと、力強い声が答えた。
「一国を治めることが容易ではないことは、おまえも身に沁みてわかっている筈だ。しかも、このマジェストリアの民相手に。一部の貴族の思惑のまま、黙って食いつぶされるだけの者たちではあるまい。表面上をとりつくろったとしても、すぐに底もしれるだろう。俺もこれまでに、王位継承者としてそれなりに信頼を得てきたつもりだし、それなりの働きをしてきたつもりだ。俺がいなくなったところで、まだ、母上もおられることだし、そこまで好きにはできないだろう。多少、あらっぽいことにはなるだろうが、一時的に王位を渡したところですぐに取り戻せる自信もある。それまでの間に、いまある問題のひとつでも解決されれば上出来だろうし、そうでなくとも、それを機に溜まっていた膿を出せれば、後片付けも楽だ」
 細く、ひやりとした冷気が、火照った脳髄に流れ込むのをカミーユは感じた。
「……それで失われるだろう人材の穴埋めは」
「募れば、成り手はそれなりにいるだろう。何年かはわからないが、そう長い時間ではない。俺自身も、その間、ただ無聊を囲っているつもりはない。それこそ、旅に出るのもいいだろうな。信頼できる人材を探すついでに、他国の動向や状況をさぐりに。いちどは、気兼ねなく自由に自分の目で見ておきたいと思っていた。その間、おまえには不自由もさせるだろうが、人材確保と下準備を進めることに異存はなかろう。どうせ、そうする暇もあるだろうしな」
「……シュリさまは? シュリさまはどうされるのですか」
 黒い女の隣りで、黙って様子をうかがっている銀髪の娘に視線を流す。
 なんの話かわからない、と言った風に不思議そうな表情を浮かべている。
 そんな些細な表情も、同性であるカミーユの目にさえ愛らしく映る。
 それが、なんとも憎たらしく感じる。
 おなじくクラディオンで両親を失った娘。
 魔女に守られ、精霊に愛され、大切に育てられてきた。
 人としての愛情は不足だったかもしれないが、不当に傷つけられることはなかった。
 物質的な不足はあっただろうが、不自由を不自由と感じない自由を得てきた。
 なにも知らず、あるがままに生きていられる娘。
 なにも欲せず、なにもせずとも、人として生きるすべてを与えられてきた。
 そして、いまも無条件に愛を与えられている。
「森に帰す。それを望んでいるのならば」
 黒い瞳にカミーユに向けられるものとは異質の情熱を湛えながら、先程と同じ答えが繰返される。
 しかし、となかったことばが付け足された。
「森に帰した上で、改めて口説き落とす」
「は?」
 当の娘が疑問の声をあげた。
「いまのどういう意味なんですか、師匠?」
「あの男は、おまえを番の相手にしたいということだろう」
「番って……ええええええええええっ!! わたしに子供を産めってことですかあっ!?」
 絶叫に近い声があがった。
 涙くん、さようなら。

 ――『番』いうな!

 条件反射的に、カミーユは心の中で突っ込みをいれていた。
 まったく、魔女とこの娘は、繁殖だの番だのと、表現が直裁的すぎる。
 しかし、やはり、シュリがまったく気付いていなかったことを改めて知った。
 あれだけアプローチしていたにも関らず。
 目の前の主である男が、すこしだけ気の毒に感じた。
 だが、それも一瞬だけのことだ。
「そうするだけの時間もたっぷりあるだろうからな」
 ルーファスは師弟の会話など意に介さない様子で、不敵に笑った。
 都合の悪いことは聞いていないだけだな、と思わず半目にもなる。
「驚くことのほどではあるまい」、と同時に祝福の魔女も、驚き続けるシュリと話している。
「動物たち同様、人も生の流れにあるものなれば、そういう気持ちが起きるのも不思議ではあるまい。そのための手順を、あの男は踏むと言っているんだ。なに、嫌ならば、断るか、逃げるかすればいい。最終的に番の相手を決定するのは雌の方だ。そう教えただろう」
 ついに、メス扱いだ。
 動物とはちがって人間はそう単純にもいかず、必ずしも当て嵌まるものではないだろう。
「確かにそう教わりましたけれど、ええええええ!? でも、わたし、子供の育て方なんて知らないです。師匠だって教えてくれなかったじゃないですかっ!」
「なに、王子の子であれば、黙っていても、だれかかしら世話をしてもらえるし、そうでなくとも、なんとかなるものだ。それに、おまえが育ってきた時のことを思い出せば、自ずとわかるだろう。私もおまえを育てた時は、右も左もわからなかったが、なんとかなった」
「ああ、そっか」

 ――納得するなーーーーっ!!

 だが、ある意味、お似合いなのかもしれない、とも思った。
 マイペースといえば聞こえは良いが、後ろ足で他人の迷惑や常識に砂をかけまくって、まったく気付いていないところなどは共通するところだろう。
 このふたりの間に産まれる子は、さぞかしワイルドに育つにちがいない。
 とても傍迷惑な子になること請け合いだ。
 その子が物心つく前に、とっとと隠居することを考えた方がよさそうだ。
 しかし、恋だの愛だのから、なんとほど遠い会話か。
 これをルーファスは口説くというのだから、無茶にも聞こえる。
「無理矢理に、の言い間違えではないんですか」
 カミーユは皮肉を籠めてルーファスに答え返すと、
「バカ言え。クラディオンの大馬鹿野郎どもといっしょにするな」
 と、途端に気を悪くされた。
「即物的に嫌がる女を手篭めにするなどいう輩に、同じ男を名乗られるも胸くそが悪い! 目の前にいれば、そっ首、叩き斬ってくれる! そんなやつはなんだかんだ言い訳したところで、己が大事なだけだろうが。どう愛をほざこうが、女を物扱いしているに過ぎん。本気で欲しい女ならば、口説いて、口説き倒して、最後には己から身を差し出すまでに惚れさせるまで口説く。それが男に生まれた醍醐味ってものだ。そうしてこそ、女も一生を共にしようって気にもなるし、他の男に目移りもしまい。それができない、したくないのであれば、金を払って娼婦を相手にすることだ。そうすれば、不幸になる者を増やさずにすむ」
「それでも振られることだってあるでしょう。その時はどうするんですか?」
「潔く諦めるか、不本意ながらも他の女で間に合わせるか、それでも諦めきれない場合は、口説き続けるしかあるまい。女に言い寄る他の男を蹴散らしてでも。俺はそうはならないがな」
 心底、呆れた。
 やはり、魔女も主も負けず劣らずどうかしていると、カミーユは思った。
 なんだ、その清々しいばかりのきっぱり感は。
 粘着質であることを、堂々と公言してどうする。
 嫌われたくないのであれば、すこしは遠慮するのが筋というものだろう。
 だが、そんな気をつかう素振りもない。
 なんで、ここにはこんなやつらしかいないのだろう。
「いい機会だから言っておくが、おまえは、ことクラディオンに関して過敏すぎるきらいがある。自意識過剰というべきか。自己憐憫したくなる気持ちもわかるが、ほどほどにしておけ」
 『おまえに言われたくないわ!』、ということばは敢えて呑み込む。
 なんで、こんな注意まで受けなければならないのか。
 こんな、デリカシーが裸足で逃げだすような男に。
 腹を立てるを通り越して、恥だ。
 だが、今更なのだろう。
 ルーファスはこれまで、口にしたことは必ず実現させてきた。
 無茶を承知で。
 無理を通してでも。
 糸がひくほどに、しつこく粘り倒して。
 カミーユたち部下がどれほど苦労しようが、泣こうが、お構いなしに。
「俺は、なにひとつ捨てる気はないぞ。おまえのことも」
 挑む瞳が言う。
 挑戦されても困る。
「おまえがどう思っているかは知らないが、俺はおまえのことを実の弟よりも兄妹のように思っている。多少の意見の違いはあっても、その能力も含めて、これからもなくてはならない存在だと思っている。多少、手を離れることになったとしても、すぐに取り戻してやる。だから、俺におまえを失わさせるような真似はするな。これまで通り、俺を信じていればいい」
 なんと勝手なことを抜かしやがるか!
 妹と言うのであれば、もうすこし扱いを弁えても罰があたらないだろう。
 ああ、そういえば、こういう人でもあった、と重ねて思う。
 幼いころより。
 高いところは苦手だと言っているのに、ひとりじゃつまらないからと木登りに付き合わさせられたり。
 逆恨みされるのが嫌だと訴えても、意地悪な貴族への報復の片棒を担がされたり。
 面倒だと思いながらも、ルーファスにまとわりつく貴族の子女を引き離すための悪知恵を巡らせたり。
 ずいぶんと世話を焼かされた。
 しかも、同じようなことでも、規模や難易度が年々アップグレードしている。
 騒々しさも。
 お陰で、このうえなく鍛えられた。
 他の者が慌てふためく中、ひとり平然としていられるぐらいには。
 ……けっして鈍感になったわけではない、と思いたい。

 ――今度、給金の値上げを要求してみようか。

 おそらく、駄目だろうが。
 それでぶつぶつ文句を言いながらも、不思議と最終的には、仕方ないな、と命に頭を縦に振っている自分がいた。
 立場を確立するためにも多少の我慢は必要だ、と己に言い聞かせながら。
 いや、多少、ですむかどうか。
 それでも、己の主張を通す方が、遥かにより面倒であったりするのだから。
 身を守るためには、ほかに選択の余地がなかったこともある。
 ここは大人になって、ひまひとつの我慢と辛抱、そして、打算。
 本当にろくでもない。
 しかし、現在のカミーユがあるのも、ルーファスがいてこそであることは否定できない。
 もし、ルーファスが物分かりのよい、べたべたに甘やかすタイプの庇護者だったら?
 ……想像するだけで、反吐が出そうなぐらいに気持ちが悪い。
 そう考えると、忌忌しいことに、カミーユはいまある自分自身を嫌いでないことに気付かされる。
 なにも出来ずに、ただ涙をこらえることが精一杯だったころに比べて。
 有無を言わさず、理由もわからないまま両親から引き離されて抵抗できなかった時にくらべれば、すこしはましになったと思えるから。
 引き換えに、都合の良いように使われている感もなきにしもあらずだが、それでも彼女との約束は守られていた。
「……御意」 
 頭を垂れる。
 いつものように。
 とりあえずは従っておこう、ぐらいの気持ちで。
 もうすこしの間だけ。
 次の、利用のし甲斐のある、いまより少しはましな主をみつけるまでは。
 或いは、平和で悠々自適な隠居生活を送れる目処がたつまでは。
 溜め息を吐きつつ。

 ――ああ、馬鹿馬鹿しい。

 カミーユはうな垂れた。
 己は、いったい何に怒っていたのか。
 真面目に取りあうのも阿呆らしい。
 ここは今まで通り、利用できるところはして、隙間をぬって己の目的を達成するために自助努力をするのが賢明というものだろう。
 そう結論づける。
 と、そういえば、と女王陛下がレディン姫を追い返すについては、いっさいを引き受けることをカミーユは思い出した。
 レディン姫さえいなくなれば、ルーファスが王位継承権を放棄する必要もなくなる。
 あとは、魔硝石の確保さえ考えればいいだけのことではないか。
 久し振りの、つい、うっかり。
 一緒にいて、馬鹿がうつってしまったか。
 ますます、己の怒りに意味がなくなったことに、肩も落ちる。
 だが、なぜだろう。
 あれだけ大変だと思っていた問題が、そう大したことでもないような気がしてくる。
 なんとかなるか、とさえ思えてくる。
 しかし、せめて、これ以上の失態を重ねないように、今の内に伝えておくべきだろう。
 明日から城を離れるよう命じられたことを。
 そして、口を開いたその時、
「ああ、無事に話もついたようだな」
 エンリオ・アバルジャーニーが戻ってきた。
 



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