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 黒の娘は心持ち、口調もゆっくりと言った。
「そうだね。ディル・リィは納得していた。娘の心がディル・リィに渡されたことで、ザムドに対する気持ちもすこしはあっただろう。ディル・リィは魔女である私に、ザムドとの間柄を『共犯みたいなものだ』と言っていた」

 ――私とあの人は、貴方を介して共犯みたいなものなの。私もあの人も、人であった頃の貴方を忘れられないでいる。永遠に貴方を失ってしまったことを悔やんでいる。まるで、心の一部が欠けてしまったかのよう。貴方の心をもらっても、まだ足りない。あの人は、そんなことを絶対に口にしないでしょうけれど、私にはわかるの。だって、貴方は私たちにとって特別な存在だったから。でも、貴方が傍にいる時にはそれが当り前で、人である貴方という存在がひとりしかいないことに気付いていなかったの。どんなに大切だったのか気付かずにいたの。ばかね。貴方は自分を犠牲にするほどにまで、私たちのことを思ってくれていたのに……今更、貴方に謝っても許されるものではないのだけれど、ごめんなさい。いまならば、わかる。大好きだったわ。貴方がいなくて、とても寂しい。私を、私たちを許して……

「目的地の魔女の家に辿り着いた娘とディル・リィは、ふたりともそこで初めて、己が何者でどういう運命《さだめ》にあるのかを教えられた。特にディル・リィは、そこから人としての自覚を得ることとなった。本来の人の姿を取ることを覚えた。思い出したというべきか。そして、いてもたってもいられなかったのだろう。ディル・リィは兄のシュナイゼルに会いに行くために、娘になにも言わず、ひとり旅立った。残された娘は、ザムドのもとへ戻ることにした。ディル・リィが向かったかもしれないと思ったからだ。その時、シュナイゼルが立ったことで国へ反旗を翻す者が増え、形成は一気にシュナイゼルとザムドの方へと傾いていた。シュナイゼルとザムドは兵をわけ、王都を目指し、つぎつぎと砦を落としている最中だった。だから、娘とディル・リィはそこで道を違えた。その後、ふたりが人として出会うことはなかった」
 そんな、とシュリの呟く声がまじった。
「戦の最中、あちこちの道が封鎖されていたこともあって、結局、娘がディル・リィに追い付いたのはロスタの王都で、すべてが終ったあとだった。ティダルの禁忌魔法を止めるために魔力のほとんどを使い果たして柩に横たわるディル・リィと、ザムドもシュナイゼルもそこにいた。彼らの話によれば、ディル・リィはシュナイゼルと無事に合流できたようだ。王女であるディル・リィが戻ったことに兵たちの士気はますます高まった。しかし、最後の最後でディル・リィが犠牲となったことに、みな悲しんでいた。勝利の喜びさえもかき消すぐらいに」
「ザムドさんは、その時、なにか言ったのですか」
 顔をしかめる銀髪の娘の質問に、黒の娘はすこしだけ口の端をあげた。
「そうだね。腹を立てて悔しがっていた」

 ――まったく! ここまで来て、とんだヘマをやらかしたもんだ。王女さまを死なせたことで、戦を起こした意味が半分はなくなったことになる。しかも、滅多にみられない美女を! 勿体ないなんてもんじゃねえ! 王女さまさえ手に入れられれば、欲しいもんのすべてが手に入ったも同然だったってのに! まったく、腹が立つ!!

「それをおまえ、人だった頃の娘とやらに言ったのか? 我が祖ながら、呆れるな」
「本当に。呆れるほど愚かですね」
 口々に罵倒するルーファスとカミーユに、魔女の娘は表情を変えなかった。
「そう言ってやるな。ザムドもまだ知らなかったんだ。娘とディル・リィが対をなすものであり、まだ娘がディル・リィを救う可能性があることをな」

 ――じゃあ、ディル・リィが生きていれば、ザムドは幸せ? みんな幸せになれるの?

「その問いに、ザムドが否定するわけもない。『祝福の魔女』は、すべてに祝福を与えることを役割とする。娘は先代に骨の髄まで教えを叩き込まれていた。本来は精霊に働きかけるものではあるが、その時はまだ人であった娘にとって、人も含めて考えるのは自然のことだったろう。そして、皆に祝福を与えた。そして、私は私になった」
 黒の娘はそこで、また元の姿に戻った。
 誰が見ても美しいと言うだろう黒の女の姿に。
「……おまえを見て、我が祖は腹を立てただろう。それまで以上に」
 ルーファスの問う声は、思いのほか穏やかなものだった。
 そうだな、と答える声も静かだ。
「この外貌に、最初は喜んだかな。だが、すぐに中身が変わっていることに気付き、火がついたように怒りだした。息を吹き返したばかりのディル・リィの前で、娘を戻せとさんざん罵られたよ」
「だろうな。しかし、それでも欲しがったか。どんな形であれ、既に求める娘でないとわかっていても。身体だけの関係をもったところで虚しくあったろうが」
「自業自得でしょう。心の底では憎からず思っていた娘を外見や利用価値で判断したことで、失ったのですから。同情の余地はありませんね。とは言え、仕方ないものでもあったでしょう。美しい王女と平凡な田舎娘のどちらかと言われて、選ぶまでもないでしょう。野心があれば、当然」
 カミーユの溜息が流れた。
「しかし、ディル・リィ=ロサ王女はそのことを?」
「知っていたよ」
「怒りはしなかったのですか」
「あるはずもない。ディル・リィから頼まれてのことだったからな」
 カミーユは、一瞬、目を瞠った。
「それはまた、思いきったことを」
「魔女となって子をなすことのない身体だ。行為自体になにも支障はない。すくなくとも、私の方で情をうつすこともない。それもあっただろう。先ほど聞いた話では、もともと大した意味もないようだし」
 答える方は、涼しい顔だ。
「しかし、もとよりザムドの失ってからの娘への執着は知っていたし、けじめをつけさせるためにも必要だと思ったようだった」
「いつ関係をもった」
 ルーファスの問いには、「ふたりの婚礼の前夜だ」、と魔女は答えた。
 ふん、とルーファスはせせら笑った。
「王女を娶っては、他の女との浮気も許されないだろう。隠したところで噂にもなろう。噂にもなれば、兄であるシュナイゼル王が黙ってはいまい。他の奴等もな。いくら功績をあげたとはいえ、生まれ育ちの悪い傭兵崩れが力を持つことに、面白く思っていなかった者も多かったろう。すこしでも追い落とす機会があれば、見逃すことはなかったろうな」
「それらしいことも言っていたな。ディル・リィも人であることに慣れない身だったし、後から知ったことだが、結局のところ、お膳立てしたのはシュナイゼルだったようだ。シュナイゼルもザムドを必要としていたからな。民衆の心を掌握するために、とか言っていたか。そういうところで、ディル・リィも複雑そうだった」

 ――人の心は複雑だわ。正直に言えば、精霊だった頃のほうが楽だったって思うことも多いのよ。時々、しっくり来ないし……身体と心がちぐはぐに感じたりするの。いまもそう。そうするのが、あの人のためにもいいだろうとわかってはいるのだけれど、貴方だった頃の心が嫌がっているみたい。おかしいわね。貴方はもうひとりの私でもあるのに、悲しいし、憎たらしいと思ってしまっているのよ。でも、逆に嬉しかったりもするの。あの人が、貴方をいまだ求めてくれることを。こんな気持ち、精霊だったら持ちえなかったわ。そう思うと、とても愛しい。貴方の育ててくれたこの心が愛しくて、こんな気持ちも大事にしたい。きっと、これからもっと素敵なことがあるわ。苦しくて、辛いこともあるでしょう。これからは、私がこの心を育てるの。必ず幸せになるわ。貴方のためにも、貴方のぶんまで。そのうち、あの人も気付いてくれるでしょう。貴方だった心がここにあることを……

「それで? 一晩ともにすごして、我が祖の方は納得したのか」
「納得したのかどうなのか。することだけして、ひとりで勝手に腹を立てて部屋を出ていった。あとからディル・リィから聞いた話では、婚礼の最中もずっと不機嫌だったそうだ。だが、その後、二度と娘を戻せと絡まれることはなかったな。罵られることはあっても」
「だろうな」
「師匠、師匠は人であった時は、なんと呼ばれていたのですか。名前、あったのでしょう?」
「ヴィーと呼ばれていた」
 弟子の問いに、祝福の魔女は声音も柔らかく答えた。
「ヴィー……」
「真名をヴィランダ。ヴィランダ・ディル・リィ=ロサ・ド・ロスタのヴィランダは、もとは娘の名だったものを、人として生きることになったディル・リィが己の名とした」
 ああ、とカミーユが、なにか思い付いたように声にだした。
「そういう謂れでしたか。我が国では、ディル・リィ=ロサ王女にあやかって、産まれてきた娘に美しく皆に愛される子になるよう願いをこめて、いまでもその名をもじってつけることはよくあります。ディル・リィ=ロサの名ではあからさま過ぎますから。王妃さまもそうですね、ヴィスタリア。他にも、ヴィクトリア、ビストリア、ビラディス、ヴィルディア……そういえば、国王陛下もそうでしたか、男性では珍しいですが。先祖の名のいただく名にビステリアと、」
「親父のことはいい。祖父か祖母がつけたか知らないが、よりによってその名とは。けったくその悪い」
 不機嫌な声でルーファスが遮った。
「しかし、ヴィーかヴィランダだかの魂は、ディル・リィ=ロサ王女に移されたのだろう。我が祖もそれで納得すればよかったものを」
「ああ、最終的にはな。ザムドもディル・リィの中に娘の面影をみつけたことで落ち着きもしたようだ。いつからか、ディル・リィをヴィーの名で呼ぶようになっていた。それにしても、それなりの時がかかったが」
 魔女は言うと、ふ、とルーファスを見た。
「すまないが、もうひと度、娘の名を呼んでくれないか」
「どうして」
「いや、大したことではないのだが、頼む」
「……ヴィー。ヴィランダ」
 棒読みに近かった。
 女の黒い双眸が、閉じられた。
 ああ、と感慨深げな溜め息ももれた。
「なにかあったか」
 ルーファスが問えば、魔女は目を開き、幽かな笑みを浮かべた。
「久しくなかったが、いま私の中の娘の記憶が震えたよ」
「記憶が? 震えたとは」
「ああ、娘の記憶の中にごく僅かな異物……残滓のようなものがあるらしくて、それがなにかに反応して、ごくたまに揺れるような感じがあるんだ。ここに魂はないのに。不思議なことだが」
 黒いドレスの胸元に手があてられた。

 ――ヴィー、ヴィー……応えろ、そこにいるんだろう? 俺を感じているのだろう? 俺を見ろ! 応えろ、ヴィーッ!!

「いままで気付かなかったが、おまえの声はザムドのものによく似ている、とても。名を呼ばれてわかった」
 女の黒い瞳から、はらり、と雫がひとつだけ零れ落ちた。
 嘆きも、喜びもなく、ただ流れ落ちて消えた。
「……そうか」
 その心は、いったい誰のものか。
 誰にもわかるものではなかったが、間違いなくそこに存在していた。
 永遠に近い時をすごす魔女の中に確かにある、もうひとりの存在。
 黙祷に似た沈黙の時を割って、祝福の魔女は言った。
「私は、私の器となった娘の記憶と私がこれまで経てきた事柄を踏まえて、シュリを育てた。それがあるから、必ずシュリを魔女にすべきだとは思わないし、しようとも思っていない。その時がきてどちらを選ぶかは、シュリ本人であるべきだと考えている」
 そして、養い子であり、弟子である娘の顔をみつめた。
「シュリ、おまえはいま、どうしたい?」
 



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