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 とは言え。
 ぐずぐずと愚図っている間にも時は過ぎ、出立の時間になった。
 シュリは師と共に荷物を持って、迎えに来たカミーユの後をついていった。
 後ろからは、シュリの身の回りの世話と護衛をしてくれるというグロリアさんがついてくる。
 部屋の外に出るとすぐに、王宮の様子が昨日とはすこし違っていることにシュリも気がついた。
 廊下から眺める外の様子は、べージュ色の枯れた葉の色が目立って見えた。
 あれだけ綺麗に咲いていたバラの花も、その間に埋もれて色褪せて見える。
 半分ちぎれかかった同色の蔓が、あちこちにぶら下がって揺れている。
 なんとも、みっともない。
 秋も終りの風景に似ていないこともないが、少なくない緑に枯れた植物が覆い被さっている様子は、風情も感じず、無精の成れの果てとの印象も受ける。
 様式美を重んじる王宮にあっては、実に、なっていない状態。
 そして、そんな庭の様相もさることながら、最も違っているのは人の多さ。
 年齢性別を問わず、大勢の人が庭に出て片付けを行っていた。
 今日の夕方にトカゲ族のお姫さまが来るので、急いで片付けなければならないらしい。
 皆、声をあげながら、絡みつく蔦を引っ張り、枯れ草を引っこ抜き、刈り取っている。
 姿は見えなかったが、おそらくエンゾもその中に混じっているのだろう。
 あちこちに、こんもりとした干し藁のような山が、いくつも出来上がっているのが見えた。
 シュリは廊下を歩きながら、視線を床に落とした。
 昨日、具体的になにがあったかは、昨晩の内にシュリも聞いた。
 誰が悪いというわけではないと師は言い、シュリも叱られることはなかった。
 だが、彼女の行動に原因があったことは、自分でもよくわかっている。
 それで、これだけ大勢の人に迷惑をかけてしまっていることも。
 勇ましいばかりに得物を携えた侍女たちの列と擦れ違った。
 笑っている人はひとりもいなかった。
 ぴりぴりとした空気が、肌に突き刺さるように感じて、ますますうな垂れた。
 祝福の魔女の弟子を名乗るのも恥ずかしく、情けない気分だ。
 心がしおしおと萎んでいく。
「フラベスの何処に滞在することになるんだい」
「夏の間の避暑用の城がありますので、そちらに」
 師匠とカミーユは、いつの間にか仲がよくなったようだった。
 並んで歩く白と黒の対照的な色のふたりの背中を見ていると、シュリはまた少し、悲しくなった。
 独り立ちを言い渡されて、森の家でひとりぼっちになった時の気分に似ていた。
「ふうん? あんなところに城なんてあったかな」
「ええ、城と言っても、貴族の屋敷とそう変わらない規模のものですから。海を望む高台にあるので、眺めは宜しいかと」
 海!
 途端、シュリの心に一陣の潮風が吹き込まれた。
「わたし、海を見るのはじめてです」
 思わず口走ると、黒いドレスの背中が振り返った。
「そうだったかい? 連れていったことはなかったかな」
「ないと思います。記憶にないです」
 広くて、大きい水溜まり。想像もつかないほどの。
 シュリの海に対する認識はそのくらいだ。
「そうだったかな……ああ、そうか、一度、赤ん坊の頃に連れていったきりだから。だから、覚えてもいないのだろう」
 そんなことは、はじめて聞いた。
「赤ん坊の頃、原因もわからず、あんまりぎゃあぎゃあ泣き続けるものだから、寝かしつけるのにウンディーネを頼ったことがあった。その時だ。ウンディーネたちもてこずってはいたが、お蔭でなんとかなって助かった」
 ウンディーネ。海の乙女たちだ。
 美しい歌声で船に乗る男たちを誘惑し、海に誘い込む。
 赤ん坊だったシュリについては、子守歌になったようだが。
 カミーユが驚いた声で問う。
「ウンディーネは実在するのですか」
「ああ、フラベスにはいないよ。もっと、北の方。シェガラストにある半島の先端あたりだ。数は少ないが」
「シェガラストというと、ハルレシオン国領ですね。初耳です」
「あそこは水の豊かな地域だからね。水棲の民が支配しているだけでなく、水の精や、それに属するものたちがよく集まっている。この辺りでは見かけないものも多くいるよ」
「へえ。あの国はレンカルトほどではありませんが、船による貿易が盛んですね。尤も、沖合いに出るのはいくら水棲の民と言えど危険なので、陸沿いの近海を航路としていますが、それでも造船技術や長距離航行の方法など、他国にはない技術をもっている。主に真珠を取り扱っていて、この国の港にも、定期的に貿易船が寄港しています」
「ああ、ウンディーネの狙いも、殆どがその貿易船だ。あの辺りは島が多く、深さもまちまちだ。ウンディーネたちにとっては、良い住み処だよ。その点、フラベスの辺りは、船っていっても、磯に近いところで魚を捕るぐらいのちいさなものばかりだろう。ウンディーネたちも歌う甲斐がないってものさ。それに、あの辺の海は、巨大蛸の縄張りだから」
「巨大蛸っ!? そんなものがマジェストリアの海にいるのですか!?」
「巨大蛸ってなんですか?」
 カミーユは驚きの声をあげ、シュリは首を傾げた。
 海から遠く離れた森に住まうシュリには、海洋生物は未知の生き物だ。
 名称すら殆ど知らない。
「巨大蛸と言うのは、大きな蛸のことで、」
 カミーユが説明するも、そのまんま。
「蛸?」
 わかる筈もなく。すると、
「面白そうな話してんじゃねえか」
 と、いきなり合流してきたのは、エンリオ・アバルジャーニーだった。
「巨大蛸か。いいねえ、カルパッチョにするか、出汁とって魚介スープに使うか、」
「大将、あんなものを捕まえて食べる気かい? やめておいた方がいい。とても人の敵う大きさじゃないし、見た目もグロテスクだ。それに、近海と言っても、大抵は岸から随分と離れた沖合いにいる。深さが必要だから。だから、行くだけで難儀だし、見つかった時点で船を引っ繰返されて、逆に餌にされるがおちだよ」
「なあに、なんでも食べてみなきゃ、味はわかんねえよ。足一本だけでも充分だ」
 と、突然、会話を断ち切るように、カミーユがエンリオ・アバルジャーニーに向かって冷たく問いかけた。
「それで、その荷物はなんですか」
 それは、荷物と言ってよいものか。
 背にはなにが入っているのか、ぱんぱんに物が詰め込まれた巨大リュック。
 右手に銛と釣り竿。左手に鉄鍋。
 そして恰好と言えば、いつもの衿のないぴったりとしたシャツに、膝丈の短パン。
 思ったほど、脛毛が濃くないのが幸い。
「ひょっとして、同行するつもりですか」
「おお、ひょっとしなくても、そのつもりだぞ」
 半目になる男装の麗人に、大男は胸を反らすように答えた。
「なに言ってるんですか、本日からレディン姫がいらっしゃるというのに。食事はどうするんですか」
「ああ、心配すんな。姫さまは草食だそうだ。トカゲ族は、塩とか砂糖とかのスパイスも受け付けねえから、そこらにある野菜を千切って、それらしく飾りつけてしまいだ。昨日、採った果物やらもあるしな。俺が手をかけるまでもねえ。下っ端の連中だけでも、なんとでも出来らあな」
「姫君はそうでも、お付きの者たちがいるでしょう。その方達も同じなんですか」
「いや、兵とかは肉食ばっかりだとさ。だが、こっちもスパイスいらずで、嗜好からいって肉も殆ど焼く必要はねえ。塊ぶった切って、皿の上に置くだけで充分だ」
「しかし、陛下や王妃さまもいらっしゃいますし、他の者たちはどうするんですか」
「問題ねえ。陛下たちは節食中で、凝ったもんよりも、あっさりした素朴なもんがお好みだ。それに、弟子たちだけで充分やれるよう普段から仕込んであるからな。心配ねえ。連中も張りきってるぜ」
「そう言いつつ、単に気晴らしをしたいだけなんじゃないですか」
 その切り返しには、がはは、と笑い声がたった。
「それもあるが、それよりも問題は半月後だ。各国の王族やらを招いて、ルーファスの婚約披露の宴だかをやるんだろ。となると、食材が足りねえ。今から準備しておかねえと間に合わねえんだよ。なにせ、種族ごとに食べられるもんと、食べられないもんがあるからな。量も必要だし、質の良さも見極めなきゃなんねえ。勿論、値段も。これも立派な公務だろ。時間と経費の節約にもなるし、ついでについていったって、文句はねえだろう?」
 あああああ、とカミーユが敵わないと言った風に声をあげた。
「わかりました。そういうことなら仕方ないですね」
「おう、おまえらには、あっちで美味いもん作って食わせてやるから愉しみにしてな」
 どうやら、急遽、同行者がひとり増えたらしい。
 相変わらずシュリには、蛸がどんなものかわからなかったが、エンリオ・アバルジャーニーの口振りからすると、食べられるもののようだ。
 それはそれで、愉しみだ。
 もし、捕れたら、の話だが。それでなくとも、どんなものなのか見てみたいと思う。
 未知なるものへの好奇心と食欲。
 本能的なものとはいえ、それだけでシュリの憂鬱は霧散していた。
 忘れた、とも言うけれど。
 なんにせよ、それはそれで良かったと言えるだろう。
 気鬱や心配は、いまの彼女にはなんの役にも立たないものだから。

 転移用の陣の使用は、王族か、王族の許可を得たものに限る。
 しかしながら、現時点での利用者は、専らルーファスばかりだ。
 王様や王妃様が、そうほいほい出掛けられるものではないから。
 だからといって、普段は陣の間が閉めっぱなしになっているかといえば、そうではない。
 人以外のもの――様々な書状、物品の受け渡しに使われている。
 例えば、ダイアナのラブレターや、エンリオ・アバルジャーニーの注文した食材などもそれに含まれる。
 もっと重要なところでは、政治に関る連絡や、地方からの陳情書や報告書など。
 使いを走らせるよりも、ずっと早くて、安全だから。
 おなじく方陣のある各砦から、また、経由して、王宮に運び込まれる。
 だから、マジェストリア王宮は国内のさまざまな出来事を把握していられるし、素早い対応も可能。
 つまり、この魔方陣はマジェストリア王宮の流通と通信の大動脈と言える。
 だからこそ、ルーファスは解呪を断念もしたわけだ。
 そして、朝から昼にかけてのこの時間が、最も遣取りの忙しい時間だったりする。
 勿論、『王子様のご用事』はなによりも優先すべきものではあるが、それについてもスケジュールはタイトだ。

 シュリたちが転移用の陣の間に着いた時、周囲には箱やら袋やらが多く積まれて、部屋をひとまわり小さくしていた。床に方陣がなければ、どこかの倉庫かと思いもするぐらいだ。
 部屋にはすでに、ルーファスをはじめとする数名が待機していた。
 うち四名は、魔方陣を発動させるための魔術師だろう。
 みな、身体のどこかかしらに包帯を巻いていて、冴えない表情をしていた。
 あとは、ルーファスとマーカスとダイアナ。
 そして、シュリがはじめて会う金髪の少年がひとりいた。
 年の頃は、シュリとそう変わらないぐらいに見える。
 マーカスと比べると身長は同じくらいだが、ちょっと細めの体形。
 シュリよりは、一回りの半分ぐらい大きい。
 そして、綺麗な顔立ちをしていた。
 この場にいる男性達の中で、いちばん綺麗だと感じた。
 柔らかな印象も含めて。
 即ち、

 ――王子さまだあ。

 隣りには『本物の』がいるのだが、雰囲気的にはこっちの方が『王子さま』らしい。
 幼い頃に寝つくまでの時間、滅多になかったことだが、枕元で師匠が面倒臭そうに話してくれた幾つかのお伽噺に出てくる王子さま。
 金髪で青い目の、定番の。
「シュリ」
 本物の王子さまの方に呼ばれた。
「ジュリアス」
 カミーユが呼んだ。
「はい」
 件の少年が返事をした。
 ジュリアスという名前らしい。
「おまえの荷はこれだけか」
「はい」
 ルーファスが近付いてきては訊ねられ、シュリの手の中の荷物が奪い去られた。
 なにが入っているかわからないマウリアさんが詰めてくれた鞄と、まじないの道具が入った籠。
「お運びします」
 横でジュリアスが受け取ったのは、カミーユの荷物だ。
「ありがとう」
 返事をしたカミーユに、シュリは吃驚した。
 はじめて目にした、とても優しい笑顔だったから。
 こんな表情をするとは思ってもみなかった。
 カミーユが綺麗な人だとはわかっていたが、その表情になると、もっと綺麗に見えた。
 どういう関係なのか?
 シュリは自然と、カミーユがこんな笑顔を向けるジュリアスを目で追っていた。
 と、突然、頭が重くなり、せっかくブラッシングして纏まっていた髪の毛がぐしゃぐしゃと掻き回された。
「ん、嬢ちゃんは、ああいう男が好みなのか? 確かに女には受けそうな顔立ちだがなあ」
 からかう口調で、エンリオ・アバルジャーニーが言った。
「やめてくださいぃ」
「ジュリアスは駄目ですよ」
 きっぱりとした口調で、カミーユが言った。
 なにが駄目なのか。
「他の男は見るな。見なくていい」
 戻ってきたルーファスが、頭に置かれていた手を乱暴に引き剥がして言った。
 なぜ、見てはいけないのか。
 問う間もなく、
「それより、なんでおまえがいる」
「男の嫉妬は醜いし、嫌われるぞ。いっしょに行くことにしたんだ」
「馬鹿言え。そんな素振りひとつない方が、女が離れていく原因にもなる。そんなことだれが許した」
「そういうこともありますが、嫉妬も過ぎると鬱陶しいどころか、怯えさせるか殺意を促すだけかと。程々に、ですね。食材の調達だそうですよ。半月後の殿下の披露宴のための」
 シュリを置いて、三人で会話をはじめた。
 昨日とおなじく喧嘩腰で。
 うるさいぐらいに賑やかに。
 だが、その内容は、やはり、シュリにはよくわからないものだ。
 今更、口を挟めるわけもなく、さりとて、移動しようにもルーファスにしっかりと肩を抱きかかえられている。
 だから、仕方なく、首だけを巡らせて周囲を観察した。
 すると、こちらに視線を向けている者がいた。
 グロリアだ。
 怖い顔で睨みつけている。
 しかし、それはシュリにではなく、カミーユに向けてのようだ。
 喧嘩したのか、嫌いなのか?
 シュリが見ていることに気付いた様子で、ふいに視線が外された。
 シュリは首を傾げながら、反対方向に目を移した。
 こちらには、ダイアナが皆から外れて、ひとりだけ所在なさげに立っていた。
 ぼんやりとしているようでもあり、なにか考え事をしているようにも見える。
 シュリと同じく膝下の丈のドレスは藍色で、シュリのよりも直線的でレースもフリルもついていない。
 それもあるのだろうか。
 とても寂しそうに見えた。
 更に視線を動かせば、師匠が魔方陣の傍にしゃがみ込んでいた。
 当り前に、魔方陣に興味をひかれたらしい。
 傍にはマーカスが立っている。
「ああ、これは確かに滅茶苦茶だ。色んな要素が絡み合っていて、これを解くのにはかなり難しいだろうね。ふうん、でも、この線が呼び込みになっていて、ここが条件になっているのか」
「ちょ、ちょっと待ってください! メモ、メモッ!! 今、メモしますんでっ!! ペン! ペンッ!!」
 マーカスが、ひとりじたばたしている。
「あああああああっ!! しまったあぁっ!! ノート忘れたあっ!!」
 そこに魔術師のひとりから呼びかけがあった。
「全員、揃われましたでしょうか。でしたら、そろそろ発動させます。皆さま、どうぞ陣の中央にお集まりください」
「行くぞ」
 肩を抱かれたまま、ルーファスから促される。
 ぞろぞろと、皆が従う中、ひとりだけマーカスが叫んだ。
「ちょっと待ってくださいっ!! 殿下っ、忘れ物をしましたっ!! 取りに行ってきてよろしいでしょうかっ!?」
「ならん。書くものぐらい、向こうにもある」
「でも、ノートには必要なことが色々と書いてあるんですっ! 研究内容とか機密事項とかっ! 不在の間にだれかに見られでもしたらっ! ……お願いしますっ!!」
「だったら、後から来い。先に行く。おい、こいつだけ別に送ってくれ」
「有難う御座いますっ! 後からすぐに追いかけます!」
 叫んで、騒々しくもマーカスひとり走って行ってしまった。
 陣の中央に立ち、シュリは周囲を見回した。
 皆、てんでばらばらの方向を見ていた。
 表情も様々だ。
 笑っていたり、澄ましていたり、不機嫌そうだったり、考え込んでいたり。
「ご準備は宜しいでしょうか」
「やってくれ」
 魔術師の確認にルーファスが頷いた。
「では、発動します。発動」
 兎にも角にも、出発だ。
 未だ知らぬ土地へ。
 シュリは何をしに行くのか知らないけれど。
 そして、旅情を味わう間もなく、目的地に到着。
 イベントもなにもなく。
 気が抜けるぐらいに、あっという間に。




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