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 私が生きていくのに必要なもの。
 身体を維持していくために必要なだけの食べ物と水。空気。
 そして、傍にいて安心できる人、ひとり。
 男でも女でも、どっちでも良い。私の名を呼んで、私自身をちゃんと見ていてくれさえすれば。認めてさえいてくれれば。それが、私が見ていたい人と同じであれば、もっと言う事はない。
 あとは、雨露をしのげる程度の安心して暮していける場所があれば、尚、良い。
 多分、それだけで充分だ。
 地位も名誉も、称賛の声も褒美も、ちやほやしてくれる人もドレスも宝石も、他にはなにもいらない。
 なのに、余分なものばかりが増えて、本当に必要なものこそ手に入れられないでいる。

 私ひとりが落ち込んでいても計画が変わることなんてない。嫌がっていても、甘やかされる事はない。
 朝、追い立てられるようにして陣は撤収し、ファーデルシアの国境に向けて進軍が開始される。
 ……ほら、みろ。私の影響力なんて、この程度のもんだ。それを腫物に触るかのように扱いやがって。
 ウェンゼルさんは何も言わずに傍にいるけれど、気遣わしそうな視線を感じる。
 ランディさんやカリエスさん、グレリオくんは、姿も見えない。
 アストリアスさんは前を行く殿下の傍にぴったり張り付いていて、時折、何かを話しかけているみたいだが、会話をしている雰囲気はない。
 だから、どうと言う事はない。何もない。
 ただ、これから人を殺す為に向かっていくだけだ。
 蟻のように列を作って。整然と。
 ああ、そういや、軍隊蟻っていうのもいたな。通った後には、何ひとつ残らないっていう怖いやつ。遠目には、真っ黒い絨毯のように見えるのだそうだ。
 上から見れば、私もその中の一匹に見えるんだろうか。
 私は空を見上げる。
 また、空が落ちて来れば良いのに……それでなければ、土砂降りになって、この世界、すべてを押し流してしまえばいい。
 今頃、大きな箱船をどこかで誰かが作っていないだろうか。グルニエラは乗せてあげたいな。

 ……人を殺すのは嫌だと言いながら、私はこんな事も考えてしまっている。

 グスカとファーデルシアの国境沿いに流れる大河、ハイリンデ河畔にさしかかったところで、前方から走ってくる一騎があった。
「止れぇっ!」
 殿下の合図に答えて張り上げる声に、届いたところから歩みが止る。
 走ってきた騎士は、先遣隊からの伝令であったらしい。様子を見ていると、殿下のところまで来て馬を降りると、何事かを伝えた。すると、殿下は隣にいたアストリアスさんと暫くの間、話し合った末、また、伝令の騎士になにかを伝えた。騎士はひとつ頷くとまた馬に跨がって、急ぎ来た方向へと戻っていった。
「前へぇっ進めぇっ!」
 また、殿下の合図と共に、列は進み始めた。
 別に大した事ではなかったらしい。
 私は気にする事もなく、列に従って前へ進んだ。

 何故、グスカを先に攻めたか、理由のひとつはこの進路にある。
 ランデルバイアからファーデルシアへ通じる道は、進軍には向かないからだ。これまではさしたる問題がなかった事もあるが、その理由もあって、ランデルバイアがファーデルシアを攻める事はなかった。それよりも、グスカとの対立の方が重視されるべきものだった。或意味、グスカの存在がファーデルシアを守っていたとも言えなくはないだろう。
 ハイリンデ河を難なく渡り、ファーデルシアに入った途端、空気が変わるのを感じた。
 すぐに戦いが行われたのであろう痕がそこここに残っていて、澱み荒んだ空気を感じた。
 壊れた武具の一部が、草叢に打ち捨てられていた。戦死した兵士を埋めたのだろう土の盛り上がりが、幾つもあった。
 飛び交う蝿の多さ。腐った土の臭いに混じる錆びた臭いが、棘となって鼻腔を刺す。
 朽ちていくうら悲しさが、吹き抜ける風と共に流れていく。
 来た事はない場所だが、私の知っているファーデルシアとは、変わってしまった印象を受ける。
 森の間を抜ける広い街道を抜ける間も、木々の間に刺さった矢や、剣で削られたらしい幹を幾本もみつけた。それだけではどんな戦いだったのか、激しいものだったのかそうでなかったのか、私には分からなかったが、敗走するファーデルシア軍をランデルバイアの先遣隊が追い立てたのだろう、という事だけは想像できた。
 可哀想に。かわいそうに。
 その言葉だけを思いながら、歩を進める。
 森を抜け、見渡す限り地平線が続く、未だ背の低いひまわり畑の間の道を、ただひたすらに東へと向かって進む。
 何度か小休止を取りながら進む内、人里に出た。羊の鳴き声が聞こえて、背の低い石を積み上げた塀が連なって見えた。その向こうに緑の草原が広がっている。牧場らしい。
 ここはそれほど荒らされた形跡がない事に、少しだけ、ほっとした。
 しかし、人影ひとつない風景は、穏やかというよりは荒涼と感じた。人々は怯え、家に閉じこもっているのだろうか。それとも、家畜の羊や家を置いて逃げたのか。
 かあん、と遠くから鐘の突く音が聞こえた。
 ああ、それでもどこかに人がいるのか。

 かあん、かあん、かあん……

 四点鐘が鳴り響いた。
 私は持っていた手綱を緩めた。グルニエラは脚を止めると、ぶる、とひとつ鼻を鳴らし、私と同じ方向を眺めた。草原の向こう、鐘が聞こえた方向にふたつの耳を立てた。
 私は耳を澄ませた。行軍の音に混じって、聞こえるか聞こえないかの微かな音を拾う為に、片耳に手を添えた。
「キャス?」
 私の様子に訝しんだウェンゼルさんが声をかけてくるが、黙って人さし指を唇に当てて、黙っているように頼んだ。
 そして、微かな、本当に微かな声を聴いた。
「歌声みたいですが」
 ウェンゼルさんが言った。
「聞こえる?」
「ええ。切れ切れにですが」
 そうか。空耳ではなかったか。でも、誰なのだろうな。
 再び手綱を取った私に、「キャス」、と遠慮がちにウェンゼルさんが声をかけてきた。
「はい」
 見れば、どこか困ったような表情があった。
「皆、貴方の事を心配しています。貴方とは生まれ育った国もなにもかも違うし、貴方の名前を正しく呼ぶ事すら出来ませんが、それでも皆、貴方の事を気に掛けていますよ。決して、貴方はひとりではない」
「……うん、ありがとう」
 そう答えるだけが、今は精一杯。
 でもね、違うんだ。私は誰かに心配されたくはない。心配したって、その人のなんの役にも立たないし、私にとっても役に立たないから。それに、私はひとりではなんにも出来ないみたいに思えてくる。誰にも辛いだけだから、して欲しくない。そんな顔もして欲しくない。
 人の心のありようは様々で、複雑なことは分かっているのだけれど、私が欲しいものはそんなものじゃない。
 でも。
 最近は、自分が何を望んでいるのかも分からなくなっている。

 それから、あちこちに戦いの残滓を見付けながら更に三日。
 陽が暮れても進軍を続けて、夜中になって漸く、松明の灯のともる先遣隊の陣に到着した。もっと先にいるかと思っていたが、意外だ。だが、だから、多少、無理してでも先を急いだわけか、と納得もする。
 でも、流石に疲れた。少しバテ気味のグルニエラの肩を叩いて、角砂糖もあげて労った。
 兵士や騎士たちが忙しく動き回る中、荷物を下ろし、軋む身体を軽く動かして天幕が張られるのを待った。
 なんとも仕様のない状態で、と騎士のひとりが近くにいたアストリアスさんに報告している声が耳に入ってきた。
「……どこから集まってきたのか。命令されている様子もなく、こちらに向かってくる様子もないのですが」
「なにか仕掛けてくる様子は」
「それもなく。武器も持たず進路を塞ぐようにして、ただ歌を歌い続けているだけです」
 歌?
「どんな歌を歌っているんだね」
「それが、これまで耳にした事のない歌なのですが、神を讚える内容の、なんとも美しい曲でして」
 ああ、じゃあ、昼間、聴いたあれは、聴き間違いではなかったのか。まさか、とは思ったけれど、こちらの似た曲でもなかったわけか。
 誰が広めたのか……美香ちゃんか?
 私がファーデルシアにいた時は、あれを歌っていた人はいなかったように思う。だったら、その可能性は高い。そういや、あの娘、コンクールがどうとか言ってなかったっけ。ひょっとして、合唱部か? 声は良かったから、有り得る話だ。
「こちらとしても、何もしない者に向かって剣を振るうわけにもいかず、無理に通るには相手の数が多過ぎて如何ともしがたく、足止めを食っている状態です」
 ほとほと困り果てたような顔で騎士は言った。
「無為な攻撃を仕掛けぬこちらの姿勢を逆手にとられたわけか」
 ふむ、とアストリアスさんはいつもの癖で、お髭を触りながら考える表情を浮かべた。
 ……こんな事もあるんだなあ。
 私は心底、感心していた。
 歌に触発されて自主的に集まった民衆が楯となって、ランデルバイア軍の進路を阻んでいる様だ。
 人の心は思わぬところで容易く動きもする。おそらく、仕組んで起きた事ではないだろう。自然発生的な行動だ。
 思わず、口から笑い声が突いて出そうになった。
「キャス?」
 ウェンゼルさんの不思議そうな声がかけられる。
 でも、笑えて答えられそうにない。咽喉が痙攣するように、出る笑いが止められない。
 これは、もう、どうしようもない。打つ手なしだ。
 私が必死に頭を絞って出した策よりも、なんの考えもなしの行動がそれ以上の効果をもたらしもする。
 武力で勝る敵国の軍勢に対し、なんの力もない民衆が集って、武力ではなく歌声で追い返すなんて!
 九回裏、二死満塁、一発逆転ホームラン劇。実に感動的な話だ。奇跡と言っても良いだろう。この様子は、これから先、伝説としてずっと語り継がれていくに違いない。
 これが、巫女の力と言うものだろうか。だとしたら、実に、神に選ばれた存在に相応しい所業だ。頼りない女子高生だと思っていたのに、他人に甘えるばかりで何もできそうにない娘だと思っていたのに、こうして容易く人々の心を動かす。
 とてもじゃないが、敵わないや。
 どう努力したところで、必死にやったところで、絶対に敵わない相手がいる。必要な時に必要なものがやってきて自然と助けられる人。易々と欲しいものを手に入れる者がいる。ほんと世の中ってそういうもんなんだよなあ……ああ、腹いてぇ。
「キャス、大丈夫ですか」
 本気で心配するウェンゼルさんに手を振って、大丈夫とジェスチャーで伝える。笑っているのに、どうしてそんなに心配した声になるんだ。
「だいじょうぶ」
 漸く、笑いが収まりかけたところで、息を吐きながら答えた。ああ、でも、まだ笑えて仕方がない。
「何か知っているのかい」
 アストリアスさんが、眉をひそめて私に問う。
「なにも」、と私は答える。
「なにも知りませんよ」
 私は、何も知らない。
 その曲名が、『アメイジング・グレース』だということ以外は。




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