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戻ってきて一ヶ月が過ぎた。
私は穏やかにも退屈な毎日を過している。運動不足の感はあるが、すこぶる健康。良く寝て、良く食べている。……時々、あの時の事を思い出しては、眠れなくなる時もあるけれど。
食事は、野菜中心ではあるけれど、身体に少しずつ肉もついてきて、帰ってきたばかりの頃に比べれば、多少は改善されている様だ。
まあ、それも当然と言えば、当然。企画の為の調べものや、童話を書き出して時間を潰してはいるものの、端から見れば、食っちゃ寝している様にしか見えないだろう。
まるっと飼い猫生活。『おはらしょうすけさん』的生活。会津磐梯山はぁ……もう、ダラダラ。身上は潰れないだろうが。いや、潰れるのか? それであっても、かまう事はないだろう。どうせ、元々、大したものは持ってないんだし、先行きは知れているんだ。
部屋を訪れる顔触れも決まったものばかり。
ランディさんにケリーさん、時々、グレリオくんやウェンゼルさん。カリエスさんやアストリアスさんは来ない。きっと、忙しいんだろうな。
ウェンゼルさんは、アストラーダ殿下の代理みたいな感じ。現時点で会いに来るのは遠慮した方が良いだろう、という伝言だ。……アストラーダ殿下も面倒臭い事になっているのか?
ウェンゼルさん達に訊いたところで答えてくれるわけでもなく、他の誰に聞いても、口を濁すばかりだ。口封じがされているのだろう。メイドさん達も同様に。
……気になる。隠されれば余計に知りたくなるのが、人間の性。
だが、彼等を困らせる事は私の本意ではない。だから、ここは黙って頷いておく。
レティの訪れがあったのは、そんな時だ。
やっぱり、主役の花嫁さんの意見は聞かないとな。ランディさん達に頼んでおいたのが、漸く、実現した。
「ごめんなさい、勝手なお願いをしておきながら、こんなに遅くなってしまって」
レティは少し疲れた様子の笑顔で私に言った。
「こっちこそ、準備で忙しいだろうに、無理言ってごめんなさい」
「いいえ。私もキャスに会いたかったですもの。お元気そうで良かったわ」
「お陰様で。それで、決まってきてはいるの? 住むところとか」
「ええ。あれこれ探したりしたのですけれど、余り良いところがなくて。結局、話し合って、当面はお兄さまの邸に一緒に暮す事にしました」
「ああ、その方が手間も省けるし、節約にもなるね。ランディさんも寂しくなくて良いだろうし」
「ええ。お兄さまも留守にする事も多いですし、グレリオもお務めがあったりもしますから。その時にも誰かいた方が良いだろうという事になって」
「そうだね。私もそう思う」
ランディさんが結婚したら、また違ってくるんだろうけれどなあ……私が言う事じゃないよな。
――いつ命を落としてもおかしくない身だしね。なかなかその気になれない所もあるよ……
嘗て、そんな事を言っていた人。
だからこそ、出来るだけ長く好きな女性と一緒にいたいと求婚をしたグレリオくん。
その考え方は人それぞれで、正答などない。でも、どちらであれ、本人達にとって出来るだけ良い人生が送れれば良いな、と願う。
「ところで、街の様子はどう。落ち着いた?」
「ええ。時折、戦の事が話に上りますけれど、皆、以前の生活に戻った感じです。今年は作物の出来もよく、喜んでますわ」
「へえ、良かった」
「ええ」
運ばれてきたお茶に口をつける。
「でも、あの噂は本当ですか?」
「どの噂?」
「ディオ殿下との婚姻が破談になるかもってお話。今、それで揉めているそうじゃないですか」
呑んでいたお茶を吹き出しそうになった。堪えたら気管に入って、思いきり噎せた。
「大丈夫、キャス!?」
大丈夫じゃねえ!
「どうしてそんな話に!? 揉めてるって!?」
咳をしながら、問う。と、
「いえ、魔女の力を失ったのに意味がないだろうって、殿下がおっしゃられたとか。それで、我が軍の勝利を導いた方を使い捨てになさるつもりか、と反対する方もいらして、今、騎士や兵士達の間でも揉めているとか」
ああ、あの時、みんなが不機嫌だったのは、その噂のせいか。言ったのは本当か嘘か分からんが、まあ、言いそうではあるなあ。単に、噂自体を否定したかっただけなんだろうけれど、にしちゃあ、らしくなく迂闊な発言だったな。よっぽど、虫の居所が悪かったか?
「クラウス殿下の下で巫女になられるというのも聞きましたよ。本当ですの?」
「本当じゃないよ。それ、元から間違い。結婚の話自体がないから。巫女になるって話もなし」
治まりかけの咳の合間、私はレティに言った。
「そうなんですか?」
不思議そうに首を傾げられた。
「そうそう。みんな噂。本気にしちゃだめだよ」
「あら、そうなんですか」
少しがっかりした様子でレティは言った。
「それはそれで、残念ですね。良いお話だと思ったのですけれど。殿下も独り身でらっしゃるし、お似合いだと、私は思っていたのですけれど」
はははははは、君が言うか。
「殿下がお気の毒でしょう、私が相手では」
完全に咳が治まって、お茶を飲み直した。
「そんな事ありませんよ。キャスは、その辺にいる人達と比べても、充分に魅力的ですよ」
「あはは、有難う」
気まずさを埋めるために、お茶請けのシナモンクッキーも一口。独特の香りと苦味とバター、そして、砂糖の甘味。咀嚼して呑み込む途中、咽喉にピリッとした刺激を感じた。
やばい!
「キャス?」
反射的に口の中に指を突っ込んで、食道の途中にあったそれを、無理矢理に吐き出した。咽喉が痛い。ひりひりする。香辛料で受けるものじゃない。
「キャス! どうしたんですか!?」
慌てたのはレティだ。
「水を……」
精一杯、掠れた声で言う。
この痛みは知っている。以前にも経験した。自殺を図った時だ。
慌てた様子で、サリーが水差しを抱えて走ってきた。カップを探そうと狼狽えるその横から水差しを奪い取り、そのままで水を口の中に流し込んだ。
口の端から溢れた水がぼたぼたと零れ落ちたが、かまっていられなかった。胸元が濡れ、ドレスが張り付く感触があったが、それどころじゃない。窓まで走っていって開けると、身を乗り出して口の中のそれを吐き出した。およそ一リットルはあるだろう水を使って、うがいで洗い流した。
空になった水差しをサリーに渡して、床にへたりこんだ。
息を切らし、早い鼓動は、全速力で走った後のよう。
「すぐにゲルダ夫人を……ケリー先生を呼んで参ります!」
それまで呆然としていたロイスが叫ぶように言うと、部屋を飛びだしていった。
「キャス、大丈夫!?」
レティに腕を取られ、引き上げられる。動く気にはなれなかったが、支えて貰って立ち上がると、元の椅子に座らされた。
「お兄さまを呼んでくるわ。それまで、じっとして動かないで。あなた、キャスをみてあげて頂戴。何も触っちゃだめよ。私達が戻ってくるまで、他の人を部屋にいれないで」
レティは、珍しいほどにきっぱりとした口調で言うと、サリーに私を託して部屋を出ていった。
サリーはおろおろしながらも、濡れた私のドレスを拭く事にしたようだ。タオルを取りに走って戻ってくると、床に屈んで、濡れた部分に布を当てていった。
「大丈夫ですか」
「なんとか」
若干、通りが良くなった声で答える。が、咽喉に腫れたような感じがある。咳をすれば、より痛んだ。でも、意識がはっきりしている分、まだマシだ。
……毒を盛られた。おそらく、私が以前に飲んだものと同じ種類だ。クッキーに混ざっていたか、かけられていたか。表面についているあの粉がそうか?
あの時、ケリーさんは、神経性の毒の一種だと言っていた。その影響が出ているか、指先に少し痺れを感じる。鼓動の早さは、全身にアドレナリンが駆け巡っているせいか、毒の影響からかは判断つかない。どれくらいの量を口にしたかは分からないが、症状からいって大した量ではなかっただろう。吐き出した上で、口の中も濯いだ。
しかし、それをしてもまったく症状がないわけじゃない。まともにクッキーを呑み込んでいたら、致死量だったろう。しかも、直接、口にしただけに、モロに咽喉に刺激をうけた。
疑いようのない殺意。
畜生。一体、どこのどいつだ。卑怯な真似しやがって。……いや、ずっと機を伺っていたのか。だが、私は部屋に閉じこもったままで、手が出せなかった。それで、こんな手を使ったのか。
なんにせよ、殿下の警戒ぶりに間違いはなかったって事だ。だが、ここまでヤバイ状況にいるのか、私は。怯えさせまいとして箝口令まで布いたならば、現時点をもって意味がなくなったと言える。ここまでくれば、私自身が警戒する必要があるだろう。
でも、本当に、一体、誰なんだ? 私をなんとしてでも抹殺したいと思っているやつは。
私を殺したいなら、そうすれば良い。でも、間違ってレティが死んでいたらどうするつもりだっ!! そう思うと、ぞっ、とするし、怒りも倍増だ。まったく、なんて事しやがるっ!
ここまでする理由が知りたいと思う。もし、とんでもなく下らない理由だったりしたら、ハッ倒すぞ!
いや、抹殺する!
「ウサギちゃん!」
ランディさんが、真っ青な顔をして部屋に飛び込んできた。