姉がダルバイヤの王子の下へ輿入れしたのは、私が十二の年の、やはり、初夏のことだった。
 姉とは特に仲がよかったわけでもないし、死に別れるわけでもないから、哀しいというわけではなかったが、やはり、兄弟のひとりの顔が滅多に見れなくなるというのは、なんとなく寂しさを感じた。
 もう少し、彼女と話しておけばよかったな、と思う程度に。
 でも、姉の方ではそうではなかったようだ。
「ディオのことがいちばん心配よ。だって、頭は良いくせに、変に要領の悪いところがあるから。兄弟の中でいちばん貧乏くじを引きそうなんですもの」
 酷い言われようだと思った。
「愛しているわ、ディオ。元気でね」
 頬に温かいキスを残して、姉は笑顔で嫁いでいった。
 姉が行ってしまって、男兄弟ばかりが残された。
 その上、私は騎士になって軍務につく事を選んだために、よけいに男ばかりに囲まれるようになった。
「臆するな! 情を与えるな! ここぞという時には容赦なく叩き込め!」
 十の年から私は、軍の長となるカルバドス大公――叔父について、徹底的に仕込まれた。
「退き時を間違えてはならない。全てが瓦解してからでは、既に遅い。退くにも相応の戦力が必要だ。しかし、早すぎてもいけない。その見極めを見誤らぬことだ。己の感情に流されるな。でなければ、より多くの犠牲を強いることになる。憎しみや敵愾心に捕われるな。戦場では、己の心こそが最も手強き敵と思え」
 剣や馬の扱いは言うに及ばず、軍略から組織の編成、情報の扱い方、防衛線の敷き方、戦術ほか心構えや諸々を教わった。
 幸い、私は自分で思っていた以上に向いていたらしい。叔父は私の成長ぶりに満足した。
「この分だと、ディオは、歴史に名を残す名将となるやもしれんな」
 そう言って、よく私の頭を手でぐしゃぐしゃに掻き混ぜては、嫌な顔をする私を見て笑った。
 務めを離れた叔父はとても性格の明るい人で、社交的でもあった。特に女性に対して。
 実を言えば、私が最初に女を知ったのも、この叔父の手引きによるものだった。酒の味を知ったのも、この叔父に無理に飲まされてからだ。
「ひとつ訊くが、ディオはどんな女が好みなんだ」
 叔父は、よく私にこの同じ質問をした。
「さあ、特にはありませんが……強いて言えば、大人しい女が良いです。お喋りな女は聞いているだけで疲れます」
 私は訊かれるたびに、その時の気分で答えていた。
 十三才にもなると確かに人並に異性に興味も湧いたが、特別に誰を思うということはなかった。貴族の令嬢の中には好ましいと感じる者もいたが、色恋沙汰には及ばない仄かな感情でしかなかった。
 そういう意味でいえば、私に最も近い位置にいる女性は、コランティーヌだったと言える。
 コランティーヌは成長するに従って、周囲の期待に応えるように美しくなっていった。十を超えた辺りから、社交界に出る日を心待ちにする声が、私の耳にも届いていた。
「ディオクレシアス殿下、ごきげんよう」
 私に取る礼も、さまになるようになった。澄ました顔で、淑女らしい楚々とした態度を取るようになった。
 互いにあれこれと忙しくなったおかげで、以前のように気軽に会う機会も少なくなった。そのせいで、彼女とも自然と距離が置かれるようになった。が、それでも、私を見かければ、コランティーヌは進んで挨拶をしてきたし、私も他の令嬢よりは多く相手をすることに変わりはなかった。
 そんな中で、出会ったのは、隣国ガーネリア王国のルリエッタ王女だった。
 一番上の兄が、ガーネリア王国の一番上の姫君、ロクサンドリア王女を娶ることに決まった際、婚約の儀式に同行してきた妹姫であるルリエッタ王女と会う機会があった。
 ルリエッタ王女は、私よりもひとつ年上の十四才とのことだった。
「ディオクレシアス殿下でいらっしゃいますね。お会いできるのを愉しみにしておりました。お初におめにかかります。ルリエッタ・エディル・デイル・ディ・ガーネリアと申します。どうぞよろしゅう」
 優雅に礼をした後、眩しいばかりの笑顔が向けられた。
 王女らしからぬ陽に焼けた肌に、明るい茶色の髪と瞳をした少女は、真夏の太陽に向けて大きく花と葉を広げるヘリアンザスの花を思い出させた。
 ロクサンドリア王女がほくそ笑んで言った。
「ルリエッタは今はこうして大人しい振りをしておりますが、普段は、箸にも棒にもかからぬお転婆振りで、皆を困らせております」
「まあ、お姉さまったら、初めてお会いする方の前で酷い言い様」
「なに、本当のことではないか。ここで誤魔化したところで、あとで取り繕うのに困るだけであろう。こんな時ぐらいは馬車を使うものだが、道中、馬に乗って来たから、こうして顔から、すっかり陽に焼けてしまったではないか」
 義理の姉になろうというロクサンドリア王女は、悪戯っぽい笑みを私に向けた。
「こうして私についてきたのも、ディオクレシアス殿下にひと目会いたいが為のこと。剣と馬に優れる王子の噂は我が国まで届いております故。どうぞ、今後ともよしなにお頼み申し上げます」
「お姉さま! それは言わないでってお願いしたでしょう!」
 真っ赤になって、ルリエッタ姫は声をあげた。
 成程、ガーネリア王家は大らかな気風と聞いていたが、その通りらしい。
「馬がお好きなのですか」
 私の問いに、はい、と恥ずかしそうに俯いた。
「では、宜しければ、後程、厩舎に御案内しましょう。ガーネリアほどではないが、我が国の馬も良いものがおりますから、お気に召すかと」
 途端、ぱっ、とまた明るい笑顔が私を見上げた。
「ええ、是非!」
 ほう、と一番上の兄が言い、やれやれ、と二番目の兄が忍び笑いをした。
 ルリエッタ姫は、よく笑い、はきはきとした声でよく喋った。おおよそ王族らしくない、と言えばそうなのだが、伸びやかなその姿勢に、私は好感を抱いた。コランティーヌほどに気を遣う必要がなさそうな分、身構えず楽にしていられた。
 案内した厩舎での姫のはしゃぎようには、思わず苦笑した。
 動きやすい乗馬用の服に着替えてきたルリエッタ姫は、厩舎で休む馬たちに一頭、一頭、挨拶するように、中を覗き込んだ。
 馬丁頭が、服が汚れると心配してもおかまいなしに、馬に擦り寄っては撫でて、頬擦りをした。そして、この馬はどうだこうだ、と感想を残していった。
「本当に目移りしてしまうほど良い馬ばかりですわ。私はガーネリアの馬こそ大陸一だと思っておりましたが、ランデルバイアの馬も負けず劣らずすばらしい馬ばかり。みな、健康でよく世話をされておりますのね。感服いたしましたわ」
「本当に、馬がお好きなのですね」
「ええ、大好き! 可愛いですもの。匂いも手触りも、乗った感じもとても好き! 動物はみな好きですけれど、馬がいちばん好きです。ディオクレシアス殿下は? 動物はなにがお好き?」
「ディオでかまいませんよ。私も馬かな」
「他は? 私は、牛。それと、羊」
「牛? 羊はわかりますけれど、牛が好きとは珍しいですね」
「あら、牛も可愛いんですよ。ミルクは美味しいし。搾りたてのミルクの美味しさったらないわ。ガーネリアの城にもシャルという名の雌牛がいるんですけれど、このこがとても可愛いんですの。生まれる時には、私も立ち合ったんですよ。以来、ずっと、一緒。毎朝、そのこの乳を絞るのを日課にしておりますの」
「へえ」
 大らかな気風にしても、この姫は破格らしい。王家の姫自らが乳搾りをする国など、滅多にないだろう。
「もし、ガーネリアにいらっしゃることがありましたら、殿下にも飲ませて差し上げますわ」
「ええ、是非」
「羊もね、もこもこしていて、手触りがとても良いんですのよ。羊の毛を刈ったご経験はおあり?」
「……いいえ」
 吃驚することだらけの姫君だった。
 でも、異性といて、こんなに愉しいと思ったのは初めてだった。
 チャリオットにも会わせたが、きゃあきゃあ言って、撫で回して可愛がった。手に爪を立てられようが、噛まれようが、おかまいなしにじゃらして遊んだ。チャリオットが辟易して逃げ出そうとするぐらいまでに。
 ルリエッタ姫は、三日間、ラシエマンシィに滞在した。その間、姫の相手を主に私が任された。
 その間、遠乗りに出掛けもしたし、剣の相手もした。
 姫の剣の腕前は、男には及ばないものの、なかなかの腕前だった。
 でも、意外なことに、ダンスが苦手だった。そのため、舞踏会の席では、私たちは踊ることなく喋って過した。それはそれで、愉しかった。
「姉さまの婚礼の式のときに、また参ります。その時は、また遠乗りに連れていって下さいませ。ダンスの練習もして、今度はちゃんと踊れるようにしてまいります」
「ええ、またいつでもいらして下さい。何処へでも御案内しましょう。次は是非、ダンスのお相手をできることを愉しみにしております」
 帰国の際には、そう言って、次に会う約束をした。
「ランデルバイアはガーネリアからもう一人、姫を貰うことになるのかな」
 馬車の窓から大きく手を振って去っていくルリエッタ姫を見送りながら、父がそんな言葉を呟いた。
 私は顔から火が出る思いをした。
 けれど、姫がいなくなって、私は急に風が吹き抜けるような寂しさを感じた。
 気がつけば、滞在中のルリエッタ姫の様子を思い出し、また、あの明るい笑顔を間近で見たいと願った。
「それは恋というものだな」
 それとなく、姫のことを話した時、叔父に言われた。
「ディオが一人前になるのももうすぐらしい」
 そうからかわれた。
 だが、私は驚いていて、ろくな反応もできなかった。
 話には聞いて知ってはいたが、本当にそんなことが自分の身に起きるとは思ってもみなかった。色恋沙汰など、無縁だと思っていたから。それでも、自覚してしまうと妙に照れ臭くなりながら、兄の婚礼の日を指折り数えて待つようになった。
 ひょっとすると、式を挙げる兄よりも、私の方が待ち遠しく思っていたかもしれない。
 私はチャリオットをじゃらして遊んでやりながら、彼女の事を思った。
 たまに、見晴らしの良い神殿上の鐘楼の上まで上って、ガーネリア国のある方を眺めては思いを馳せた。
 勿論、彼の国までは眺めることは出来なかったが、それでも風に吹かれて遠くを眺めているだけで、馬を走らせている時に似た心地よさを感じた。
 そうしていると、どこで知ったか、偶にコランティーヌが呼びに来ることがあった。
 手すりも何もないその高さが怖いのだろう。床を四角く切り取った出入り口から、恐る恐るといった様子で顔だけ覗かせて、私を呼んだ。
 まるで、巣穴から顔を覗かせる小動物のようなその様子に私は苦笑し、怖がる彼女を連れて塔を下りるのが常だった。
「あそこから、何か見えるのですか? なにを眺めておられますの」
「別に。ただ、景色を眺めているだけだよ」
 そう答えた。




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