「簡単にですが、目を通しましたよ、例の本」
 夕食時半ばの話題として振ってみた。
 誰かと差し向いで食事するのは、私も久し振り。黙々と食べているだけというわけにはいかないだろう。
 ちったあ、気も遣う。収穫量の話とか、外交関連の話ばっかじゃ面白くないしな。
「あれを読んだのか」
 答えるエスクラシオ殿下は、珍しく騎士服ではない。高い衿の、斜めにボタンが配された優雅なラインを描く裾の長い黒の上衣をきっちりと着込み、その袖口からは下に着込んでいるロイヤルブルーのシャツの色が、ちらり、と覗いて見えるのが、瞳の色と合わせてあって洒落ている。
 相変わらずの好い男っぷりだ。目の保養になる。
「はい。なかなか面白かったです。もっと、ちゃんと読んでみたいと思います」
 そう答えると、殿下は、呆れたような表情を浮かべ、
「どの辺が面白いと感じた」
 と、問い掛けられた。
「はあ、私のいた世界での歴史資料を読んでいる様で面白かったです」
「ほう」
「私の国でも、昔、男性上位の君主制の時代があったのですが、その頃の女性に対する、『こうあるべし』って感覚と共通するものを感じました。男性の理想とする女性というのは、基本、人種や世界が違ってもそう変わらないのだな、と考えると面白かったです」
 都合よくコントロールすべき対象として、人としての権利を与えるものではなかった、という意味で。
「その言い方から察するに、この世界は文化的に未発達であると言いたいか」
「一面では。でも、私の国も文化が発達しているとは言い難いです。文明としては発達していたかもしれませんが、生活環境の悪化など弊害も多かったです。文化としては、合理性の名の下に、逆に衰退していたと言って良いかもしれません。手仕事においては、こちらの方が数段、優れている面もありますし。一概に比較できるものではありませんね」
 それに、と付け加える。
「社会的背景も違いますし、価値観もまったく違います。私の国のその時は、女性はこどもを作る為の道具であり、家を守る者としての都合の良い働き手でした。人としての人格や、権利を否定した前提のもとにある存在でした。労りはしても尊敬を受ける者ではありませんでした。ここでも似てはいますが、少し違いますよね。表向きだけかもしれませんが、ある種の尊敬の念は感じられます」
「確かに、女性は家を守り血脈を存続させるにおいて、重要な存在だ。ひいては国力の源とも言える。貴族にとっては、家同士の繋がりを保つ者としての役割もある。それを別にしても、我々とても母から産まれた者であり、育てられた。尊敬すべき対象であるに違いないだろう。おまえの国では違ったのか」
「娘が家を継ぐのが当り前とされてきた時代はそうではなかった様ですが、男性がすべてを支配する権限を持った時点で、変わったんだと思います。一時は、恋愛相手としても、男性同士の方がより高尚で崇高なものであると言われたくらいですから」
 戦国時代とかな。まあ、力がものを言う時代には、そういう事になりやすいのかもしれない。戦場なんてストレスが溜るわりには、どっち向いても野郎しかいないし。
 だから、男も、『親を大事にする』という言い方はしても、『お母さんが大好き』、とはおおっぴらに言えなかったのではないかと思う。愛情を否定するものではないが、言ってしまえば、隠れマザコン文化。日本人女性がマザコンに対して、忌避的な意識があるのも、その影響かもしれない。
 依然、男性に都合の良い社会形態が残っていることも、日本女性の社会的地位が先進国としては低い事も、それあっての事ではないか、と考えもする。
「そう聞くと、面白いものだな。同じような内容であっても、そこまで違うものか」
「でも、やはり、ここにしても、女性はまず子を生み育てるものである、というのが基本なんですね。巫女以外で生涯、独身を通す女性は稀なんでしょうか」
「そうだな、まったくいないわけではないだろうが、女の身ひとりで暮らしていくには経済的にも、社会的にも難しいだろう」
「社会的というのは、やはり、白い目で見られるってことも含めてですか?」
「身近にそういう話もない為おそらくでしかないが、そうだろう。女が未婚のままとなれば、いらぬ事を言う輩は多いだろうな。未亡人は、また違うが」
 食事の話題としては、少々、相応しくない内容であっても気を悪くした様子もなく、エスクラシオ殿下は微笑んだ。
 しかし、やはり、想像通りに厳しいな。相手を選ぼうが独り身を貫こうが、程度の差はあれ、やいのやいの言われはするって事か。
「あれの男性向けの本はないのですか。あれば、比較して読みたいのですが」
「書物としてはないな。しかし、騎士道がそれに相当するだろう」
「ああ」
 騎士道と言っても、簡単に言ってしまえば、道徳の教科書みたいな内容だ。武士道とも似ているが、美学的な要素はない。もっと、合理的な印象だ。漠然とした内容で、国の為にと前置きがあって、『清く、正しく、美しく』に『勇猛果敢さ』が加わる感じ。まあ、騎士見習いを経験した後、認められてあれだけヘビーな誓いをした上の事だから、それなりの覚悟や精神的下地は既に出来上がっているとみなされている様だ。
「それに、例えあったとしても、女であるおまえに読ませられるものではないだろうな」
 ああ、下ネタがあると、という事か。……まあ、私もその辺は規制のルーズな日本人だからな。情報としてはそこそこ知っているし、多少の事では驚きもしないが、読ませる側として抵抗はあるか。
「でも、殿下も一度は読まれたのでしょ、あの本」
 でなけりゃ、あんな皮肉も言えまいよ。
「……まあな」
 お、流石にばつが悪いか。こどもの頃とかに、好奇心で隠れて読んだりしたか?
「それで、おまえの方は、多少なりとも参考になりそうか」
「参考に、ですか? さあ、ならないと思いますが」
 今更だし。
 しかし、質問の意味が今ひとつ不明で首を傾げる。
「だが、陛下の提案を呑むとなれば、配偶者となる者への配慮も必要であろう」
 あ……いやあ……
「実は、まだ、決めかねています」
「ほう。しかし、ランディであれ、ロウジエ伯であれ、相手として不足はあるまい」
「まあ、そうなんですけれど」
「未だ決めかねているという事が、いささか意外でもあるな」
「そうですか?」
「あれだけ孤独を訴えた事を思えば、直ぐに提案に乗るものとばかり思っていた」
「ああ、あの時は、まあ、失礼致しました」
 そう言われてしまうと、気まずい。
 戦時中、自分の中の寂しさに気付いてしまった時、八つ当たり気味にこの人に訴えた事がある。『全てを持っている貴方なんかには分らない』、と。
 その時は、コランティーヌ妃とも相思相愛だと思っていたから出たところもあったのだが、実際は違っていた。いや、違っていたのかどうかも分らない内に、妃は亡くなった。
 そして、今、この人の手には、何も残ってはいない。彼を心配しているらしい兄弟はいるが、王族である事で、普通の家族関係に当て嵌まるものではない。
「孤独は埋められたのか」
「……いえ、大分、慣れはしましたが」
「そうか」
「というより、本当によいのかと躊躇います」
「何故」
「私は……以前、美香ちゃんに、黒髪の巫女に堕胎を勧めました。余計な争いを巻き起こすだけだと。そんな事を言った自分が、果たして、子を産み育てるなんて事をして良いのか、とそう思ったりします」
 僅かに眉根を寄せた表情が向けられる。
「愚問だな」
「そうですか?」
「死んだ者に義理だてして、己の生を犠牲にすることになんの意味がある」
 きっぱりとした言い方だった。
「おまえ自身が手にかけたわけでもなく、ただ意見しただけのことだろう。己の発言に責を感じるにしても、その頃と状況は変わった。おまえ自身の手で打開したと言っても良い。無理に過去に固執する理由はあるまい。それに、黒髪の巫女であるという事をのぞいても、敵国の王子の血をひく者を産ませるわけにはいかない。たとえ、黒髪の巫女を生きたまま捕えたとしても変わるものではない」
「でも、グスカは残しましたよね」
「そうした方が益になるからだ。グスカとは対立が長かったぶん、両国民が対する感情にも根深いものがある。完全に支配下におけば国内は大きく乱れ、治政に支障が出ることになるだろう。対外的にも警戒を強めることになる。それに比べ、ファーデルシアはさほどではなかった。それだけの差だ。しかし、それを決めるのは敗者ではない。勝者だ。勝者であるおまえが敗者に対し、犠牲を払う理由はない」
 それがこの世界の道理というものか。
「おまえはおまえのしたいようにすれば良い」
 慰めも含まれるのか?
 こんな話、口にすべきではなかったかもしれない、とどこか苦々しく思う。
 他の誰にも言った事はないのに。思い出してみれば、この人の前で本音をさらけ出してしまう事が多い気がする。無意識の内の甘えの表れ……なんだろうなあ。
「殿下は、」、と逆に問う。
「殿下はお寂しくはないのですか。それでなくても、血筋を絶やさない為にも、妻君を娶らなくてはならないのではないのですか」
 それには、「そうだな」、と溜息のような答えがあった。
「本来ならば、子の一人や二人はいてもおかしくないが……考えるだけでも煩わしくもある。戦や務めばかりに気を取られて、それ以上は気が回らないところがある。政治面での影響を考えれば、尚更だ」
 その気持ちは分るけれどな。
「でも、傍に誰かにいて欲しい時もあるでしょう。それこそ、食事の時とか。今日みたいに時間がある時など」
「そうだな。そういう時もある」
 そうして、ふ、と笑った。
「考えてみれば、おまえも暇なのだから、これまでも誘えば良かったか」
「都合さえ合えば、お付合いさせて頂きますけれど」
 ……この人は、私をどう思っているんだろう?
 好意は感じるが、それがどの辺にある好意なのかが分らない。
 私は、ずっとその疑問を抱えている。殺されそうになった時、助けに来てくれたあの時から。
 その青い瞳。冬の季節に唯一の晴れた空の色を残す。それを見付けてしまった時から。
 私の名前をきちんと呼んでくれた、その時から。
 以来、私の気持ちは、微妙な位置に留まっている。
 好意は抱いている。それは否定しない。それにしても、異性として惹かれていると言えるのかもしれないが、恋愛感情とは言えないものだ。言うなれば、会社の同僚に対するものに似た感じ。実際、上司だったし、保護者だった。親愛、とでも言うのか。でも、直下を離れた今は、どうかも判断がつかない。どうにも微妙な、落ち着かない妙な位置だ。
 どうやってその距離を測るべきなのか。
 それが、今ある問題だ。
 確認するには、良い機会ではあるのだが……困ったなあ。なんて訊けばいいんだ? 私のことどう思ってますか、なんて訊きづらいしなあ。飼い猫みたいに、とか、元部下に対するそれと言われたなら収まりもつくのだろうが。
 それにしても、このまま甘えっぱなしというのも、よくないだろう。
 駄目だ。素面じゃ話にならん! ううん、誰か酒持ってこぉおい!
「どうした」
「いえ、なんだか急に、酔いたい気分になりまして」
 微苦笑がその顔に浮かんだ。
「ならば、この後も暫く付き合え」
「はい」
 なんだか、面倒臭いと思いつつ……取り敢えず、第二ラウンドに持ち越しだ。




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