三杯目のズブロッカの残りを飲み干す。良い感じで酔いが回ってきている。
「御馳走さまでした」
「……部屋に戻るか」
 うん、帰る。聞きたい事も聞けたしな。踏ん切りもついた。ここは居心地も良いけれど、いつまでも未練たらしく居座らないさ。
 ソファから立ち上がれば、少しふらついた。思っていた以上に足に来たらしい。
「大丈夫か」
 すかさず立ち上がりながら手が伸ばされ、背が支えられた。
「大丈夫です」
 答えながら腕に掴まった。
 掴まりながら、ふ、と思う。
 この感触は以前から知っている。その温もりを知っている。
 剣を持てば、躊躇なく人の命を奪う事も知っている。
 静かな夜の安らぎと、先の見通せない闇の怖さ。その両方を持っている。
「殿下」
「なんだ」
「私、殿下にはお世話になりっぱなしで、殿下御自身には何も返せていなかったりするんですが、一応、これでも、殿下には感謝しているんです。これまで有難う御座います。今、生きてこうしていられるのも、殿下のお陰だって事は自覚していますよ」
「……薮から棒になんだ。酔いが回ったか」
「はい」
 理由はどうであれ、何度も私の前にある死を払ってくれた。
 それだけでなく、生きる目的も、方法も与えてくれた。
 いつも守ろうとしてくれた。
 不器用とも乱暴とも言える時もあったし、腹も立てたけれど、それだけは間違いがない。
「だから、酔いついでに、感謝の印です。素面では出来そうにないんで」
 包む夜の濃さを映す青い瞳を見上げた。
 腕に掴まったまま、めいっぱい背伸びをして、唇にキスをした。
 ちゅう、って感じで。こちらでは挨拶ですませられる程度のものではあるけれど、かなりしっかりと。
 ほかに礼のしようがないのもあったけれど、悪戯心もあった。オンナとしての細やかな自己主張というか、意趣返しって感じで。
 こんな好いオトコとキス出来る機会なんて、この先もまずないだろう。照れ臭いけれど、これから先、良い思い出にもなるだろうし。酔ったのを口実に、他に誰もいない事を良い事に思いきってやってみた。
 柔らかい感触はいままでのオトコ達とそう変わるものでもなかったけれど、久し振りだからだろうか、良い感じだ。
 ……はあ、御馳走さまでした。男前が驚いた顔もまた良し。
「おまえは……まったく、思い掛けない事をする」
 半分、呆れた様子の言葉があった。
 ざまあみろ。参ったか。まあ、これでこの人との関係も区切りをつけられるってもんだ。
 そんなわけで、最初で最後の別れのキスのつもりで、そのまま笑って退散しようとしたのだが、
「これがおまえの望みか」
 と、問われた。え?
「……馬鹿者が。責任を取れ」
 怒るでもなく言われた。
 そして、そのまま頬に手が添えられ、覆い被さってくるようなキスを返された。
 ……思いきり倍返しで。とても濃厚なやつを。
 吃驚した。
 ばちっ、と一瞬、目の前で火花が散ったみたいに驚いた。
 やばい、と思った。
 マジ、猫にそんな気起こす変態だったか!? それとも、そう見えてないだけで酔払ってんのか!? 待て、まて! たんまッ! ちょっと落ち着け、おいっ! 早まるなっ!!
 逃げようとしても、く、と腰を支えられる手に力を感じて、上に持ち上げられる感じがある。負担にはならないものの、爪先立ちになった。
 その間も長く繰返されるそれに、段々、気持ち良くなってくる。

 ……違う。これは、

「責任取れって、普通、女性が言うもんじゃないんですか」
「黙れ」
 合間に囁けば、叱りつける声が答え、掠れた甘さがくすぐったい。直ぐに、口が塞がれた。
 身体のラインを確かめるように滑る手の感触を受け入れる。
 身体を支えられる手の、なんという安心感。どちらからともなく、身体が隙間なく密着する。
 ほんの戯れだった筈が、私も、突然、スイッチが入ったかの様に、もっと、もっと、とねだっている。
 ……もっと、頂戴。もっと、触れて。もっと、強く抱いて。
 言葉になるよりも先に求める。応じて、返す。
 体温があがる。熱を感じる。息苦しいほどに。
 こんな風に感じるキスは初めてだ。
 ああ、そうか。
 たった一瞬で、蓋をしていた感情があふれ出て来たことに気付く。
 自分がとても寂しがっていた事に気がついた。会いたかったと、彼に、この人に、こうして抱き締めて貰いたがっていた事に気がついた。理屈でなく、ただ欲していた事に気付いた。
 複雑な状況の中で、私達は互いの関係をリセットする為の時間が必要だった。その機が熟したという事なのだろう。
 あとは、単に、切っ掛けが必要なだけだった。
 男と女の関係には、タイミングも重要。
 いつからかは分らないけれど、互いを意識しながら、二人とも気持ちが同じ位置で踏み止まっていた。
 恋するまでには至らない、でも、引き返す事もできないで相手を眺めているだけの、境界の真ん中。お互いの立場を辛うじて保つための、本当にぎりぎりの。
 その手を伸ばす事すら躊躇われる絶妙なバランスで成り立っていた均衡を、たった今、私が崩した。
 ほんの悪戯心だったのに、もう本気になっている。止められなくなっている。
 しがみつく身体に押されるように後退りをする。
 でも、重なった唇は少し離れては、磁石の様にまたすぐに引き寄せられる。
 強い引力を感じる。
 押し付けられる様にして、またソファに戻された。弾みでクッションのひとつが床に落ちた。でも、拾う手はない。
 唾液の跳ねる音が続く。
 何度も繰り返し。
 首筋に触れる指先の熱さ。荒ぐ息。
 ……ああ、この人も感じているんだ。
 そう思うだけで、もっと、と繰返す。
 赤い髪の間に指を通し、息を継ぐ僅かな時間を惜しむ様に。
 それが、永遠に続くかと思われた。
 だが、ふ、とそれが止んだ。
 なんだ?
 半分、伸し掛かる状態で目の前にある顔をまじまじと見た。
 彫刻のように整った容貌。でも、無機質なそれと違い、生身の人間だけが持つ色を感じる。ソファの背凭れに挟まれる様に私の腰を抱く手からも、頬を撫でる指先からも、熱が失われた気配はない。
 頬から指先が伝い、掠めるように私の唇に触れた。なぞる様に、でも、触れるのを怖がるように。
 蝋燭の灯に揺れて、青い瞳は灼きつけた色に感じる。高熱の炎を思わせる色。
 ……この人のこんな顔、見た事ない。口から心臓が飛び出そうなくらい、どきどきする。頬が熱い。きっと、真っ赤になっている事だろう。
「良いのか」
 ……ああ、これが最終確認か。こんな状況で、らしい、と言えば、らしい。
 す、と感覚の一部に冷気が流れ込むのを感じた。
「貴方は? これから先、余計な荷を背負う事になるかもしれませんよ。これまで以上に悩んだり、苦しむ事になるかもしれません」
 それでも、息が詰るほどの昂ぶりを抑えて問い返す。
「それすらも生の一部と思えば。ただ、今はこの手を放す事がなにより難しい」
 それは、一時的な衝動だろうか。でも、それでも良いと思ってしまう。例え、騙されていたとしても。
 視線を私から動かすことなくゆっくりと、私の前に跪くように姿勢が直された。
 唇に移った紅の色に、指先を伸ばして、そっ、と拭った。
 触れる唇が動いて、「恐ろしいか」、と訊ねられる。
 はい、と私は頷き、そのまま下を向く。これ以上、まともに顔を見ていられない。
「怖れる必要はない」
「でも、」
「目の前に生い茂る棘があれば、切り開けば良いだけの事だ」
「切り開けない棘もあるかもしれません。あなたも、皆が傷つくかもしれない。そうなったら、私は、」
「そんなものはありはしない」
 静かだが、力強い言葉だった。だが、胸の奥で常に立ち続けている細波は治まりはしない。
「切り開けない棘など、この世に存在しない」
 私は訴える。この不安を。
「でも、怖くて、怖くて、仕方がないです。先の事を考えるだけで、どうなるか分からなくて……貴方を道連れに、不幸にしてしまうかもしれない事が、とても怖いです」
「誰も不幸にはならない。私も、おまえも、他の誰も」
「……本当に?」
「そうだ。私を信じろ」
 ほんとう? 本当に、大丈夫なの?
 ふ、とあげた正面に揺るぎない青い色を見付けると、そうかもしれない、と思えた。
 この人は強い。その強靱さは私も知っている。目的を果たす為ならば、何者をも退ける強さ。望みをかなえ、守るべきものを守る強さ。
「その為に、我が剣はある」
 信じたい、と思った。
「愛しいと思ってくれますか、どんな形であっても」
 せめて、この一時だけでも。選択に間違いないと思わせて欲しい。
「おまえを死なせたくないと、死なせてはならぬと思った。……最初から。何故そう思ったのか。しかし、その選択をした事を悔いた事はなく、悔いてもいない」
 指先が滑り落ちた。
「他の誰とも比べられぬ思いは、これまでもあった。そして、これからも抱き続けるだろう」
 拾い上げられた私の掌に、優しいキスが落された。
 熱い。……なんだか、泣き出してしまいそうだ。
 他の人に同じ事を言われたら、なんだ、とも思う言葉も、この人の口から聞けば、その重みがまったく違う。
 その意味は、特別な存在。唯一の。
 元婚約者だった、コランティーヌ妃。国で一番の美貌と謳われた、姫の中の姫。騎士の憧れ――誰であってもその人と比べていたと、嘗て私に言った。でも、その呪縛から逃れたという事。
「充分です。それで、充分です」

 ……ごめんね、ルーディ。ごめん、美香ちゃん。

 もう、湧き出る気持ちを抑えきれない。
 これが罪というならば、罰すれば良い。どれだけでも贖いもしよう。だから、許して欲しい。目の前にある望みに手を伸ばす事を。
 拭っても薄く紅の色を残した唇に、ふたたび色を分け与える。
 この人が好きだ。ずっと、好きだった。他の誰よりも。今は、どうしてこんなに好きなのか自分でもわからないほどに。
「愛しています、ディオ……ディオクレシアス」
 告白する。
 本当は、ずっと呼びたかったその名前にのせて。
 名を呼べば心が近くなりそうで、近くなり過ぎる様な気がして呼べなかった。
 その瞳の色を、私だけの空にしたいと思っていた。心密かに願っていた。
 でも、きっと、その願いは叶わないと思ったから。許されないと思っていたから。好きになってはいけないと感じていたから。……私のことをそういう風に見てくれないと思っていたから。
 だから、呼べなかった。
 カスミ、と夜の声が私を包む。
「おまえの望み、受け取ろう」
 涙が滲んだ。
 ずっと、聞きたかった。呼ばれるのを待っていた。
 夢中になって、その声を頬張って飲み込む。
 そのまま考える事を止めて、闇に身を委ねた。

 そして、私は夜の空に落ちて、溶けた。




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