……やっちまいました。

 急転直下。
 たった一回のキスで立ちはだかっていた障害を軽々と飛び越え、一気にゴールまで来ちまいました。あれだけどうしようかと悩んでいたのが馬鹿みたいに思える程の、あっ、という間だ。
 あれから暫くはソファにいたけれど、途中、寝室に連れていかれて、ベッドの上でした。
 食事の後で、酔っていたわりには吐いたりしなかったから、良かった。
 いや、でもなあ……なんていうか、最初、違和感があったのは、身体が作り替えられたせいか? 久し振りだったから、とか。……うーん、ま、いいや。気にしない。すぐに気持ち良くなったし。
 でも、それとは別に、問題もひとつ発覚。

 ……基礎体力の差があり過ぎる。

 がんがん突き上げられて、脳挫傷か脳ヘルニアになるかと思った。途中、別の意味でくらくらした。
 男の方が、体力つかうと思っていたんだけれどなあ。それ以上に体力があり余っているって事か?
 これからもそうだとすると、私の方もちょっとは考えねばなるまい。初回だったから、大部分はお任せ状態だったけれど、もちっと積極的に出てみるべきなのか。前戯で頑張っちゃうとか? 上にのせてると重いしなあ。出来るだけ私が上になるって手もあるが、あんまりやり過ぎるとお尻が平らになるとか言うしなあ。ああ、でも、それよりも、はしたないとか言われるのか? ……あーっ、足腰だりぃ。
 そのお相手の人は、今は隣で静かな寝息をたてている。
 暗い中でも、その顔形がわかるくらいに近くにいる。
 その顔は安らかで、意外に思うほど無防備だ。こどもっぽささえ感じる。
 なんだか、自分がこうして見ている事が不思議にも思える。
 綺麗な男だよね、本当に。男に綺麗というのもなんだけれど。……睫毛も赤いんだな。あたりまえだけど。
 それにしても、今、こうしていられる事は奇跡的だと思う。それとも、奇縁、とでも言うのか。
 白いシーツの上に散らばる少し乱れた赤い髪も、想像していたよりも柔らかい。
 布団から覗く肩や首筋、その筋肉。前にも見た事はあったけれど、なんだか眼に新しいほどに違って見える。
 眠っている人の顔は、起きている時と別人に見えたりもする。……不思議。
 以前、戦場でこの人が傷を負ったときに、看病しながら同じことを思ったことを思い出す。でも、その時とは、また違う感じ。
 そう思いながらも、つい、にやけてしまう。恥ずかしくも、わくわくとした嬉しさが勝る。これまでとは違う関係に、起きる変化を楽しみに待つ気持ちが湧いてくる。……時折、ちくり、ちくり、と胸の奥を刺す痛みや立つ細波の存在を感じながらも。
 でも、これも、自分の立場を忘れないためにも必要なものなんだろうと思う。
 そう言えば、この寝室に入るのも初めてだ。当り前だけれど。私の使っている部屋と匂いまでも違う。
 こんな事すら新鮮だ。でも、落ち着く。
 身体も心も、ぴったりと収まるべき位置に収まった、という感じ。
 ……ああ、なんだ。これじゃあ、まるっきりオンナじゃないか、私。
 それでも、良いだろう。せめて、今だけは。
 これから考えなきゃいけない事は沢山ある。この先どうしようか、とか。どうすべきか、とか。
 でも、今は何も考えずに眠ろう。不安も何もかも忘れて。
 きっと、大丈夫だ。こんなに暖いのだし……ひとりではないから。
 私は布団の中に潜り込むと、そのまま目を閉じた。

 唇に触れる優しい感触に目が覚めた。
「起こしたか」
 半分、寝惚けながら、薄暗い中で覗き込む顔に微笑んだ。
「もう朝ですか」
「時間はまだあるが」
 じゃあ、暫くの間、このぬくぬく状態を愉しんでいられるな。
 寒い空気の中、暖くしていられるのは好き。
 身体の向きを横にして、ぴったりとくっつける。すると、髪が撫でられた。
 この髪も、随分と伸びた。今は肩を過ぎて、背中の真ん中近くまである。それを何度も撫でられる感触が気持ち良い。
「にゃお」
 猫になった気分で鳴いてみたら、咽喉で笑う声が応えた。

 にゃあ。にゃあ。にゃあ。

 肩口に顔を埋めて、続けざまに鳴いた。
「チャリオットが乗り移ったか」
「チャリオットは雄なのでしょう。それとも、実はそちらのご趣味もあるんですか」
「それはないが、女にしては、少々、物足りなくもあるか」
 伸ばされた手が、腰の起伏を、するり、と撫でた。
 失礼な!
 抗議の印に、がぶっ、と肩に歯を当ててやる。
「冗談だ」
 笑い声が言った。
 うーん、寝起きだからか、乱れた髪に力みのない笑顔はとてもチャーミングに感じる。可愛い。
 ……この人を可愛いだなんて! 私の目もどうかしてしまったらしい。とうとう、恋愛仕様の特別製フィルター症状が出始めたか。
 でも、ま、いいか。こうして傍にいるだけで嬉しくて仕方がないのは、本当だから。
「思った以上に表情を変える。だから、少し驚いた」
「そうですか?」
 仰向けになった身体に、手足を絡める。
 肉体の質感の違いをダイレクトに感じる。
 耳を肌に密着させ、心音を聞く。
 力強く一定の早さで鳴る速度は、穏やかだ。いや、少し早め?
「普段、あまり顔に出すことがないからな」
「そうかな。そうですか」
「ああ、おまえは難しい。こうしていると別人にも思える」
「……人のこと言えないと思いますけれど」
 今、私はどんな風に映って見えているのだろう。
 上半身を起こし、その瞳を覗き込む。
「良くないですか」
 良くなかった?
 いや、と私だけを映す青い色が、細められた。
「その逆だ」
 ……えへへっ、嬉しいぞ。
「……そんな顔で笑いもするのだな」
 頬に当てられた手に擦り寄せる。
 厚みのある硬い感触。さらりとして、気持ちのよい温かさ。
 その手が動いて、そのまま、ゆっくりと私を誘導する。
 キスをしながら、きゅっ、と全身が中央に縮こまってしまう感覚を覚える。
 あちこちを彷徨い始めた手や唇の優しい動きに、うっとりとする。
 私も綺麗に筋肉のついた、ところどころに傷痕の残る肌に唇を落す。
 咽喉。肩。胸。耳。顎。唇。
 互いに呪文をかける様に息を吹きかけ、キスを繰返す。
 一度は鎮まった情熱を、再び焚きつける。

 ……結構どころか、かなり愛されているじゃないか、私。



 そして。
 次に目が覚めた時には……あれえ?
 自分のベッドにいた。
 ひとりで。
 素肌の上にガウンみたいなものを着ていた。ぶかぶかの。
 で?
 ディオは? 何処いった?
 いつの間に連れてこられたんだ?
 今、何時?
 ええと……着ていたドレス、どうなった?
 二部屋に渡ってあっちこっちに点々と、脱皮した様に脱ぎ散らかされていたと思う。あれを見ただけで、昨晩、何があったかなんて丸分りだ。
 考えてみれば、あれを脱がせるのも一苦労だろうな。コルセットは、着るのと同じぐらいに脱ぐのも面倒臭い。紐が絡まるし。そう考えると、男も大変だ。つか、その辺、結構、手慣れてたな……そりゃあ、当然、それなりに経験あるって事なんだろうけれど、えー……なんか、複雑。いや、私も過去を追究されたら辛いけれど。
 と、下らない事を考えている内に、ドアをノックする音がした。
「はい」
 答えると、ゲルダさんが姿を現した。
「お目覚めになられましたか」
 カーテンを開けながら、いつもの顔で問われた。ただ、挨拶が違う。
「……おはようございます」
「先ほど、王子様方よりの御使者の方がみえられましたが、本日はご気分が優れないという理由で、御断りさせて頂きました」
 ああ、そう。って、スレイヴさんが来たって、今、何時!?
「間もなく正午の鐘が鳴るかと」
 ……道理で。
「本日はゆっくりお休みになられるよう、ディオクレシアス殿下からの御指示です」
 ああ、気を使ってくれたか。確かに朝方のプラス一回が効いた。でも、寝過ぎだ。
「え、と、殿下は」
「御務めに出られております」
 ……元気だな。
「そうですか。ええと、誰がこれを」
「それは存じませんが、殿下が御連れになられた時には、既に身に着けておられました」

 げ。

 ……もう、何を言えば良いのか分らん。いや、運んできたのが他の人だったりしたら、もっと、吃驚だけれどな。しかし、運ばれても気付かなかったって、よほど爆睡してたんだな。……うわあ、それもなんだか。
 狼狽え気味の私をよそに、ゲルダさんは事務的な口調を崩す事なく言った。
「殿下よりご指示あって鍵を御預かりしておりますので、御渡ししておきます」
「鍵? どこの?」
「この寝室ので御座います」
 答えながら近付いてきて、サイドボードの上に小さな真鍮製の鍵が置かれた。
「隣室に通じる扉の鍵になっておりますので、必要に応じて御使い下さいますよう」
 隣室、と言いながら、書斎とは反対方向の壁に視線が流される。
「カギ穴はこちらに御座いますので」
 と、近付いた指先が、飴色の木製の一箇所を指し示し、少し開けてみせる。
 あれ、そこって隣の部屋への扉だったんですか。
 ワードローブの並びで、物入れになっていると思っていた。
 てぇ事は、つまり、殿下がいつでもこの扉を通じて部屋に来れるって事か。専用直通通路。でもって、私の気が進まなかったり、都合が悪ければ、拒否権はある、と。

 うげ。

 いや、まあ、この時点でバレバレなのは分るんだが、なんというかこの淡々とした反応が辛くもあるというか、その、穴があったら入りたい気分。
 ゲルダさんが、当り前の顔をして言った。
「なるべくならば、お使いになられない事をお薦めいたします」
 然様で。
「それで、お湯をお使いになられますか。それとも、先にお食事になさいますか」
「……お湯をお願いします」
「では、直ぐに支度を致します」
 メイドさん達がぞろぞろと部屋の中に呼び込まれ、湯浴みの準備が始まった。それを枕を抱えてぼうっと眺める。

 いや、まあ、なんと言うか……

 皆、素知らぬ振りを装っているが、表情が緩んでいる。くすくすとした笑い声が聞こえてきそうな雰囲気を感じる。してやったり、って感じで。
 それはそれで、身の置き所がないっていうか、やっぱり、穴があったら入りたい。てか、自分で掘っているのか、墓穴?
 がっくりと肩も落ちる。

 マジにこんな時ですら、プライバシーってもんはねぇのか?

 そして、身体に残る痕をメイドさんに見られて、また、身悶えする気分を味わった。

 ……あー、恥ずかし。




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