kumo


 暁闇はいまだ深く、しん、と凍える空気の中で月の光も薄く頼りない。闇より黒き影ばかりが浮かび上がる。時折、春浅い風が今年初めの花の香りを運ぶが、人々は夢の中で楽しむばかりだ。
 何処かで犬の鳴く声がした。と、突然、水を叩く音も響く。束の間、雲間から覗いた月明りが、白刃を照らし出した。
 それを手にするのは、一人の若者。
 引き結んだ唇に、真直ぐ引かれた眉も凛々しく、青年と呼ぶに相応しい覇気を纏っている。黒髪を後ろで結って垂らし、夜に溶ける藍の色の着物に袴姿という出で立ちだ。
 灯を持たずして若者は怖れを抱く様子もなく、それどころか、まるで昼間であるかのように辺りを見回した。
「そこか」見上げた屋根に鋭く呟くと、白い息の筋が消えない間に、ふわり、と舞い上がった。「見付けたぜ。観念しな」
 連なる黒き瓦の屋根の上、刀を脇に構えるその前に立ち塞がるのは、一匹の獣。否、獣というには、その姿は余りにも醜悪すぎた。
 若者より二回り以上は大きな全身をびっしりと覆う黒い毛が、近付く者を刺さんばかりに逆立っていた。滑る事なく屋根にしっかりとしがみつく四肢の爪はそれ以上に太く、光るように鋭い。おもむろに二本の脚で立った獣は、威嚇の声をあげた。吐く息も黄色く、周囲に硫黄にも似た、なんとも言えない異臭が漂った。
 若者が溜まらず袖で鼻を覆うその僅かな隙に、獣は身を翻して隣家の屋根へと素早く飛び移った。
「待てっ!」
 若者は懐から手ぬぐいを取り出すと鼻と口を覆い、臆することなくその後を追った。
 幾つかの屋根を越えたところで、獣は立ち止まった。そして、急に向きを変えると、追っ手に向って跳び返った。血走ったぎょろりとした眼には殺意が表れ、若者の咽喉元を狙い、鋭い爪が振り降ろされた。
 しかし、それにも若者は慌てず、僅かな動きのみで一撃を躱した。
 風圧で、袖が旗の様に翻った。
 若者は、傾ぐ足場にもよろける事なく獣めがけて駆け寄ると、刀を振るった。一瞬、火花が散り、鋼の擦れる高い音が空気を震わせた。獣の爪が、鋭い刃を受け止めては弾いていた。斜め後方へ流された刀の隙を縫い、間髪置かず、もう一本の腕が襲い掛る。
 あわや、という瞬間、素早く取って返した刀が辛うじて防いだ。
 大きな影に上から押され、片膝を屋根に付かんばかりまでに体を低くした若者は力を横へと受け流し、今度は薙いだところを反撃の暇を与えず、二度、三度となく獣に斬付ける。茶色の毛の束がほうぼうへと千切れ飛んだ。
 やったか、と思い気や、獣は傷一つ負った様子もなく、若者の頭上を一回転しながら飛び越えた。そして、またもや屋根を飛び移って逃げ始める。
「畜生!」
 言い捨てた若者の肩近くの袖が裂かれていた。だが、こちらも血を流した形跡はない。若者は身を翻すと、直ぐに獣の後を追った。

「いや、若いね」
 呆れるでもなく呟き、若者と獣の戦いを水路脇から見上げる男がいた。その足下には、先程、若者が削いだ獣の毛が数本、地面に突き立っている。ふうん、と男は声に出しながらその一本を拾い上げると、しげしげと眺めた。
 男は、四十を過ぎた頃か。落ち着いているというよりは、呑気。呑気というよりは、無頓着。顎に髭を伸ばし、髪を束ねていてもほつれる様に、無精の末と伺い知れるお粗末さだ。
 腰には、やはり、大小の刀を差してはいたが、針の様に硬い毛を指先で回しながら弄ぶばかり。若者の後を追う素振りさえない。眠そうな目で上を見上げ、その内、大口を開けての欠伸も出る。
 この男の名を、稲田 享輔《いなだ きょうすけ》と言う。
「隊長」
 呼びかけに、稲田は中途半端に口を開いたまま振り返った。
 いつの間にか、短い髪にきっちりと額当てをした、目元も涼しい青年が立っていた。優しげな顔立ちは、女形の役者と言っても通用するだろう。が、その腰にも大小の刀を帯びている。
「黒羽か」
 稲田は口を閉じると、僅かにその表情を引き締めた。逆に黒羽 倫悠《くろば みちひさ》は、ちらり、と白羽織の背に描かれた雲の紋を眺めては、微かに苦笑を浮かべた。
「こちらは片付きました」
「御苦労さん。被害は?」
「市井での被害はありません。隊では軽傷者が数名。詰所で手当てを受けさせています」あと、と若干申し訳なさそうに付け加えられる。「それ以外は、数名を残してへたっている状態です」
「まぁ、仕方ないよねぇ。狒狒《ひひ》相手だと、体力ではあちらさんの方が上だし。一度に二匹はきついなぁ。死人が出なかっただけ良しってところでしょ」
 獣の毛を指先で回しながら、稲田は部下を叱る事なくのんびりと言った。
「ええ、番のようです。でも、どうやら身が軽いと言っても、堀を渡るだけの跳躍力はないようですね。奥まで入り込まれたのは不本意ですが、逆にそれが利となりました」
 二人の立つ場所からも、民家や商家の建並ぶ向こうに高く突き出る一際大きな屋根が自然と視界に入ってくる。都の中心であり、国政が行われる『亞所《あしょ》』の大屋根だ。
 亞所を中心に渦巻き状に広がる堀は、大船が楽に通れるだけの幅がある。道とすればさしずめ大通りといったところで、そこから派生したかのような細い水路が、都の隅々まで行き渡っていた。現在、彼等は、その堀と堀の間に挟まれた地域にいた。
「あっちには行っていないよね」
 亞所の向こう側、西側方面を眺めながらの稲田の問いに黒羽は頷いた。
「四丿隊《よのたい》の区分には、一歩たりとも入ってはいません」
「それならいいや。あちらさん、何でかそういう事には煩いからねぇ。後からどう絡まれるか分かったもんじゃないから」
「そうですね」
 屋根瓦が大きく動く音が稲田達の耳に届いた。
「和真ですか」
 姿も見ぬ内から黒羽はその名を言い当てた。そ、と稲田は軽く頷く。
「こっちも脱落者ばかりでね」
「手を貸した方が良いですか」
「いや、大丈夫でしょう。一晩中の追っかけっこで、お前さんも疲れたろうし」
「ええ、まぁ」
「こういうのは年寄りには堪えるねぇ。早いところ片付けて、風呂入って、飯食って、寝たいよ」
「はぁ」
「夜番だと、ろくに吉乃にも会えないしねぇ。これが一番、堪えるかなぁ」馴染みの芸者の名前が出てくるところは、ぼやきと言うよりは惚気に聞こえる。「それに、そら、」
 見上げる側から、とん、と二つの陰が近くの屋根の上に現れた。どうやら、あちこち回った揚げ句、同じ場所へと戻ってきたらしい。
「いい加減、大人しく斬られていろ!」
 頭上から、良く通る声も聞こえてくる。
「そんなわけないだろ」
 黒羽のぼそりとした呟きに、稲田は口の中で笑った。


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