kumo


 流石に肩で息を始めた若者、羽鷲和真《わしゅう かずまさ》は、それでも余裕を感じさせる笑みを口の端に浮かべた。
 彼がそうであるように、狒狒もそろそろ体力の限界に近付いている頃だった。追い掛け始めの頃に比べて格段に動きは鈍く、こうして見合う回数も増えている。他の隊士達にも散々追い掛け回されている分、疲れもあるに違いない。
 しかし、油断は禁物。
 普段より、狒狒は猪や狼などの猛獣をいとも容易く捕えては食う『あやかし』だ。その性質は獣らしく、窮地に陥ればどれほどの力を発揮するかわからない。しかも、千年以上生きた猿だけあって、少しは知恵もある。さて、その知恵者はこのしつこい追跡者とそろそろ決着をつけようとしているか、どうか。
「いい加減、大人しく斬られていろ!」
 怒鳴る声に、きいっ、と高い声が呼応した。赤く濁った目を、かっ、と大きく見開き、上唇が白くめくれた。どす黒い歯茎と薄茶色の尖った歯列を剥出しにして威嚇をする。
 その時、狒狒の頭が僅かに下げられた。
 ――来る。
 和真は両足に力を込め、下段に構えた。
 次の瞬間、狒狒の姿が消えた。と、おもいきや、斜め上に向かって刀が勢い良く振り上げられた。
 ぎゃ、と叫び声があがった。
 和真はそのまま踏み込んだ左足に重心を乗せ、素早く振り向いた先から、斜め袈裟懸けに斬り付ける。
 どうっ、と屋根を揺るがす勢いで狒狒の身体が倒れた。
 和真は突っ伏す獣の背に駆け寄って、容赦なく急所にとどめの一刺しを入れた。引き攣るような震えを最後に、狒狒は完全に動かなくなった。
 それを見下して後、和真は笑顔一つなく舌打ちをした。
 藍色の着物に、点々と返り血の染みが出来ていた。口元を覆っていた手ぬぐいで払っても落ちるものではない。袖も切り裂かれ、心なしか、嫌な匂いも染みついてしまったようだ。
 また、隊服を駄目にしてしまったらしい……
 和真は腹いせに、狒狒の死体を屋根から蹴落した。
 こら、と軽い叱責の声があがった。
「汚れちゃったら大変でしょうが。片付けだって大変なんだから」
 刀を肩に担ぎ見下す先には、白羽織の袖を確認する稲田がいた。その隣には、一つ年上の幼なじみの男が笑みを浮かべて彼を見上げている。和真はもう一度、舌打ちを繰返した。
 ――また、先を越された。
 つまらぬ張合いと分かっていても、幼き頃から同じ道場で木太刀を交えた相手に遅れを取ったと知るのは面白くない。
 和真は刃を鞘に収め、道に飛び降りた。
「お疲れ」、と幼なじみから労いの言葉があった。
「そっちはどうだった」
「てこずったよ。結局、佐久間と旭日《あさひ》の三人がかりだった」
「そうか」
 黒羽が一人で仕留めた訳ではない事が少しだけ慰めになったが、それはそれで己の狭量さに気付き、嫌になった。
 あの、と彼等にかける別の小さな声があった。見れば、狒狒を仕留めた屋根の下の住人らしき男が、僅かに開けた戸口の隙間から、怖々とこちら側を覗きこんでいる。ああ、と稲田が男に向って愛想の良い笑みを浮かべて答えた。
「朝早くから騒がせて申し訳なかった。狒狒が出たんだが、これ、この通り」
 そら、と地面に転がる獣の死体を足先で小突く。
 ひっ、と怯える声があったが、獣が動かないと知ると、次に彼等が何者か気付いた様子で男は外に出てきた。
「これは守護さまとは存ぜず、失礼を致しました。お役目、御苦労さまです」
 深々と下げられる頭に、稲田は軽く手を振って答えた。
「いやいや、こちらこそ恐ろしい思いをさせたようで申し訳なかった」
「いえ、私どもも、守護さまのお陰で枕を高くして眠れるわけで御座いますから」
「そう言って戴けるとありがたい。実は、屋根を少々、傷めてしまったかもしれなくてね」
「その位の事は、どうぞお気になさらず」
「いや、かたじけない。こいつはこちらで片付けますので」
「お願い致します。こればかりは、私共ではどうしたら良いものか分かりかねますので。下手して祟られでもしたらと思うと」
「いや、お察しする」
 人の良さを競い合うような会話に、若者二人は首を竦めて視線を交わした。
「まぁ、おっつけ他の隊士達も来るので、その者達にでも」、と稲田が言う傍から、隊長、と捜し求める声が近付いてきた。
「おう、こっちだ」
 応えれば、和真達と揃いのなりをした三人が、次々と水路を飛び越えてきた。
「副隊長もこちらでしたか、羽鷲さんも」
「旭日、片付けは終ったのか」
 内、まだ頬に柔らかな膨らみを残した若い隊士に黒羽が問うと、「それどころじゃありませんよ」、と慌てた声が返された。
「あちらの橋で若い娘の骸が見付かったんです。全身、傷だらけの」
 ありゃあ……
 稲田の間の抜けた声が、白々とし始めた空にぼんやりと溶けていった。


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