kumo


廿陸


 ――あれは、何という気持ちだったのだろう?

 ここに連れられて来られてから、沙々女はずっとそればかりを考えている。
 昔、差し出された手を握りながら連れられて帰った時、確かに何かが胸の内にあった。しかし、それが何か、未だ思い出せずにいる。
 不思議と、その事ばかりが頭の中を過る。

 ――この気持ちは、なんと言うのだろう?

 ふ、と、沙々女、と呼ばれた声に、薄く目が開いた。だが、すぐに重い瞼は閉じかけた。
 次に耳元であがった声に、はっ、と沙々女は瞳を開いた。
 音が聞こえた。鋼を鳴らすような高く澄んだ音だ。
 叫ぶ声が、沙々女の耳を左右に貫いた。心の臓が跳ね上がった。
 どくん、どくん、と音に合わせて身体が震動し、全身に絞られるような痛みを感じた。
 自然と顔が上にあがった。
「和真さま……」
 その人が、すぐそこに来ていた。
 あの時と同じように。



 藍色の隊服のそこここが破れ、裂かれ、黒く変色している。
 頬は腫れ、口元が赤く汚れている。
 束ねた髪は散じて乱れ、その間から覗く瞳はぎらつき、まるで飢えた肉食獣と変わらない。
 点々と、腕を伝って、血液が床に落ちる規則正しい音が聞こえた。
 一体、どうなっているのか?
 和真は荒い息を吐きながら、目の前に立ちはだかる男を見つめた。素手である事が信じられない強さだった。
 一打の強さは、確かに峰唐山には及ばない。しかし、頑強さに於ては彼の隊長を上回るかもしれない。
「もう終いか?」
 両肌脱いだ芳西の筋肉の鎧の主張は、言われずとも分かる。
 即ち、力の誇示。
 それにしても、幾度となく斬付けたにも関らず、薄皮一枚裂く事が出来ないでいた。
 実際、窓ひとつない閉鎖された建物の中では使える技も少なく、和真には不利な状況だ。
 風はわずかな隙間風程度しかなく、水は見当たらない。炎は蝋燭の灯があるが、それにしても小さすぎる。あと、残るは手にした刀と彼自信の力のみだ。
「口では威勢の良くとも、所詮、その程度と己を知るがいい」
「うるせぇよ、この化けモンが!」
 吐き捨てるように答えた次の瞬間、芳西の肩口に力を籠めた刃がめり込んだ。躊躇いのない一撃だった。と、見えるが、肉に食い込む事はかなわず、やはり、一滴の血も流れる事はなかった。
 芳西の掌が、ゆっくりと直に当る刃を握った。
 和真の手の中で、持つ柄が軋む感触がある。
「このような鈍ら、幾度、叩き付けられようとも効かぬわ」
 次の瞬間、女に似た高い悲鳴をあげて、鋼の欠片が周囲に砕け散った。折れた刀身の先が、床に突き刺さった。
「なっ!」
 滅多に折れる事のない鋼を手で、しかも、素手で握り折ったその力の前に、和真も驚愕する。
「儂には勝てん。貴様でなくとも、何者が相手であろうと」
 説法するかの口調で芳西は言った。
「住む地を追われる事もなく、飢えも知らず、蔑まれ、排されることもなくのうのうと生きてきた貴様らに、真の強さが宿ろう筈がない。思想もなく、生から死に至るまでの全てがままごと遊びでしかない貴様らの脆弱さを思い知れ」
「そんな自慢の仕方あるかよっ!」
「縄」、と身ひとつになった和真は、両手を素早く交互に振り、幾本もの目には見えない縄を放った。
 風のない堂内にあって、一瞬で消えるか細い筋は、それでも芳西の身体に絡みつき、その動きを一拍、遅らせる。その僅かな隙に和真は全身を捻り、勢いをつけて男の頚部を横殴りに蹴った。
 倒れるまではいかないが、ぐらり、と巨体が横に傾いだ。そこをすかさず、体を低くして続けざまに膝の裏を蹴りつける。どう、と音を立てて、芳西の身体が初めて床に落ちた。
「礫」
 己の動きに応じて起きた風を飛礫にして、その身体に叩き込む。そして、仰向けに転がった男の顔を、力いっぱいに殴りつけた。  ぐしゃり、と鼻の骨が潰れる感触があった。呻き声もあがる。続けざまに、腹部の急所にも全体重をのせた肘を打ち込んだ。
 これは効いたらしい。
 芳西の身体が弓の形に逸らされ、口から血の混じった泡が吐きだされた。立ち上がった和真は、それでも尚、その横っ腹を蹴り転がした。そして、ぐったりと動かなくなった背の中央より下、脊髄の部分に垂直に拳を叩き入れた。
 その衝撃に、みしり、と下の床板が鳴った。
 芳西は動かなかった。息はまだあるが、失神したようだ。
 荒い息を吐きながら、和真はのろのろと身体を起こした。
「沙々女」
 視線を向けて呼べば、ゆっくりと顔をあげるのを眼にした。無事だったか、と獣の瞳にも柔らかな光が射す。
 強敵を相手に和真も既に身体はぼろぼろで、僅かな動きにも痛みが伴った。それを引き摺りながらも立ち上がり、沙々女を助けるべく堂内奥へと足を進めた。が、
「小童が!」
 背中に弾けた殺気と怒号を聞いた時には、既に和真の片膝は崩れ折れていた。
 板が割れる音と共に、腹に男の拳がめりこみ、したたかに背中を壁に打ち付けた。
 噎せる口から鮮血が迸った。
 決して小柄ではない身体を片手で軽々と持ち上げられ、床にそのまま叩き付けられた。雷に似た音をたてて、和真の身体は床に沈んだ。
 刀をなくした鞘が、床を滑って転がった。
 男の足が、和真の身体を躙にじった。
 息の出来ない苦しさに、和真からは呻く声しか出ない。
 芳西はそれを見下しながら、悠々と肩を回し、全身、あちこちのずれた関節を戻すかのような音を発して言った。
「弱者が幾ら足掻こうが、強者の前では這い蹲るのみ。何故なら、強者は強者であり続ける為の努力を常に強いられるからだ。より強くあれと、天がその道筋を示すのだ。運命さだめなどではない。天意なのだよ」
「和真さま」
 ふいに、声をあげた沙々女を芳西は肩越しに振り返り、射竦める眼で睨みつけた。そして、にやり、と笑った。
「見るがいい」
 伏した和真の髪を掴み乱暴に引き上げると、腫れ上り、血に塗れた顔を沙々女に見せつけた。
 苦しげが呻き声が浅い呼吸の合間に洩れた。それでも芳西の手を掴もうと、和真の指先は動く。しかし、たったそれだけの動作も容易ならぬ様子で、ぱたり、と下におろされる。
「ち……く、しょう」
 悔しげな掠れ声に、掴む手が笑った。
「見よ、そなたの為の贄にえだ。これから幾人であろうと捧げよう」
 芳西は笑顔のまま沙々女に言うと、乱暴に和真の身体を床に打捨てた。
 そして、ゆったりとした足取りで、目を見開いたまま硬直する沙々女に近付くと、血に染まった指先で背ける頬から唇を撫でた。
「護戈の血は、香しいであろう?」
 そのまま舐らせるように、指先を娘の口の中にねじ込んだ。
 血の匂いの中で、沙々女の眉が顰められた。
「母さま……」
 力尽きたかのように、娘の首も、ことり、と折れ落ちた。


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