kumo


廿捌


 その時、二丿隊寮へ逃げてきた市井の人々を避難誘導していた多賀井は、突然、川から持ち上がった影に驚き、目を瞠ったまま呆然と、為す術もなく見上げた。
 佐久間は三丿隊隊士とともに瓦礫の上でへたり込みながら、夢でもみているのかと瞬きを繰返し、何度も目をこすった。
 川中は、隊長である白木の下に急いで戻る途中それに出くわし、驚きのあまり担いでいた槍の束を道にぶちまけていた。
「これは……なんと、美しい」
 同じ時、白木はそれを見上げて感嘆の声を洩らし、失神した僧侶をふたり足下に敷いた峰唐山が獰猛な笑い声をあげて刀を抜くのを、周囲にいた隊士たちが慌てて身体を張って止めた。
 そして、水無瀬は亞所前に持ち上がったそれに言葉をなくし、次に力ない笑い声をたてていた。近くの屋根の上にいた稲田は力抜けたようにその場に座り込み、深い溜息を吐いていた。
 誰もが。
 護戈衆に限らず、目にした誰もが、それらの姿に魅入られていた。
 瓦礫の上で。屋根の上で。道の上で。水の上で。桟橋から。
 争っていた者も、怯えた者も、祈るだけの者も。
 都のありとあらゆる場所から、人々それらを目にした。
 そして。
 足下から気配なくせり上がってきたものに、黒羽は飛び退って逃げた。
 水飛沫があがり、雨のように辺りに振り撒かれた。
 北の空を貫く白い光の柱が立ち上った直後に、都中の水路を白い光が駆け抜けるようにして、昼間のように輝かせた。しかし、それも一瞬の事で、夜の暗がりに戻った矢先、それは現れた。
 水底からせり上がったそれは、うねりながら高さを増し、黒羽のいる屋根をも越えて、天まで届かんばかりの勢いで伸びていった。
 それもひとつだけではなく、都中のあちこちから、同じような黒い影が立ち上った。

 ほぉぉおおおおおおおおおっ……

 遠くから広がる響きがあった。獣の鳴く声とは違う、楽の音色にも似て非なる心打つ響きだった。
 力強くありながら、穏やか。誇らしげであり、哀しくも聞こえた。

 おおおおおおぉぉぉぉ……

 一際、大きく、黒羽の脇にいるそれも応えた。
 雷で打たれたかのような痺れが、黒羽を襲った。しかし、響きは身体を貫いて後、心地良いばかりの波のような広がりを残した。
「水神さまじゃ。我等をお救い下さるか!」
 老人の声がした。
 見下せば、水路の脇に並んで跪く人々の姿があった。老いた者も、若い者も、男も女も子供も、一斉に膝を折っていた。立ち上った姿に手を合わせ、祈りの声が捧げられた。
 いつの間にか、あれだけいたあやかしの姿がなくなっていた。影ひとつ、気配ひとつ残っていない。
「龍……」
 始めて眼にするそれに畏怖を感じながら、黒羽は呟いた。
 身動きひとつ、少しも眼を逸らす事が出来なかった。
 都中が、龍の響かせる鳴動に覆われた。
 突然、それが止んだ。 
 ぽつり、と黒羽の頬に水滴が落ちてきた。そして直ぐに、ぱらぱらと勢いを増して辺り一面を濡らすと、次に桶をひっくり返したような豪雨となった。
 雨は、燃え続けていた民家の炎を消し、人々をずぶ濡れにした。
 水煙の立つ中、龍達は頭を上げたまま静かに水の中に佇んでいた。
 闇の中立ち上がるその姿は、天の楼閣を支える柱のようでもあった。




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