kumo


廿玖


「此処は何処ぞ」
 尊大な女の問掛けに、弾かれるようにして芳西が前に進み出た。
「我が呼びかけに応じて降り立ち下さいましては有難く、恐れ多くも茶枳尼天さまには、」
「茶枳尼天? 知らぬな。それより、此処は何処じゃと聞いておる」
 明らかに、芳西の顔に戸惑いが浮かんだ。
「まさか。茶枳尼天さまではございませぬか」
「くどい。知らぬと申しておる。そちの耳は飾りか。何度、同じ事を言わせる」沙々女の顔をしたものは、小気味よい程にぴしゃりと言い放った。「誰か。話が出来る者はおらぬか」
 紅色の瞳が、未だ床に伏す和真を捕えた。
「此処は、雲引山麓にて海風寺と申すところでございます」
 和真が答えるまでもなく、背後から答えがあった。
 藍色の隊服が足音も立てずに進み出て、女の前に傅いた。
 沢木だった。
 あの三人の僧は、どうしたのか。平然とした姿には、傷ひとつ見当たらない。
 脇を通りすぎる瞬間、和真に向かって、ちらりと目配せがあった。どうやら、黙ってじっとしていろ、という事らしい。
 分からないなりに、和真も承知した。どの道、まともに声も出せそうにない。
「直にお話させていただく無礼、お許しを」
「そちは」
「先の朱上《しゅじょう》を務められました瑠璃さまに仕えた者に御座います」
「ほう。では、鳥か」
「元は、とつきますが。今はいずれの御方さまにも向ける刃はございませぬ」
「ならば、よい。直に話す事を許す。妾は、何故、このような場所に呼び出された」
「さて、どこからお話すれば良いか」
「手短にの」
 機嫌を直した様子で、女は、にっ、とした笑顔をみせた。
 和真が初めて眼にする、沙々女の明らかな表情だった。
 しかし、美しくはあっても、それは、背筋を、ぞっ、とさせた。あまりにも似付かわしくない表情に感じた。
 沢木は顔色ひとつ変えず、心得た様子で頷くと、話し始めた。
「今より十と八年程前でございますが、瑠璃さまが朱上の地位を退かれ、郷を離れる事と相成りました。その後、瑠璃さまより成出られた娘が、今、御方さまの身となっております。瑠璃さま亡き後、この地に住まいますれば、此処におります男の邪なる企みにより勾引かされ、助けを求めた末、御方さまを呼びだされたか、と」
 ええい、と芳西が癇癪の声をあげた。
「黙って聞いていれば、いい気になりおって、護戈風情が! 我が崇高なる志を邪とはよう言うた。即刻、その首、圧し折ってやるわ! 貴様こそ、茶枳尼天さまでなければ何者だ! いずれのあやかしか知らぬが、我が法力にて僕《しもべ》としてくれる!」
 腰の数珠を取るより早く、白刃が芳西の首に当てられた。
 沢木の抜刀の早さに、和真も目を瞠る。
「御方《おんかた》への無礼は許さぬ」沢木は感情もなく言った。「その首、即刻、斬り落したいところだが、御前を穢すわけにもいかぬ。暫し、そこで黙っているが良い」
 本気が伝わった。
 刃を突きつけられた者の額に、脂汗が浮かんだ。それでも、歪めた唇から憎々しげな言葉が吐いて出る。
「やってみるが良い。その前に、貴様の臓腑を掴み出してくれるわ」
 これも冗談ではなかった。
 芳西の手は既に、沢木の胸元を掴んでいる。この悪僧に皮膚を破り突き入れるだけの力がある事を、和真も身をもって知っていた。
 玻璃の瞳に、初めて微かな感情が浮かんだ。
 殺気に満ちた緊張を破ったのは、高い笑い声だった。
「つまらぬ座興《ざきょう》はもう良い。道化も過ぎれば、いっそ憐れというものよの」
 そして、十寸はあろうかという尖った爪を、芳西の眉間に突きつけた。
「しかし、妾を僕にしようとは、うつけの申す事にしても度し難し。たかが、一介の人の身でありながら分を弁えず、己が意のままに我が地に汚らわしきもの共を集め、穢した罪、万死に値する」
 じわり、と術もなく真綿で首を締めつけられるような怖れを、輪の外にいる和真さえ感じた。
 そのまま、男の額を刺し貫くか、と思われた爪がふいに引かれた。
「されど、妾が手を下すまでもないようじゃ。その身は早、終っておるの」
「なにを」、と芳西が声をあげた。
 が、次には前のめりになった。刃が咽喉に当る寸前で退かれた。
「そろそろ肝が溶け始めておる。気付いておろう。心は膨れあがり、咽喉も塞がってきておろうに」
「誑《たぶら》かすつもりか。あやかしの戯言《ざれごと》に惑わされる我ではない。我は茶枳尼天さまの守護の下、衆生を導く運命。そう天に導かれた。あやかしの術などに屈するものではないわ」
「たわけた事を」赤く冷ややかな眼が、芳西を見下した。「自身で毒を喰ろうたうつけに、なんの手を下す必要がある」
「なにを馬鹿な、」
 と、答えた先から、緑色の液体が男の口から吐き出された。
「穢れし人の身にこの血は毒。身にそぐわぬ力を欲せば、報いを受けるは道理。事切る迄の短き間、己が所業、僅かなりとも悔いるが良い。さすれば、茶枳尼天とやらが、憐れみを施すやもしれぬぞ」
 身を折ってもがき苦しむ男にはこれ以上興味がないと言わんばかりに、沙々女の顔をした女は背を向けた。
「馬鹿な」、と芳西の掠れた声が和真の耳にも届いた。
「この私が……馬鹿な、こんな、あって……」
 風が隙間を吹き抜けるような呼吸音が続いた。


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