kumo



 久し振りに縁側に出ると、木々を染めていた花の色は消え、すっかりと濃い緑が枝を覆っていた。暖い陽射しの中で吹く薫風は柔らかく、頬を撫で去っていく。
「もう起きていいんですか」
 駆け寄ってきた藍の隊服姿に、和真は少しだけ笑みを返した。
「寝てるのにも飽きてな。身体もすっかり鈍っちまった」
「けれど、あんなに酷かったのに、もう起きれるなんて凄いや」
「おまえも良いみたいだな」
「ええ、お陰様ですっかり。今、山瀬先生にも太鼓判もらってきたところです」
 旭日は元気よく腕を振り回して、明るく笑って返した。
「これから早速、詰所へ行って挨拶してから務めに復帰です」
「あんまり無理するなよ」
「大丈夫ですよ。皆が大変な時になにも出来ずにいたんですから。今は、少しでも役に立ちたいんです」
「そうか」
「こっちの方は任せて下さい。羽鷲さんこそ無理せずに、ゆっくり治して下さい」
「ああ」
「それじゃあ、行ってきます」
 藍の隊服を翻して走っていく旭日の背を、和真は見送る。
 そして、息を吐くと、杖を外して縁側に座り、空に浮かぶ雲をぼんやりと見上げた。
 穏やかな時の中にいると、まるで、ひと月前の出来事が嘘のように感じる。だが、それとは裏腹に、刻まれた記憶は、和真を疑問の海に深く沈める。
 それは、未だ彼の身体に残る傷の痛みや、外せぬ包帯や杖と同様、もどかしさを募らせる。
 あの時、何があったか。
 その殆どを覚えていた。
 すべてを再び目にする如く、頭の中ですべての記憶を再現できるほどにはっきりしている。だが、それでも、誰に何を訊かれても大して答える事は出来なかった。
 何が起きていたかも、交された会話の意味も、本当のところがまったく理解できていないからだ。
 庭の隅の物干し台に、洗濯物をいれた桶を抱える沙々女がやってきた。沢山ある固く絞った手ぬぐいや胴衣などを広げ、手際よく干していく。
 その姿を、和真はぼんやりと眺める。
 白く長い髪に紅色の瞳を持つ女は、その後ろ姿のどこにも見出す事ができなかった。まるで、あれは夢であったのではなかったか、とも感じる。
 沢木が『御方』と呼び、気高いばかりに美しい、残酷なまでのあの女が何者であったのか。朧げながら、和真には推測できた。が、それにも確証はない。
 沙々女自身、その時のことはなにひとつ覚えていないようだ。評定省の調べにも、攫われた経緯は話しても、それ以外は殆どなにも話さなかったらしい。話せなかった、というのが正しいのか。
 だが、ほんの僅かではあるが、彼女が変わった、と感じるのは気のせいか。
 瞬きひとつ、仕草のひとつに、心の表れらしきものを感じる。
 それは、沙々女の心を守り、覆うものの一部が欠けて、本来の彼女が出てきているせいなのだろうか。
 しかし、それすらも、原因となったらしい玄武の泉は、一滴も残さず大穴へと変わった。下手人もひとり残らず死んでしまった今、確かめる術はない。黒羽の捕えた正慶も、他の僧侶達も、牢の中で身体を干からびさせて死んでいたと聞いた。
 話に聞く限り、その死に様は芳西のそれと同じだった。
 結局、七丿隊の榊を始めとする幾つかの証言と証拠のみで、事件はおおよその形式を保った形で終結したようだ。
「沙々女」
 かけた声に、沙々女は振り返った。
 墨色の長い髪に瞳を伏せ気味にした佇まいは、いつも通りに感じる。茫として掴み所のない、およそ人らしくない。だが、僅かだが、生ある者の匂いが感じられるような気配を感じもなくはないと思うのは、彼の思い込みなのか。
「……いや、なんでもない」
「はい」
 仕事に戻る細い背に、なんとも言い様のないものを感じるのは、これまでと変わらなかった。
 意識を取り戻したばかりの頃、これから七丿隊へ帰る、という笹霧の見舞いがてらの別れの挨拶を受けた時の事を思い出した。

「大変そうだな」
 包帯だらけの和真を見てそう言った彼にしても、あれから都の後片づけの手伝いに加わって、忙しい思いをしたらしい。
「でも、無事で良かったな。あの娘も取り戻せたみたいだし」
「笹霧さん」
 少しだけ、事情を知るその隊士に、沙々女の身に起きた事を話した。すると、笹霧は、そうか、と頷き、
「滅多にあるもんじゃないが、強い力を持つ者には稀にある事だと聞く。下手すれば、魂を持っていかれる事もあるかもしれん。機会があれば、一度、婆さまのところへ連れてくるといいかもしれん。なんらかの防ぐ手立てを知っているかもしれないし、また、声に教えられる事もあるだろう。俺の方からも訊いておこう」
「すまない」
「いいさ。これもなにかの縁だ。それよりも、今はその傷を早く直せ」
 答えるその笑顔に力づけられた。

 しかし、それにしても、まだ分からない事は多い。多過ぎるくらいだ。
「あれは、」
 と、思わず口から出てしまった独言に、沙々女が彼を振り返った。呼ばれたと思ったらしい。
 和真は口をつぐみ、視線を地面に落した。
 あれは、と心の中で思い直す。あれは、宝珠と言われるものだったのか、と。何者かはっきりとは分からないが、『淡海の主』と呼ばれるモノの持つものであったと言う。

『さて、私が知る限り、瑠璃さまがなされたとは思えませぬ。お作りになった鞠の中に収めた迄は存知上げておりますが』

 沢木の言葉を思い出すだけで、そうだったか、と思うと同時に、いたたまれない気まずさに駆られた。
 おそらく、和真だけしか知らない、沙々女の鞠の行方。
 彼が十三才の、同じ季節の頃の記憶。
 一足先に、護戈の素養が認められ、黒羽が去っていった後、急く気持ちが押さえられず、庭でひとり、がむしゃらに剣の稽古をしていた時の事。
 持っていたのは、普段から練習に使う、刃を持たない普通の木太刀だった。昔から家にあるもので、なんの変哲もないものだ。
 いない相手に向かってそれを振るうにも飽きた和真は、なにか手応えのあるものはないか、と探していた。そして、ふ、と木陰に転がっていた鞠を見付けて、手にしていた。
 多分、弟が沙々女の隙をみて、隠したものだろう。弟は、しょっちゅうそうして沙々女をからかって苛めていた。
 その時の和真にしても、ただの悪ふざけをしたに過ぎなかった。
 和真は鞠を高く放り投げると、落ちてきたところを見計らって、木太刀を振り降ろした。
 軽く、叩く程度のつもりで。
 切先が鞠の表面を掠める、微かな手応えがあった。同時に目の前で、五色の刺繍糸が、ばらばらと千切れるのが見えた。
 瞬間的に、しまった、と思った。
 沙々女が、鞠を大事にしていることは、彼も知るところだった。それを傷つける迄のつもりは、さらさらなかった。
 だが、糸の間を掻潜るようにして、中から青い光を放つ小さな球が飛び出るのを見て、驚いた。まさか、そんなものが鞠の中から出てくるとは、思いもしなかった。
 青い球はそのまま宙に高く浮かび上がると、目にも留まらぬ早さで何処かへ飛んでいってしまった。
 和真は、不思議な青い球が飛んでいった方角を眺め呆け、あれは何か、と思うばかりだった。
 その足下には、鞠だったものの糸くずだけが残された。
 悲鳴が聞こえたのは、その直後だ。
 突然の声に、和真も慌てて様子を見に行けば、急に沙々女が倒れたと家の者が騒いでいた。しかし、すぐに沙々女は起上り、大事もない様子だった。
 その後も何もなく、鞠を捜すこともなかった。
 その時は、何も変わっていない、と和真は思っていた。だから、鞠の残骸を、こっそりと縁の下の土の中に埋めて隠した。それっきり、そんな事があった事さえ忘れた。
 それを今になって、思い出した。そして、今になって思えば、沙々女の気配が薄くなったのも、表情というものがなくなったのも、あの頃からではなかったか、と思い返した。

『それは呪じゃの』

 西で会った老婆は言った。

『母親がかけたかの』

 違う。
 知らなかったとは言え、それをより強くかけたのは和真だ。
 本来ならば、鞠の中に隠されたものはひっそりと沙々女を守り、鞠を手放す頃には、解放される筈のものだったのだろう。だとすれば、今頃、沙々女は、笑いもし、泣きもする、もっと普通の娘らしくあったかもしれない。
 それが良かったのか、悪かったのか。
 これ迄、沙々女は、情を感じなかった故に穢れを知らないですんだとも言える。だから、あの女が降りて、彼等は助かった。でも、だからとは言って……
 紅色の瞳のあの女。
 二度目の光の柱が立った時、都に現れた龍の群れが一斉に姿を消したという話を聞いた。それで、あの女の正体もなんとなく想像がついた。
 宝珠と似通った気配は、おそらく、神気と呼ばれるものに違いなかった。

『されど、これより先、此の娘と共にありたいと願うならば、鳥の心得を知るが良いぞ』

 沙々女と共にありたいか。
 改めて問われても、和真には答えられない。それでも、想う心はあった。
 それに、鞠の事を謝らなければならない。
 いや、だが、謝ったところで、感情の封じられた今の沙々女相手では、謝った事にはならないだろう。 しかし、このままでもいられない。
 宝珠をなんとかして、沙々女の中から取り出してから謝るべきだ。
 けれど、どうすれば良いのか……そんな事が出来るのだろうか。
 鳥のことも含めて、沢木に訊くべきなのだろう。
 いや、だが、しかし、鳥とは一体、なんだ?
 またぞろ、傷が痛み疼くような感じがする。
「和真さま」
 逡巡する内、呻き声をあげていたらしい。沙々女が声をかけてきた。小首を傾げ彼を見ている。
「ああ、え、と、なんだ」
 なんと答えれば良いものか分からない。どう言えば……
「沙々女、」
「はい」
「……握り飯が、食いたい」
「はい」
 何故、握り飯なのか。
 和真は意識せずに、つい、自分の口から出た言葉に落ち込んだ。
 だが、その後、沙々女が当然のように運んできた握り飯は、こどもの頃、道場帰りの神社で黒羽と一緒に食べた時の事を思い出させた。それで、「まあ、今はこれで良いか」、と思い直し、漸く落ち着いた気分になった。
 焦る必要はない。また、考えもするし、身体が治ればこうじる手段も見付かるだろう、とひとり静かに微笑んだ。
 夏の匂いを連れた風が、洗濯物をはためかせて去っていった。


 人の身は、水の流れる如くであるか。
 それとも、流れの中でも微動だにせぬ岩の如くであるか。
 或いは、泡沫の泡のような儚きものであるか。
 群青の空に、大きく羽根を広げて力強く舞う鳥の姿があった。

『水泡語り・地龍丿巻』





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