kumo



 ――あれは、なんという気持ちだったのだろう……

 あれからずっと、沙々女はそればかりを考えている。
 考えているが、やはり、一向に分からないでいる。

「今の貴方には、私の声は届かぬでしょう」
 一丿隊副隊長であるその人は、沙々女に言った。
「しかし、いずれは、私の知る貴方のお母上のことを話す機会も得られましょう。その時まで、これまで通り、お母上の事は口にせぬ方が宜しいかと。遅かれ、どこぞのいらぬ耳に伝わるかもしれませぬ故」
 その言葉の意味もさっぱり分からない。分からないが、沙々女は頷いた。
 沢木はそんな彼女に微かな笑みを向けた。
「彼は、羽鷲くんが、これからも貴方の鳥としての務めを果たす事になるかどうかは分かりませんが、貴方がその手を離す事がない事を祈ります」
 本当に分からない事ばかりだった。だが、分かるのは、和真から離れない方が良い、という事らしい。
 菊も消える前に、沢木に同意するように微笑んで頷いた。
 黒羽には、菊から頼まれた言伝を伝えて鈴を渡したが、ちゃんと受け取って貰えた。
 黒羽からは、意識を失っている和真と共に、いつも通りに綺麗な音が聞こえていたが、すこし音が変わったように感じた。それとも、変わったのは、和真の方か。
 確かめる間もなく、その後、すぐに集まってきた他の護戈衆たちに彼女たちは助けられた。
 和真は意識を失ったまま、二丿隊の寮へ運ばれていき、今も山瀬たちの治療を受けている。傷は深く、骨も数箇所、折れていて、完全に回復するまでにはもう暫くかかると言う。でも、命には別状はないという話で、皆、喜んでいた。
 戻った沙々女に、はつは大泣きし、加世は抱きついて笑った。
 源八やほかの隊士たちも、口々に「無事で良かった」と言っては、笑顔を見せたり泣いたりしていた。
 稲田は、彼女の姿を見て微笑み、「良かった」、を何度も繰り返して笑みを浮かべながら涙ぐんでいた。
 それを見て、涙が出るのは悲しい時ばかりではないのだと、沙々女は初めて知った。
 それから直ぐに評定省の取り調べも受けたが、実際、何があったか沙々女自身も記憶にない事が多く、話せることが殆どない彼女に、役人たちは酷くがっかりしたようだった。
「気にする事はないよ」、と付き添いで一緒についてきた稲田は軽く笑って言った。
「沙々女ちゃんが無事だったことが、一番なのだからね。本当に無事で良かったよ」
「……和真さまは、」
「ああ、羽鷲もすぐに元気になるさ。彼は丈夫なのが取り柄だし、黒羽も、私も、二丿隊の皆もね。皆、無事であったのがなによりさ」
 稲田のそう答える顔を見ていると、ぽっかりと水の中から浮き上がってくるようなものを沙々女は感じた。それは和真の手を取った時に似て温かく、彼女の身体の中で弾けて薄く広がっていった。そして、稲田の言った通り、本当に良かったことなのだと、ほんの少しだけ分かったような気がした。

 いつか、それをはっきりと知る事があるのだろうか。
 その時、あの時の気持ちが何か、分かるようになるのだろうか。

 戻って来た日常の中で、沙々女はいまも考えている。




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