kumo


 その小国は、長く連なる大陸の東の端の端に位置していた。
 東の海と三方を山脈に囲まれて、もとは葦の葉ばかりが揺れる湿地帯であったと言う。
 今でもそれらしく、豊富に湧き出る水がこの地にあって、人々を潤し、悩ませる。
 誰が最初にこの地を訪れたのか。
 それは、様々な言葉で語られる。
 神意に導かれ、訪れた旅人であったと言われる。
 大国同士の戦を逃れて来た者と言われている。
 ただ、誰であれ、この地に留まる事を許したものがいた。
 それは、水の青と空の青を瞳に宿した一匹の龍と伝わる。
『我等、龍族が収めるこの地を穢す真似をしなければ、眠りを妨げなければ、敬い祀るならば、この地に留まるを許そう』
 それから次第に数を増やしていった人々は、干拓と開墾を繰返して、貧しい地にあっても、その地に留まり続けた。
 富を多くしても争いが続く地より、貧しくとも、天然の要塞が守る穏やかなこの地を、第二の故郷と定めた者が多くいた。
 故に、この国にはさまざまな肌の色や目の色を持つ者が暮らす。
 しかし、人が寄れば、争いが起きるのは世の常。時と共に、龍の言葉も次第に忘れ去られる。
 より多くを支配をしようと目論む者が現れた。小競り合いが頻発した。また、益を求めて他国から攻める者あった。大きな争いが繰返された。
 乱世は巡り、だが、その度に、龍が目覚めては全てを押し流した。
 強き者も弱き者も、或いは、悪しき者も善き者も、人の作りし物の全てが葬り去られた。
 それでも、生き残った者の多くが、この地を離れる事はなかった。
 洗い流された地に残されたのは、より肥沃な土壌とそれに根ざす恵み。
 再び、創造の時が始まった。
 そして、それからも数えきれないだけの破壊と再生を繰り返し、今こそ小春日和に似た穏やかな世が訪れている。
 龍の瞳は深い水の底でまどろみ、地の上では人々が日々の営みを続ける。
 青き水の国。
 王を持たないその国の名を、青藍《せいらん》の国と呼ぶ。
 北谿《ほっけい》の都を中心とし、綻びる花如く盛りの兆しを今、みせ始めている。
 しかし、やはり、その流れは清きものばかりではなかった。

 目覚めても、和真の心は晴れなかった。
 その原因は、先に見た光景が、深く脳裏に焼き付いて離れなかった事に他ならない。
 死人を眼にしたのは初めてではなかったが、まだ、女と言うには、あどけなさを残す娘の無惨な様子は、直視するに忍びなかった。
 亡骸の状態から、娘が亡くなってから数刻も経っていないように見受けられた。昨夜の内に、どこかで落とされたか投げ込まれたのが流されて、偶然、橋桁に引っ掛かったところを発見されたらしい。
 娘の年の頃は、十六、七才。僅かに身に付けた物から判断して、良家で生まれ育った者のようだった。瞳を閉じた美しい顔立ちに苦しんだ様子はみられない。
 おそらく、一瞬の事だったのだろう。あらぬ方向に曲がった細い首には、紐などを使った痕がない事から、強い力で捩折られたかと思われた。だが、それ以前に受けたのだろう仕打ちが、身体の随所に残されていた。
 水に流され、はだけた衣の端から覗く肌のあちこちに、ぶつかったり擦れたりしたらしい痕がついていた。が、それよりも多くの、鋭い刃物によるものらしい傷痕がはっきりと見て取れた。その傷すべてが致命傷には至らない、肌の表面を薄く裂くものばかりで、全身に及んでいるようだった。命を失うまでのどれだけの時間か、娘が何者かに執拗に嬲り続けられた事は想像に難くなかった。
 誰もが視線を背け、口の中で可能な限りの雑言を呟いた。
 しかし、和真たちが憐れな娘の為にできる事は何もなかった。せいぜい番所まで走って、報せに行ったぐらいのものだ。
 彼等の務めは、人を相手にするものではない。
 例えば、狒狒のように人ならぬモノが相手であった場合にのみ動く。或いは、死んだ娘の魂が肉体を失った後も彷徨い、害をなした場合に彼等は動く。
 いつからか、国のあちこちに人ならぬ怪しき異形のモノたちが徘徊し、害をあらわすようになった。その外見は、形も種類も千差万別。しかし、問題はその外見ばかりでなく、魂さえ異形となった事にある。
 元は人ばかりとは限らず、死した後の霊魂だけが異形と化した実体を持たないものもいれば、有り得ない年月を経て生きた動物が魂をそのままに不死のモノへと化したものもいる。或いは、死して実体から遊離した霊魂が、別の実体を得て異形となる事もある。それとも、人の強い念や思いが魂へと変化し、異形を成す場合さえある。それらを総じて『あやかし』と呼ぶ。或いは、『物の怪《もののけ》』とも呼び習わされる事もある。
 何故、そのようなモノたちが存在するようになったかは分からない。だが、それらが人に害を与えるを防ぐ役割を彼等は担う。それは誰にできるものではなく、ごく限られた一部の者たちだけが持ち得る能力だった。彼等はそれを駆使し、霊験あらたかな刀を振るう事で、いち早くあやかしを退治せしめる。
 正式な役職名を『護戈《ごか》』と言い、担う者を『護戈衆《ごかし》』と言う。
 護戈は現総帥である賦豈《ふがい》老の下、都に四隊、国のそれ以外の地域にて四隊と、計八つの隊がそれぞれに指定された地域を守る。稲田が率いる和真の所属する隊は二丿隊であり、一丿隊と共に都を東西に分けた東の地域を守る。
 並みの者より卓越した能力を持つ彼等を、人々は畏敬の念を籠めて『守護さま』と呼ぶ。
 因みに、人同士の争い事などを取り締まる『柝縄《たくじょう》』、或いは『柝繩衆《たくじょうし》』は、より人近くにあって、慕われ、嫌われる事はあっても、敬われる事は少ない。
 この二つの組織は、国の行政機関である『評定省《ひょうじょうしょう》』の『守戈部《しゅかぶ》』の管轄の下で管理運営されている。評定省は守戈部の他にも十一の部を置き、国内外の政治的役割を担っている。
 そして、評定省のその上には、『八老師《はちろうし》』と呼ばれる、国中から集まった選ばれし八人の賢者が、国の最高決定機関として存在していた。


back next
inserted by FC2 system