kumo


 中天高くに上った陽の光が、障子ごしに明るく見えた。
 布団から起き上がった和真は、大きく伸びをした。軽く首と肩を回せば、塊を弾くような音が重なった。だが、筋肉に痛みもなく、身体のどこにも異常はないようだ。
 部屋を仕切る衝立の向こうから、相部屋の多賀井《たかい》の高いびきが聞えた。まだ目覚める気配はないが、夢の邪魔をしないよう和真はそろそろと立ち上がりかけた。と、その時初めて、自分の枕元にきちんと畳み置かれた隊服が目に入った。広げてみれば、破れも返り血の痕もない。眠っている間に用意されたものらしい。
 和真は隊服を大雑把に畳み直すと浴衣のまま部屋を出て、階下に降りた。顔を洗い水時計を見れば、九ツ半を示していた。そのままの格好で食事をする為に広間へと移動した。
 人の動く気配に重なっていくつかの音が聞こえた。その存在の殆どが彼等の世話をする者達ばかりで、隊士はひとりのみだ。
 広間に通じる板戸を開けると、予想通り、二十以上もの膳が手付かずのまま並んでいるところに黒羽の姿だけがあった。碗がまだ伏せてあるところを見ると、彼もまだ席についたばかりらしい。和真の挨拶に、幼なじみの男もいつもの落ち着いた様子で応えた。
「稲田さんは」
「まだ、部屋で休んでいるよ。あれから柝繩衆への事情説明の後、評定省へも報告に行ったから」
 そうか、と和真は頷いて、黒羽の真向かいの席についた。
「眠そうだな」
 そう訊ねると、
「ああ、夜番はこれがきついな。なんだか眠った気がしない」
 と答えながら、黒羽は首を左右に振った。
 責務により他の者達よりも休む時間が短いに違いない男は怠そうにしながらも、身嗜みはすでに整っていた。逆に、浴衣姿のままの和真をしげしげと眺める。
「おまえは元気そうだな」
「まあな。悪くない」
「あれだけ走り回ったっていうのに、大したもんだ。どこにそんな体力があるんだ」
「鍛え方が違うんだろ」
 そう嘯くと、まったく、と面白くなさそうな呟きがあった。
 奥の戸が開いて、盆の上に飯櫃と汁碗をふたつ載せた娘が入ってきた。
 年頃は死んだ娘とそう変わらないだろう。絣の地味な着物を身に付けていたが、透けるような白い肌を持つ顔立ちの美しい娘だった。些細な所作にもたおやかさが感じられ、一見、とても賄い仕事をするようには見えない。墨色の長い髪の前部分を平元結いで留め結び、残り髪と端もあわせて捩り、玉結びにして元結で留めている。だが、その顔には表情というものがなく、畳の上を足音もなく歩く姿は朧げで、幽鬼めいてさえ見える。
 娘は、ちらり、と和真の方を見たが、挨拶することもなく彼等の膳の間に座った。汁碗をふたりの前に置くと、まず、黒羽の方から碗を受け取った。どうぞ、と小さな声と共に飯の盛られた碗が返される。
「ありがとう」
 和真は、対面の男のにこやかな笑顔を見た。
 和真が黙って空の碗を差し出すと、娘は同じく無言のままで飯をよそって返した。そして立ち上がると、やはり、何を言う事なく部屋を後にした。
「おまえ、よく、あれだけ愛想良く出来るな」娘を見送った和真は、黒羽に言った。「ろくに喋らない、笑いもしない相手にどうして、そうもにこにこしていられるんだ」
 さあな、と碗の陰で口角があがった。
「そういう性分なんだろ」
 軽い意趣返しに、まったく、と和真は舌打ちをしながら箸を手に取る。と、碗を膳に戻した黒羽は何気ない様子で切りだした。
「ところで例の娘の事なんだが、身元が明らかになったらしい」
「もう? 早いな」
 煮物を咀嚼する合間に答えると、うん、と黒羽も頷く。
「ああ、隊長の話だと、三日前から行方知れずで役所にも届けが出ていたそうだ」
「三日前か」和真は眉をひそめた。「それで」
「名前は登紀《とき》。材木問屋の盛田屋の一人娘だそうだ」
「盛田屋というと、かなりの大店だな」
「ああ。『そこまで』と言ってひとり出て行ったきり、戻らなかったらしい。店の者も方々を探し回ったようだが、見付からなかったそうだ。金目当ての勾引《かどわ》かしと見られていたそうだが、可哀想な事になったよ」
「それで、下手人の見当はついたのか」
 いや、と、一旦、箸を置き、黒羽は首を横に振った。
「評定省はおおかた人の手によるものと見ているようだが、傷の付き方などから、はっきりと断じる事も出来ないでいるようだ」
「あやかしの仕業かもしれないというわけか」
「その可能性も捨てきれない、ということだろうな」
「そうかな」、と空にした汁碗を和真は置いた。「性質の悪い男に引っ掛かったんじゃないのか。最近は、人を殺すだけが目的の輩もいるそうだし。大店のお嬢様じゃあ、世間にも疎いところもあるだろう」
「そういう事もあるかもしれないな。その辺の調べは、今、舵槻衆《たつきし》がしているだろう。なんにせよ、若い連中が少なからず動揺しているようだから、早いところはっきりさせて欲しいよ」
 狒狒を追いかけている間に殺されたのではないか、と若い隊士の一人が口にするのを、和真も耳にしている。あるいは、狒狒に殺されたのではないか、と。その考えは責任感の強い者達にとっては辛く、やりきれないものがあった。
 経験の浅い者はともすると感情に引き摺られ、勤めに支障をきたす場合さえある。稲田の傍らで隊を纏める立場にある黒羽や、それを補佐する役目の和真にとっては頭の痛いところだ。
「ともあれ、結論が出るまでは見回りを密にしておくように、と評定省からのお達しだ。もし、それらしいあやかしなりを仕留める事があれば、すぐに報せるように、だそうだ」
 ああ、と和真は頷いた。
「沙々女《ささめ》さんも、普段から気を付けておいた方がいい。出歩く時は誰にでも声をかけて、一緒に行くようにした方がいいだろう。それでなくとも物騒になってきているから」
 黒羽の言葉に、いつの間に戻ってきたのか部屋の隅にいた娘は声もなく頷いた。そして、また前触れなく突然、部屋を出ていった。
「誰か来たのか」
 驚くでもなく、黒羽は呟いた。
「まったく、辛気臭い」
 冷たく答える和真に、眉がひそめられる。
「どうも、おまえは沙々女さんにきつく当るな。子供の頃から一緒だったわりには」
「同じ家にいたというだけで、どうというわけでもないさ」
「そうでもなかろう。剣の稽古の帰り途中、神社へ握り飯を届けてくれたりしていただろう」
「あれは、あいつが勝手にしていた事だ。別に頼んでいたわけじゃない」
「そうなのか。俺は少し羨ましく思ったものだったが」
「おまえも握り飯、食っただろうが」
「そういうのじゃないさ」
 和真は黒羽の薄い微笑を横目で見た。
「おまえも多賀井たちと同じか」
「多賀井がどうかしたのか?」
「あいつをなんとか笑わせようと、色々と試みては失敗しているらしい。無駄だと言ったんだがな」
 おやおや、とまだ少年に近い隊士らしい所業に、黒羽も思わず苦笑した。
「だが、確かにその気持ちは分かるな」
「よせよ。こんな話を知っているか? ある国に美しい妃がいたが、これがどうしても笑わない女だった。王は妃を笑わせようと色々と画策したが、全てが無駄に終った。ところが、ある日、兵士の一人が、勘違いから敵国からの襲撃を報せる烽火《のろし》をあげてしまった。国は大混乱となった。皆、慌てふためき右往左往した。その様子を見た妃は、その時、初めて笑ったそうだ。王は喜び、それからと言うもの兵士に命じて幾つもの烽火をあげさせた。妃の笑った顔を見たさにな。そして、本当に敵国の襲撃を受けた時も烽火はあげられたが誰も本気にはせず、その国は滅びたそうだ」
「傾国ってやつか。それにしても、笑顔一つになんとも壮大な話だな」
「だから、無理に笑わせようなんて考えない方がいいのさ」
 ふうん、と黒羽は頷いた。
「しかし、何故だろうな」
「何が」
「笑わない理由さ。何かそうなった原因があるんじゃないのか」
「さあな。あったとしても関係ないし、あいつが話すなんて事はないだろう」
 その時、奥の戸が開いて、女中頭のはつが顔を覗かせた。
「黒羽さま、ご実家からのお遣いがみえていますよ。お届け物ですが、代わりに受け取っておきましょうか」
「いや、食事も終ったし、行くよ」
 席を離れる黒羽を見送って、和真も立ち上がった。


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