kumo


 二丿隊の隊士達の身の回りの世話をする者は、沙々女を含めて五名いる。
 女中頭を務めるはつは、夫である同じく下働きを勤める源八とともに稲田が就任する以前の隊長時代から長年、この寮に働く。その経験から他の女達をうまく纏め、大らかでありながらきっちりと仕事をこなしている。だが、のんびり屋の夫には少し厳しいようだ。
 次に長いのはすゑで、元二丿隊の護戈衆だった夫を亡くした寡婦だ。同じ身内を亡くした境遇とあってか、沙々女をなにかと気にかけている。
 二十歳といちばん沙々女に年の近い加世は、昨年、治療班に所属する犬養と祝言をあげたばかりだ。まだ初々しさの残る新妻は、時折、夫との時間がなかなか持てない事に不満を溢すが、それでも年若い隊士達を弟のように可愛がって面倒をみている。
 沙々女以外は寮に泊まることもあるが、皆、帰る家を持ち、大抵は通いで勤めをこなす。
 これだけの人数で二十人以上いる護戈衆の世話は大変で、掃除、洗濯、繕い物、食事の支度と、次から次へと働いているうちに、彼女たちの一日はあっという間に過ぎているのが常だった。沙々女は寮の片隅にある一室に暮らして、他の者が帰った後も仕事もこなす日常を過していた。

 広間を出た沙々女が厨に戻るのと、裏口から両手に風呂敷包みを抱えた娘が入ってくるのと、ほぼ同時だった。
「沙々女ちゃん、こんにちは」
 菊は慣れた様子で、迎える娘に明るい笑顔と声を投げかけた。
 十七になったばかりの娘の笑顔に影はなく、溌剌とした雰囲気は沙々女とは好対照だ。
 明るく物怖じしない性格に目鼻立ちのはっきりとした顔立ちには名前通りの華があり、二丿隊の若い隊士達の間で噂にのぼる事も多い。彼女が来ていると知った上で、それとない風を装ってわざわざ覗きに来る者もいる。だが、この日は起きている者さえ少なく、顔を出す者は誰もいなかった。
「丁度よかったわ。沙々女ちゃんにひとつお願いがあったのよ」菊は辺りを見回して誰もいない事を確かめてから、声を小さくして言った。「あのね、今度、一緒についてきて欲しいところがあるの」
「どこへ」
「都の北っ側にある古いお堂なんだけれど、そこの境内に、最近、当るって評判の占いのお店が出てるんですって。一度、みてもらいたいと思うんだけれど一人で行くのも心細いし。でも、後でその事をみんなにふれ回られでもしたら嫌でしょ。その点、沙々女ちゃんなら安心だから」
 にっこりとした笑顔が、沙々女に向けられた。
 でも、とそれに娘は俯いた。
「お仕事があるから」
「半日だけでも駄目かしら」菊は頼み込むようにして食い下がった。「ね、お願い、一緒についてきて。後生だから。もし悪いことでも言われたらって思うと、ひとりでは怖くて行けそうにないのよ」
 半泣きの声に、沙々女はますます俯いた。
「おや、お菊ちゃん、いらっしゃい。おつかいかい」
 そこへ箒を手にしたはつがやってきて、娘達に声をかけた。
「おはつさん、こんにちは。ええ、倫悠さまへお届け物にあがりました」
「それは、ご苦労さま。黒羽さまならもう起きて、羽鷲さまと一緒にお食事されているよ」
「あら、じゃあ、お邪魔したら悪いかしら」
「さあ、どうだろうね。訊いてきてあげようか」
「お願いします。ああ、それでね、おはつさん」
「なんだい」
「今、沙々女ちゃんに、一緒の日にお休みをとってお出かけしましょうって話してたんですけれど、沙々女ちゃんは、お仕事があるからって言うの。半日だけでも駄目かしら」
 おや、と長年、二丿隊の世話係を勤める女は、若い娘達に向かって笑いかけた。
「いいよ、いいよ。行っておいでな。半日なら一人抜けたところで大丈夫さ。この娘ときたら、ここに来てからというもの、ろくすっぽ休みもせずに働き通しだからね。こっちは助かるけれど、たまには息抜きも必要だろうしね」
「明後日とか大丈夫かしら」
「明後日? ああ、いいよ。丁度、昼番に代わる時だから、仕事も少なくてすむし」
 よかった、と菊は両手を胸元で組合わせて飛び跳ねるように喜んだ。
「沙々女ちゃんも、折角なんだから、遠慮せずに遊んでおいで」
 顔をあげた沙々女はそう勧める女中頭を見上げ、「ありがとうございます」、と頭を下げた。
 黒羽へ知らせに行ったはつを見送って、菊は一段とはしゃいだ声をあげた。
「ついでに他の所も見て回りましょ。お店を覗いたりして。そうそう、龍神のお社にある茶店のお稲荷さんが、とっても美味しいんですって。お昼はそこで食べましょうよ。ね、楽しみだわ」
 その勢いに、頷く娘のか細い返事も掻き消される。
 その時、す、と奥へ通じる戸が開き、赤みがかった短髪の青年が顔を出した。その顔には苦笑が浮かんでいる。
「やはり、お菊だったか。戸の向こうまで声が響いていたよ」
 倫悠さま、と途端に菊の声が一段高くなった。そして、顔を赤らめると、急にもじもじと膝をこすりあわせる仕草をみせた。
「申し訳ありません。お食事の邪魔をしてしまって」
「いや、いいよ。母上から何かあったかい」
「はい。奥方さまから薄物を仕立てたのでお届けするようにと申しつかって参りました」
「それはまた、気の早い事だね。夏はまだ二月も先だと言うのに。でも、折角のお心遣いだ。有難く戴いておこう。ところで、父上も母上も、皆、元気でお過しかい」
「はい。お二人ともお元気でいらっしゃいます。いつも、倫悠さまの事をご心配なさっておいでです」
「そうか。こちらは怪我もなく元気に勤めに励んでいる。また、今度の昼番の時にでも顔を出すから、それまでお身体にお気を付け下さるよう伝えてくれないか」
「畏まりました」
「おまえも帰り道には気を付けるんだよ。最近、なにかと物騒だからね」
「はい。ありがとうございます」
 頭を下げる娘の顔には、微笑みが溢れ出ていた。
「じゃあね、沙々女ちゃん。明後日の四ツ頃に迎えに来るわ」
 明るい声に、ええ、と沙々女は頷き、足取りも軽く帰っていく娘の後ろ姿を見送った。
「お菊と何処かへ出掛けるのかい」
 黒羽の問いに、沙々女は、はい、とだけ答えた。
「そう。お菊は明るくてしっかりした娘だから、一緒だったら楽しいし安心だね」
 それで、と言いかけた時、板の軋む微かな音が聞こえた。
「誰か起きてきたな。滝口か、坂本か」
「後呂柁《うしろだ》さん」
「え、」
 呟かれた無役の隊士の名に反射的に黒羽は振り返った。だが、ない気配に当然の如く誰の姿もなかった。起きてきた者の名だったかと気付いた時には、ほっそりとした後ろ姿は厨を後にしていた。閉められた戸に向かって、黒羽はもどかしさを振り払うように頭を数回振った。
 自室へ戻る途中、はたして沙々女の口にした隊士と黒羽は擦れ違った。
「副隊長、おはようございます」
「ああ、おはよう」
 畏まった挨拶に返事をしながら、隊士が発する気配を確かめた。
 未成熟な隊士にありがちな特徴の薄い気配は、それを読むに長けた彼でも判別が難しい。人の多くいる家屋の中では特にそうだ。しかし、それ以上に沙々女の気配は掴みづらかった。
 ごく注意をして見当をつけてから、やっと居場所を捕えられる程度でしかない。反応のなさもさることながら、本当に微かな、生きている人間とは思えない程の薄い存在感だった。
 例えるなら、春先の池に張った薄氷。いつの間にかそこにあり、いつの間にか消えている。
 それで彼も、今迄なんど驚かされたか分からない。そして、その瞳をとらえることは、それ以上に難しかった。
 黒羽は包みを抱えたまま、悩ましく嘆息した。


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