kumo


 その日、約束した時間に迎えに来た菊と共に、沙々女は出掛けた。
「気を付けて行っておいで」
 珍しくも暇をとって出掛ける娘を、はつを始めとした世話係の者たちは快く送り出した。
 その日は快晴だった。
 早花咲月《さはなさづき》の空は青く、ぽかぽかとした明るい陽射しのなか、咲き初めの花が都中に淡い香りを振り撒いていた。時折、吹く風はまだ冷たさを残しているものの、柔らかみを帯びて肌に心地よい。山からの雪解け水で嵩を増した流水の音に混じり、数を増した鳥の声もそこ此処に高らかに響いている。
 娘達は伝馬舟に乗り、都の中心街へと向かった。
 ふたりを乗せた舟は水路をゆらゆらと揺れながら、ゆるやかに水路を渡っていく。護岸や擦れ違う屋形船には春の陽気に誘われたらしい着飾った者の姿が多く見られ、それを眺める娘達の装いも、普段より華やいだものだった。
 梔子の地に大きな赤い格子縞の小袖は、溌剌とした雰囲気の菊にとても良く似合っていた。大きな蝶が留まっているかのように結った髪形は、帯の結び方と合わせ、今、都の若い娘の間で流行《はやり》のものだ。
 沙々女はというと、髪は普段と変わらぬ玉結びのままではあったが、撫子色に染められた地に白い小花を散らした小袖を身に付けている。その色は彼女の白い肌に映りも良く、大人しめではあるが、いつもより明るさを感じさせた。片側だけを長く垂らした萌黄色の細帯は、古風さがかえって眼に新しい。
 櫂を操る船頭は若く美しい乗客に機嫌よく、なにやかやと話しかけては返る答えに白い歯を見せた。
 都中央にほど近い桟橋で舟を降りた菊と沙々女は、人通りの多い賑やかな大通りを歩いた。
 人々が行き交う中、聞こえてくる声を拾い上げれば、初荷が到着したばかりらしい。早速、あちこちの店先には冬の間には見られなかった商品が並べられ、買い物客の財布の紐を緩くしていた。
 菊は店先に並ぶ簪や櫛に立ち止まっては、嬉しそうに眺めた。
「これなんか沙々女ちゃんに似合いそう」菊は鳥の形に細かな細工を施した銀の簪を手にして、連れの娘の長い髪にあてがった。「ああ、でも、この珊瑚玉も良いわね。沙々女ちゃんは髪も綺麗だから、なんでも似合って羨ましいわ。あら、それも可愛いわね」
 沙々女の手にある、幾重にも小花が重なる飾りに声をかけた。
「それは、良い品でございますよ」、と傍にいた店の者も満面の笑みを惜しまず、横から口を挟んだ。
「南谿から届いたばかりの品で、名の通った錺職人が仕上げた物ですから細工に品がございますでしょう。お嬢様でしたら、きっとお似合いですよ」
「そうね。でも、こういう物は自分で買うものじゃないわ」
 菊は頷きながらも、途端、澄ました口調で答えると、沙々女から簪をさりげなく奪っては、元あった場所に戻した。
「そろそろ行きましょう」
 菊に強く手を引かれながら、沙々女は店を出た。
「駄目よ」菊は歩きながら言った。「あまり物欲しそうに見ているとつけこまれるわ。ああいう手合は、何か買わせるまで離そうとしないのよ。さっさと逃げ出すに限るわ」
 引っ張られて歩く沙々女の口から、小さな答えがあった。
「母さまが似た簪を持っていたから」
「母さまって、沙々女ちゃんのおっ母さん?」
 菊は立ち止まり、振り返った。俯くような頷きがあった。
「沙々女ちゃんのおっ母さんは、今、どうしているの?」
 それには言葉なく、首が横に振られた。菊は、はっ、と表情を曇らせた。
「そうだったの。ひょっとして、いつも沙々女ちゃんが寂しそうに見えるのは、そのせいなのかしら。お父っあんは?」
 その問いにも、また、首が振られた。菊は黙って下を向く沙々女の手を両手で包み込むようにして、優しい微笑みを溢した。
「沙々女ちゃんのおっ母さんだったら、さぞかし綺麗な方だったんでしょうね」そうして、手を繋いだまま、歩調をゆっくりとして歩き始めた。「あんな品は、なかなか自分で買える物ではないわ。沙々女ちゃんのおっ母さんのも、誰かから贈られた物だったかもしれないわね。お父っあんとか。でも、誰か好いた方に頂けたら本当に嬉しいでしょうねぇ。そんな高価な物でなくてもいいから」
「黒羽さまに?」
 沙々女のぽつりとした問いに、聞いた娘の顔が真っ赤に染まった。
「いやぁだぁ、沙々女ちゃんたら」
 片袖で口元を隠し、もう片方で沙々女の肩を軽く叩く。
「ちがうの?」
 追い討ちをかけるかのような問い掛けに、菊は暫くの間、両袖に深く顔を埋めて外そうとはしなかった。
 娘たちはその後、社の境内にある茶店で昼食がてら休憩する事にした。
 社の祭神は、天地大龍王神《てんちだいりゅうおうしん》。人々には、龍神さま、または、水神さまとも呼ばれ親しまれている。かつてこの地を収めていたという龍を祀るこの神社は、臥龍湖《がりゅうこ》にある臥龍神宮《がりょうじんぐう》の分社の中でも都一広い鎮守の森に囲まれ、立派な拝殿で知られる。日々、参詣に訪れる人々で賑わっていた。しかし、拝殿より少し離れた一角にあるこの茶店は、不思議なほどに静かだった。枝に出揃ったばかりの浅い緑の木々に囲まれて、鳥の鳴声と湧水の池で回る水車の音を聞きながら、ふたりの娘たちは名物の稲荷寿司を分け合って頬張った。
「美味しいわねぇ」
 菊は笑顔をみせながら、どこか探る雰囲気で沙々女に訊ねた。
「ねぇ、二丿隊での倫悠さまは、どんな感じ? 他の隊士に混じって騒いだりなさるのかしら」
 沙々女は首を横に振って答えた。
「黒羽さまは、いつもきちんとされているわ」
「やっぱり、お優しくてらっしゃる? 沙々女ちゃん達にも?」
「えぇ」
「好いた方がいるとか、そういう噂はない? 変な女が訊ねて来たりとか」
 沙々女は首を横に振った。ほっと胸を撫下ろすようにして、菊は、良かった、と言った。
「倫悠さまは誰にでもお優しい方だから、言寄られたりしているんじゃないかって心配なの。この間も狒狒を退治なさったって評判にもなっているし。知ってる? 倫悠さまと羽鷲さま、お二人とも腕が立って苗字に『羽』がつくでしょ。だから、二丿隊の両翼って呼ばれているのよ。そう言えば、沙々女ちゃんは、前は羽鷲さまのお家にいたんですってね」
「えぇ」
「じゃあ、羽鷲さまの事をよく知ってるのね」
「さぁ」
「さぁ、って、お話ししたりするんでしょ」
 首が横に振られるのを見て、もう一人の娘は眉をひそめた。
「お優しくないの?」
 また、首が横に振られた。
「じゃあ、なんで」
 沙々女は暫くの間、黙った後、ぽつりと答えた。
「お世話になっていたから」
 それには、ああ、と菊も瞳を伏せ、寂しげな横顔を見せた。
「そうよね。黒羽家は旦那さまも奥様もお優しい方だから、奉公人の私が倫悠さまとお話しても何もおっしゃらないけれど、他家ではそうはいかないかもしれないわね。聞かれない限りは、主人に口をきく事も許されないお家もあるそうだし」本当はね、と菊は声を小さくして言った。「奉公する身でお慕いするなんて、浅ましい、おこがましい事だって思ったりもするのよ。たまにお姿を拝見して、お声をいただけるだけでも幸せなんだ、って。でも、もっと、って思ってしまうの。分かっていても、どんどん欲が深くなっていくの。沙々女ちゃんみたいに、毎日、お傍でお世話をして差し上げたいと思って、いつか、私だけを見て頂けないかしら、って願ってしまうの。気付かない内に、倫悠さまの事ばかりを考えてしまって……今、どうされているんだろうとか、お怪我をされたりしてないだろうか、とか。胸が苦しくなったりもするけれど、優しい気持ちにも、楽しい気持ちにもなれたりするわ。叶わないと分かっていても、どうしようもなく気持ちが湧いてきてしまうのよ。でも、想うだけなら良いわよね?」
 瞳を僅かに潤ませながら笑みを浮かべる娘に、沙々女は頷くでもなく答えた。
「黒羽さまが、お菊ちゃんのこと、明るくてしっかりした娘だって」
「そうおっしゃったの?」
 こくり、と頷く頭に、ありがとう、と小さな声が言った。
「さあ、そろそろ行きましょう。まずは、お参りしてからね」
 縁台から元気良く立ち上がった菊に、沙々女もあとに続いた。そして、立ち上がりしな、ふ、と池の方に首を巡らした。
 誰が流したのか、一艘の笹舟が水面に浮かんでいた。湧水の作る澄んだ波間に、ゆらり、ゆらり、と揺れていた。何処からか、読経の声が流れ聞こえてきた。
「どうしたの」
 問う言葉に、沙々女は首を横に振って笹舟から視線を外すと、もう一人の娘の後を追った。



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