kumo


拾壱

 その時、遠くから水無瀬を呼ぶ声があった。見れば、屋根の上を飛び越えて来る人影がある。
「ここだよ!」、と張り上げる声に、舟すぐ近くの水面に藍色の隊服が降り立った。水の上でも沈む事なく立つ一丿隊隊士は、捜し急いだのか、多少、息があがっていた。
「先程、龍神大社境内の池に『濡女《ぬれおんな》』らしきあやかしが現れたとの報せあり、隊士達全員、急ぎ討伐に向かいました」
 途端、柳眉がしかめられた。
「『牛鬼《うしおに》』は。濡女が出たってことは近くにいるだろう」
 濡女は、如何にも憐れな様子で抱えた赤ん坊を通りかかった者に手渡そうとするあやかしだ。知らずに受け取れば赤ん坊は重さを増し、抱えた者は動けなくなる。その上で、牛の身体に鬼の顔を持つ牛鬼が、鋭い爪と角で動けなくなった者を襲って殺すというのが常なるやり方だ。二人三脚とも言えるこの二体のあやかしの連携は、向かう者にとっては性質の悪いものだった。
「まだ姿は確認されておりませんが、柝繩衆に人々の避難をさせるよう指示は出してあります」
 水無瀬は立ち上がった。
「よし、すぐに向かう。沢木、先に行く」
「はっ」
 返事に振り返ることなく水無瀬は水路に飛び降りると、そのまま勢いをつけて走り始めた。背に負う立浪紋が霞むほどに細かい飛沫が周囲に飛び散るが、不思議と白羽織どころか藍の袴を濡らすことはない。
 髪を靡かせて駆ける水無瀬の姿は、まるで吹き抜ける風の如く早く、軽やかだった。通り道に一筋の白い泡の軌跡だけを残し、目的地に向かって水路をまっすぐに走り進む。分岐にかかる手前で立ち止まることなく、ぽおん、と高く跳躍すると、正面にある屋根の上に飛び移った。
 驚いた水鳥が鋭い鳴声をあげ、屋根にいた鳥たちが一斉に羽ばたくが、そのとき既に人影は次の屋根へと移っていた。道行く者の中には、なにか、と気付き見上げる者もいたが、誰もその姿を眼の端にさえとらえた者はいなかった。
 瓦の海を飛び渡り急いだにもかかわらず、水無瀬が社に到着した時には、いくつもの悲鳴と叫び声があがっていた。あちこちから逃げ惑う人々の姿も見られる。
「なにやってんだい、避難はまだすんでないのかい!? 柝縄の連中はどうした!?」
 怒鳴る白羽織に、散開する隊士の間から「隊長」と幾つもの声があがった。
「牛鬼が暴れ回り、その柝繩衆さえ危うく、」
「濡女は仕留めましたが牛鬼には及ばず、今、初穂《はつほ》が逃げ遅れた子供を抱えたまま追われ、逃げている状態です」
 早口での報告の合間にも、続けざまに大木が倒れたらしい音が轟いた。
「足止めぐらい出来るだろう!」
「木を倒しながら進んでいる為、思うようにいかず、また、立ち去ろうとしない弥次馬が未だ残っている為に、迂闊に仕掛ける事が出来ません」
「情けないねぇ!」
「申し訳ありません!」
 また、樹木が引き裂かれる音が響いた。
「どっちへ向かっている」
「西の方角に!」
 水無瀬は足早に音のする方へと足を向けた。
「弥次馬は殴り倒してでもいいから、とっとと追っ払っちまいな! 一班は回り込んで、牛鬼を表参道に追い込め。二班と三班は挟み打ちにして、東からそっちに行かせるな。残りは退路を塞げ! 一歩たりとも境内から出すんじゃないよ、いいねっ!」
 移動しながら声を張り上げ指示を出す。配置された場所へと向かう部下たちを横目で見ながら、自らは表参道へと急いだ。二の鳥居を抜け、社を背に広い参道の真ん中に立つ。袂から襷《たすき》を取り出し手早く袖をからげると、刀の柄に手をかけ腰だめに構えた。
 すうっ、と赤い唇が深い息を吐き出す。構えの姿勢のまま、強い光をもった瞳が、ひた、と真正面を睨み据えた。
 清いばかりに白い玉砂利を敷き詰めた足下に、仄かな砂煙が立ち昇った。まるで意思を持つかのように玉砂利が音を立てて一斉に動いた。
 音が止んだとき、草鞋が踏みしめる地面には、水無瀬を中心とした砂利の水紋がくっきりと形作られていた。
 地響きの音が近付いてきた。
 木が倒される音に混じって、複数の牛鬼を追い上げる声がはっきりと聞こえてきた。緑の間に藍の色がちらちらと見え隠れする。
 突然、左側の薮を抜けて、お下げ髪の少女が道に飛び出してきた。必死の形相で、両腕に羽織りに包んだ幼子をしっかりと抱きかかえている。
「初穂、こっちだ!」
 まだ入隊して間もない部下を水無瀬は呼んだ。
 声が届いたか、少女は片足を軸に横滑りするように向きを変え、水無瀬に向かって突進した。構えるすぐ脇を通り過ぎ、社へ向かって参道を走り抜ける。
 遅れること一瞬、少女と同じ方角から、下草を割って一頭のあやかしが参道に突っ込んできた。
 黒い毛の逆立つ巨体が、重量を感じさせる地響きをたてる。蹄のあいだから伸びる鋭い爪が、地面の玉砂利を割り散らかした。とても実体を伴わないモノだとは思えない存在感だ。
 空気を震わす咆哮があがった。
 目標を見失った牛鬼は、周囲を取り囲む隊士達を手当たり次第に襲い始めた。まさしく鬼の形相で、広い参道を右へ左へと突き回っては、一向に、正面へ向かってくる気配はない。
「退きなっ!」
 怒鳴る声を合図に、藍色の隊服が一斉にその場から消えた。
 一瞬、虚を突かれた形になった牛鬼は戸惑いをみせたが、それでも漸く、正面に立ちはだかる女の存在に気が付いたようだ。細い瞳孔が切り裂く刃の鋭さで次なる獲物を睨み据えた。どんな鉱石よりも硬く、鉄の板さえ突き通す二本の角が、水無瀬だけに向けられた。
 牛鬼の身体のあちこちには、隊士達がつけたのだろう傷が幾つも出来ていた。しかし、それのどれもが浅く、滅するどころか力を削ぐに至らぬものばかりだ。傷口から流れ落ちる体液と口から溢れ出る涎が一緒になって、異臭とともに足下の石を焼いた。
 艶然と赤い唇が笑った。
「大した不細工じゃないか。来な!」
 呼応するかのように四つ足が地面を蹴った。
 並みの獣以上の速さで突進してくる怪物を相手に、水無瀬は瞬きもせず、真っ向から挑む。
 鈍い光を放つ角が、けして大きくはないその身体を貫こうとした。周囲で密かに見守る者たちが、あっ、と声をあげる間もなく、とてつもない速さで白刃が踊った。その間、三寸もなかろう至近距離。
 気が付けば、二本ある内の一本の角が牛鬼の頭から消えていた。
 獲物を仕損じたことに牛鬼はより狂気じみた様子で四本の脚をばたつかせると、白羽織めざして噛付いた。真っ赤な空洞の中の鋭く尖った牙が、柔らかな女の肉を食い千切らんと襲いかかった。
 それより数瞬はやく、蹄に弾かれる玉砂利の飛礫を避け、ふわり、と水無瀬の身体が宙を跳んだ。長い髪を靡かせながら見下すその表情には、余裕さえ伺える。そして、牛鬼の後方斜めに間合いを取った位置から、着地と同時に刃を真一文字に引いた。
 どん、と音なき音がその場にいる者の鼓膜を打った。
 もうもうたる砂煙が周囲を覆い、ばらばらと巻き上げられた玉砂利の雨も降りつける。何も見えない。
 その中、えいっ、と気合いの声が聞こえた。どうなっているのかと見守る内、煙幕を割って飛び出てくる人の姿があった。
 それを追い掛けるように、未だ霞むその中で立ち上がる巨大な影。振り上げた二本の足で宙を漕ぎ、女の頭に照準を定めている。徐々に風に吹き払われたそこに表れたのは、片目を潰された牛鬼の姿だった。
「薙刀っ!」
 水無瀬の一声に、ぽぉん、と長い柄のそれがどこからか放り投げられた。得たり、と伸ばした手が、見事に掴み取る。
 そこに襲いかかる蹄という名の鈍器。構えるより早く、美しい容貌を踏みしだこうと振り下ろされたその瞬間、
「散!」
 刃を持つ脇に挟んだ長い柄が、弧を描いた。
 一声言い終えるか終えないかのうち、牛鬼の動きが止った。前脚を宙に浮かせたまま、眼を大きく見開き硬直している。
 吹き抜けた一陣の風が、参道脇の樹木の枝を鳴らした。
 その一拍の後、鬼の顔が太い首よりわずかに斜めにずれた。断面も見せぬうちに落ちたそれは、地面に触れるより先に塵となって消えた。と共に、その身も空気中に溶けるように散じていった。どこからか、長い断末魔のような啼き声が響いて消えた。
 荒れ土が剥きだしになった参道の真ん中にひとり残った水無瀬は薙刀を下ろすと、大きく息を吐いた。
「お見事でした」
 いつからそこにいたのか、沢木が近付いた。
「ああ、こいつは助かったよ」
「おそれいります」
 続いて駆け寄る隊士達の一人に、薙刀が手渡された。
 子供の泣き声が響いた。見れば、まだ幼子を抱きかかえた少女隊士の姿があった。
「初穂、よく頑張ったな」
 水無瀬の労う言葉に、途端、まだ幼さの残る顔がくしゃりと歪んだ。
「怖かったあ、怖かったよう、」
 気が抜けて安堵したのか、幼子と一緒になって泣きだした少女を取り巻く隊士達の顔にも微笑みが戻る。水無瀬はそれに気を緩めることなく、次の指示を出した。
「母親を見付けてやれ。近くにいるだろう」
「はっ」
「怪我人は」
「居合わせた者の中には、逃げる際に足を挫いたり怪我をした者が数名おりましたが、皆、軽傷です。今、治療班に手当てを受けさせております」
「よし」
「隊長、それで、例のものをあちらの池で発見しました」
 一部下の報告に、女の眉が動いた。
「どこにある」
「そのままにしてあります。誰にも手を触れさせておりません」
「見せてもらおう」
 水無瀬はその場を離れると、沢木を伴って境内にある池へと向かった。
 緑に囲まれた穏やかだった筈の池の畔が、見るも無惨な様子にすっかりと様相を変えていた。
 新芽をつけ始めたばかりの樹木の幹は裂け目も新しく地面に這い、枝を棘のようにあちこちに突きだしている。緩やかに回っていた水車は、欠片を残して木端と化し、柱が倒された茶店は、今にも崩れそうな程に大きく傾いでいた。
「あれに」
 沢木が池を指さした。騒ぎの余韻を残す濁り水の上に、笹舟は緩やかな波紋に乗って揺れていた。
 水無瀬は静かに水面に立ち入り、それを拾い上げた。そして、緑の船底にある掠れた赤黒い痕を見て取る。
「気に入らないねぇ」
 笹舟が女の手で握りつぶされた。



back next
inserted by FC2 system