kumo


 夕刻、薄暗がりの道場でひとり木太刀を振るう姿があった。
 力強く床板を叩く足音と空を切り裂く鋭い音が、四方を壁に囲まれた空間に響く。見えぬ相手に対して、構えの姿勢から足を踏み込み、腕を振り降ろす。払い、突き、切り込む。切り込み、受け止め、突く。張りつめた空気の中で、何ひとつ無駄のない動きが続けられていた。
 しなやかな腕の筋肉が複雑な陰影を見せ、自在な動きを見せる。しかし、吐く息は、平時と変わらぬほどに押さえられたものだった。ひとつひとつの型を丁寧になぞるその動きは、優美な舞にも似ていた。
 その動きが止り、緊張が緩んだ。
「熱心だな」
 かけられた声に和真はゆっくりと型を解き、振り上げていた木太刀を下ろした。
「倫悠」
「相変わらず、おまえの型は綺麗だな。町道場の頃から褒められていただろう」
「それは、おまえだろう。天賦の才ここにあり、とかなんとか言われて」
「あの先生はなにかと大袈裟なんだ。護戈衆の間ではなかなか通用するものではないさ」
 検定を受ける前から、護戈に憧れる少年たちは街の剣術道場に通っては木太刀を交え、お互いに切磋琢磨しあった仲だ。それが今もこうして肩を並べていられるというのは、幸運なことだろう。
 和真は謙遜する幼なじみの言葉に笑みを浮かべた。
「そういうものかな。それで、何か用か」
「ああ、他の連中は出掛けると言っているが、おまえはどうする」
 務めの時間が夜から昼へ変わるこの日に限っては、久し振りに家に一時帰宅する者や憂さ晴らしに出掛ける者が多く、寮から人気がなくなるのが恒例だ。
 和真は僅かの間、考えてから答えた。
「やめておく。どうも、そんな気分にはなれん」
「そうか」
「おまえは」
 逆に問えば、ううん、と倫悠は唸った。
「俺も遊ぶという気分ではないな」
 ふうん、と和真は意味深な笑みで問いかける。
「いいのか」
「なにが」
「待っている女がいるんじゃないのか。なんと言ったか、葉月だったか長月だったか、そんな名前の」
「よしてくれ。そんなのじゃないさ」
「二丿隊の副隊長は、どうやら大人しい女がお好みらしいとの噂だ。店で一番、物静かな娘を選ぶってな」
「そう言うおまえはどうなんだ」黒羽も負けずに、切り返した。「羽鷲殿が色街を歩けば、見せ清掻き《みせすがき》の音が急に賑やかになるから、居場所がすぐに分かると聞いたぞ。朝には泣かせた女の涙で、辺りの水嵩が一寸増しているって話だ」
 あはは、と和真は笑い声をあげた。
「それはまた大袈裟だな」
「笑い事じゃない。そういうのを面白がらない連中もいるんだからな」
「四丿隊のやつらとか」
「また、おまえは」
「大丈夫だ。俺もつまらん揉め事は起こしたくない」
 そう言いながらも明るく笑う友に、黒羽は吐息を吐いた。
 護戈という役目である以上、身を固めにくいのはお互い様だが、和真にはどうにもその辺でだらしないところがあった。
 どういうわけか、女によくもてる。護戈ということを別にしてもそうであるらしい。裏表のない性格が同性から見ても、おおよそ気持の好い男であることに間違いはないのだが、異性からも好かれるという点では黒羽も首を傾げる。
 昼番の時には寮に戻らない夜も多い。務めを疎かにする事はないが、隊服から艶めかしい白粉の匂いを漂わせていた事もある。それも、特定の決まった相手がいるというわけではなく、その都度、変えてのことらしい。一度ならず「おんなを取った」と見知らぬ男に突っかかられた事もあれば、隊の中でも、「食い散らかしている」と陰口を叩く者もいる。それでいて、途切れることがないのは大したものだが、だからこそ、よけいに始末に負えないと感じる。本人にも改まる気持ちがないようだ。だが、反面、そういう奔放さが黒羽には羨ましくもあった。
 その和真が言った。
「出掛けないなら、一本、手合わせといくか」
「そうだな、いや、やめておこう。そういう気分でもない」
「付き合いの悪い」
「お互い様だ。大体、おまえ相手では、一瞬で決まるか、夜中までかかっても終らないかのどちらかだろう」
「まあ、そうだな」
「けれど、こっちに付合えよ。久し振りに一緒に飯でも食いに行こう。どうせ、今夜はろくな用意もないだろうし」
「そうだな」
「その前に、汗を流してきたらどうだ」
「ああ、そうするよ」
 和真が木太刀を片付けるのを待って、ふたりは連れ立って寮の方へと戻った。
「どうしたんですか、こんなところで」
 裏木戸の前に立つ稲田を見付けて、和真は声をかけた。
「お、羽鷲。黒羽もか。皆、もう出掛けちゃったよ」
「この後、ふたりで出掛けようかと思いまして」
 黒羽がそう答えると稲田は、「ああ、だったら、ふたり共ちょっとだけ俺に付合いなさいよ」と、誘いをかけた。隊の中では憚れる話があるらしい。そう察したふたりは、少々、面倒臭く感じながらも命令には違いない上司に頷いた。
 僅かに渋る表情をみせる和真たちにかまうことなく、稲田は機嫌良く笑顔を浮かべる。
「その前に黒羽はお菊ちゃんを送ってあげてくれない?」
「お菊?」
 黒羽の声に稲田の陰からおずおずと、山吹色の小袖を着た娘が半身を現した。
「大丈夫って言うんだけれど、もう日暮れだし、女の子ひとりじゃ危ないからねぇ」
「ああ、そうですね。分かりました」
 ちりちりとした微かな鈴の音が、隣に立つ和真の耳にも届いた。
「沙々女ちゃん、今日はありがとう」
 返事をするようにちりちりと、また音がした。良く見れば、稲田の陰にもうひとつ撫子色の袖が見える。
「そう言えば、ふたりで出掛けるって言ってたね。楽しかったかい」
 黒羽の問いに、「えぇ、とても」、と菊が答えた。
「じゃあ、遅くならない内によろしくね。『ふかくさ』で先に行って待ってるから」
「分かりました。じゃあ、行こうか」
 稲田の言葉に黒羽は頷くと菊を促した。娘は恥ずかしそうに頷きながら満面の笑みを見せた。
「沙々女ちゃん、ありがとうね」
 菊はもうひとりの娘にもう一度、礼を言うと、稲田と和真にも頭を下げて黒羽のあとをついていった。
「じゃあ、俺は風呂に入ってから行きますから」
 そう言って行こうとする和真の前に、娘らしい明るい色の着物を身に付けた沙々女の姿が目に留まった。一瞬、立ち止まった彼に、「可愛いでしょう」、と稲田が自慢するように言った。
「吉乃の娘の頃のを譲って貰ったんだよ。こんなに似合っていたって報告しとかなきゃねぇ」
「ああ、そうなんですか」
 確かに悪くはない、と和真も思う。
「それ、いいな」俯く娘の帯締めに下がる鈴を指して言った。「おまえは気配が薄いから、それで誰にでも何処にいるか分かるな」
 稲田が呆れた面持ちで彼を見た。
「またそんな、猫の子じゃないんだから。もっと別の言い方は出来ないもんかねぇ」それで、と沙々女に話し掛ける。「それは、お菊ちゃんと買ったのかい」
「頂いたんです」
 沙々女は小さく答えると、房を帯から外そうとした。それを稲田が押し留める。
「ああ、外さなくてもいいよ。そのままつけておきなさい。どこで貰ったんだい」
「北のお堂で」
 訊ねられたことにぽつぽつとしか答えない娘を前に、やに下がった表情であれこれ話しかける中年男に付合いきれず、和真は黙ってその場を離れた。



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