kumo


 あの日からだ、と和真は思う。
 ひょっ、という多賀井の合図の口笛を聞きつけ急ぎ屋根から飛び降りたところ、たまたま通りかかった男とぶつかってしまった。普段はよけられる筈なのだが、目算を誤ったらしい。
「すまん。余所見をしていた」
「いえ、こちらこそ失礼しました」
 それでも、微かに舌を鳴らす音が聞こえた。次に声を掛けてきた女も見覚えのある顔なのだが、どこの何という女だったか思い出せなかった。
 どこか、ぼんやりしている。その自覚だけがあった。
「あったか」
「ありました」舟が行き交う水路の真ん中で多賀井は頷き、たった今、拾ったばかりの笹舟を和真に見せた。「当りです。赤い印がついているやつですよ」
「確かにそうだ。だが、印というより文字に近いな。見た事のない形だが」
「流されてからそう時が経っていないようです。それにしても、嫌な感じだ」
 普通の者が見たところで何の変哲もない笹の葉だが、和真と多賀井の眼には仄かに立昇る黒い靄のような影を映していた。
「隊長たちの懸念通りってわけか。また、何かを仕掛けるつもりかもな」
「どうしますか」
「付近に怪しい者がいないか捜してみよう。近くの連中にも知らせて」
「そうですね」
「その前にそいつを、」
 言うが早いか、和真は腰の刀を抜き、瞬時に収めた。鍔が鳴った時には、多賀井の掌の上で笹舟は真っ二つになっていた。
「と、あっぶねぇっ!」一拍あけて、年若の隊士は抗議の声をあげた。「いきなりやんないで下さいよ!」
「言ったじゃないか」
「早すぎますって」
「どこも斬れていないだろう」
「そりゃそうですけれど、驚くじゃないですか」
「その程度でいちいち驚くな。それは帰ったら隊長に見せるから、おまえが持っておけよ」
 多賀井はぶつぶつと文句を言いながら、真っ二つになった笹の葉を手ぬぐいで挟んで懐にしまうと、また、他の隊士たちへ向けて合図の口笛を送った。
 二丿隊では、今、通常の警戒の上、水路を流れる笹舟にも注意を払うようになっていた。

 一週間ほど前のあの日、黒羽と共に呼ばれた茶屋、『ふかくさ』の一室で和真たちは、笹舟に気を付けるように稲田から伝えられた。
「笹舟とは難しいところですね。当り前に流れているものですし」
 こどもが作って遊ぶのは勿論、おとなも暇潰しの手慰みに作って流すこともある。材料などそこら中にあり、それだけ当り前のものだ。
 黒羽の言葉に稲田も頷いた。
「赤い印がついているのがそうらしいよ。今日も騒ぎがあった龍神大社でも見付かったそうだし」
「牛鬼が出たって話ですか。ですが、こどもが自分の笹舟につけた印かもしれないでしょう。仲間のものと区別する為に」
 和真が言うと、「そうなんだよねぇ」、とぼんやりとした困り声がある。
「誰でも当り前にすることだからねぇ。名前かいたり、薄く蝋を塗ったりして細工したりさ。笹舟自体、そうそう都合よく操れるもんでもないだろうし。でも、水無瀬の言うことも無視はできないしね」
「一丿隊は、情報の確かさでは定評がありますからね」
 黒羽も頷く。
「うん。でも、確証がない内は、流れてくるやつを片っ端から調べろなんてことを隊長命令として出すわけにはいかないからさ。君らの方から、みんなにそれとなく注意するように言っておいて欲しいわけ」
「それは良いですけれど、ぜんぶ調べるとなると厄介ですよ。普段の巡回任務も例の娘殺しの件も絡んで巡回を細かく割り振られている状態ですし、文句いうやつも出てくるでしょう」
 と危惧する和真の前で、調子良く盃が飲み干された。
「だからさ。そこんところを君らが上手く言って欲しいわけよ。そうだという証拠が見付かれば、下手人の手掛かりにもなるし、対策の立てようもあるし」
「もし、見付からなければどうしますか」
 黒羽が、稲田の空になった盃を満たした。
「そりゃあ、無駄骨になるだけだね。でも、やらないわけにはいかないでしょう」再び、盃が傾けられた。「そういう事で、大変だとは思うけれど、頼みます」
 酒を前にしながらの上司の頼みごとに、和真たちは苦笑いを出さないようにしながら、「分かりました」と承諾した。
 それから、二、三の確認をしてから、久し振りの思人との逢瀬を楽しもうという稲田を置いて、ふたりは席を辞去した。多少、引き留められはしたが、野暮はしたくないし、相好崩した上役の姿など見たくはないものだ。そして、ふたりでぶらぶらと夜道を歩きながら、飲み直しの為の店を捜す事になった。
 まだ宵の口の茶屋街は、障子に透けて見えるぼんぼりの灯も明るく、三味線の音や男女の笑いさざめく声が二人の耳にも届いた。東からの緩やかな風は甘く、水の流れる音も穏やかだ。夜歩きにはもってこいの夜だった。
 そぞろ歩く中、そう言えば、と黒羽の方から口を開いた。
「本町通りにあるという簪屋を知っているか」
「その手の店なら、何軒かあったように思うが」
 問われるにしても平時にはない黒羽の艶めいた匂いに、和真は意外に感じながら答えた。
「間口が一間ほどの小さな店なんだそうだが、職人の一品物などを取り揃えているらしい」
「それだけじゃあ分からんが、相模屋の筋向かいにそんな店があったと思う」
「そうか。流石にそういうのは詳しいな」
「女か。おまえが珍しいな」
 からかう言葉に、いや、と黒羽は照れるように首筋を撫でた。
「そういうものでもないんだが」
「どこの女だ。教えろよ」
 何ごとにも品行方正な友のこのような様子は珍しく、和真は問いかけた。
「実は、さっき、お菊から聞いたんだが、」
「なんだ。お菊ちゃんか」
「ではなくて、沙々女さんが」
「沙々女?」
 和真の次に出す一歩が遅れた。
「うん、その店で一本の簪を熱心に見ていたそうだ。あとから聞けば、亡くなられた母上が似た物を持っていたらしい。確か、おまえの家へ引き取られた時、五つかその位の年だったろう」
「ああ」
「その年で覚えているって事は、余程、印象に残っていたんだな。お菊も、沙々女さんは未だに母上の事を忘れられずに哀しんでいるようだ、と言っていた。無理もない話だが」
 そうか、と和真の相槌の声が冷たい響きを帯びた。
「それで、まさか、沙々女にその簪を」
「いけないか」
「やめておけ。言ったろう、あいつには何しようと無駄だ。するだけ損だ」
「損かどうかは分からんが、少しは慰めにはなるかと思うんだがな」
「物好きだな」
「物好き……そうかな」
「そうだ。大体、なんで、あんな奴にかまうんだ。女なら他にもいるだろう」
 この問いには、黒羽は、ううん、と考え込んで答えた。
「なんとなく、放っておけなくてな」
「やはり物好きだ。その内、傾国でなくとも女で身を滅ぼすぞ」
 和真は一つ鼻を鳴らすと、近くの屋根の上に飛び移った。
「あ、おい。飲み直すんじゃなかったのか」
「気が変わった。これ以上、あてられてはかなわん」
 見下してのそれには、笑い声が答えた。
「明日の務めには遅れるなよ」
「分かっている」
 その場を離れる和真の耳に、やれやれ、といった黒羽の溜息に似た声が聞こえた気がした。

 あれからおかしくなった、と和真は思う。
 その後、一晩、馴染みの女と肌を合わせている最中でさえ、無性に落ち着かない気分を味わった。今でも思い出すだけで、理由の分からない気持ちにくすぐられる。苛立ちとも違う名状しがたい感覚だ。注意も散漫になり、先ほどのような普段にない失態を冒す。矢を射って初めて弓弦のたわみに気が付く、そんな感じだ。
 黒羽があれから簪を沙々女に贈ったかどうかは知らない。ただ、今朝見た後ろ姿には、それらしき物は見られなかった。
 しかし、一体、それがなんだと言うのか。彼には関係のない話だ。
 和真は胸の内に溜っていた息の塊を吐き出し、気を取り直した。そして、己が務めに気持を戻した。
 屋根の上から不審者を捜す内、あれ、と少し離れた位置に立つ多賀井の声があった。
「あれ、お菊ちゃんじゃないかな」
 時々、使いに来る黒羽家に奉公する娘の顔は、二丿隊の隊士の殆どが知るところだ。女っ気の少ない寮生活で、年頃の綺麗な娘の訪問は隊士達にとっては特別の潤いだ。中には機会を伺って声をかけては、調子良く親しくなった者もいる。多賀井もその内のひとりだ。
 和真も多賀井の見る方向に視線を動かせば、橋のたもとで饅頭笠を目深に被った僧侶になにやら話しかけている娘の姿があった。鴬茶の紬の着物姿は使いの途中か何かなのだろう。娘と僧侶の組合わせに違和感を覚えたが、そういう事もあるのだろうと思った。
「ああ、やっぱりそうだ、おおい、お菊ちゃあん」
「やめておけ。任務中だぞ」
 両腕を振らんばかりに声をあげる目下の隊士を、和真は軽く諌めた。
 菊が彼等を見る事はなかった。気付かなかった様子で、僧侶の後ろについて橋を渡って行った。
 向こう岸は四丿隊の管轄になる。多賀井はつまらなさそうに、遠ざかっていく娘の姿を眺めていた。
「行くぞ、場所を変えよう」
 和真は気にせず、未練がましい様子をみせる多賀井を促してその場を離れた。



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