kumo


 ちぇっ!
 太吉は、今し方ぶつかった男に思わず舌打ちした。
 河岸道を北へ向かってゆっくりと歩いていて、まさに天から降ってきた男とぶつかった。
 護戈衆だ。しかも、男前。さぞかし女にもてるのだろう、と思った先から、通り掛かりの艶っぽい女に声をかけられていた。
「あら、羽鷲さま、こんな所でお目にかかるなんて、なんて奇遇かしら。たまにはうちの店にも遊びにいらして下さいな。すっかりご無沙汰で、寂しくて仕方ありませんわ」
「ああ、その内な」
 つれない返事だ。そして、軽々と身を踊らせると、水路に立つ仲間の所へと行ってしまった。
「あったか」
「ありました」
 何かを捜していたらしい。まるで地面と変わらない様子で水の上に立ち、仲間と話す男を横目で見ながら太吉は溜息を吐いた。
 ――やってらんねぇや……
 そして、背中を丸め、とぼとぼと歩き始めた。
 その姿はまだ二十歳の声を聞いたばかりであるというのに、老境にさしかかった者のようだ。そして、それからも大して行かない内に、一歩、二歩、と足取りは確実に鈍くなり、とうとう路地の間の小さな橋の真ん中で立ち止まってしまった。そのまま欄干に凭れるようにして、澄んだ水の流れを眺めた。
 橋の影を小さな魚の群れが流れに逆らうようにして泳いでいたが、向けられる太吉の眼には映っていなかった。
 ――不公平なもんだな。
 思い出されるのは、さっきぶつかった護戈衆の姿だ。ちらりと見えた木札に標されていたのは、雲の紋。あれは二丿隊の紋だったか。
 そう言えば、と次に思い出したのは今朝の出来事。続く記憶に、太吉は知らず、鳥肌を立てていた。

「旦那ぁ、そりゃあ、無理な話ですぜ」顔と言わず全身を薄汚れた布や繃帯《ほうたい》で巻いているばかりの男は、嘲るように言った。「若い娘を裂いて喜ぶ外道を知らないかって言われても、あっしらは死人を相手にしているんで、死人にしたやつの事なんざぁ知るわけもねぇ」
 緩んだ布の間から、瘡蓋《かさぶた》だらけの赤黒く変色した肌が覗いて見えた。太吉は、薄気味悪さを面に出さないようにしながら、努めて愛想よく訊ねた。
「そんなにはっきりした事じゃなくても良いんだ。例えば、そんな奴の噂を聞いた事があるとか、あやかしの類でそんな事をしそうなやつがいるとか、似たような傷のある骸を見たとかそんな程度でも」
「と、言われてもねぇ」
 繃帯男は手に持った小刀で、目の前にある獣の皮を器用に剥いだ。ひらひらと風に棚引く布の端が獣の血に染まり、赤黒い色になっていた。河原の石ころも、広い範囲で同じ色に染まっている。
 一層、立昇った生臭さに我慢しきれなくなった太吉は、袖で鼻を押えた。
「一体、それはなんだ。見たことのない獣だが」
「狒狒でさぁ。十日程前に二丿隊の旦那方が仕留めなすったもんでね。それを頂いたんでさぁ」
「酷い臭いだな」
「そうですかい。あっしにゃあ、利く鼻もねぇんで分かりませんがね」
 ごとん、と音がして、長く尖った欠片が太吉の足下に転がった。何だろうと屈んでみて、ぎょっとなった。鋭い爪のついた獣の指先だった。
 ひょい、と擦切れた爪を持つ人の手が、恐れる様子もなくそれを拾い上げた。
「そんな物をどうするんだ」
 捌く獣の傍らにある石にそれを置いた男に怖けながら問えば、
「少し手を加えれば、良い道具になりやすよ。革はあっしらの寝床や寒さ避けになるし、肝は煎じれば薬になりまさぁ」
 と、当り前のように答えた。
「そんなものが効くのか。祟られるんじゃないか?」
「聖人さまのお経はすんでおりやすよ」
「それにしたって……あやかしの上前を刎ねるような真似」
 顔全体を顰めながらの太吉の言葉に、男は面白い冗談を聞いたとばかりに、ひぃひぃと掠れた声で笑った。
「あやかしって言っても、こいつぁ元は、そこいらにいる猿がちぃっとばかし長生きし過ぎたってだけでさぁ。死んでからも大事に使ってやるのが、成仏の道ってねぇ」
「静かに眠らせてやった方が良いんじゃないのか」
「そりゃあ、旦那は幸せもんだから」、と男は皮肉のつもりの様子もなく言った。
「ここにいるもんは、何かちょっと具合を悪くしただけで、故郷を離れなきゃいけなかったもんばかりだ。あっしらみたいに病にかかったり、早いうちに親兄弟を亡くしたもんやら、戦から逃げてきたもん。中には自業自得ってやつもおりますがね。あちこち流れ流された揚げ句、本当だったら、とうの昔に野垂れ死んでてもおかしくねぇあぶれもんばかりだ。それがここに来て、仕事をいただいては、こうしてお零れや食いもんにありつける。雨露をしのげる小屋もある。それが、なんとも、ありがてぇ事なんですよ。こうして出来るだけ始末して少しは恩返しでもしなけりゃ、罰が当るってもんでさぁ」
「恩返しねぇ、」
 太吉は彼と獣を捌く男を取り囲むようにして黙って座る、やはり、身体の一部や全身を繃帯や布で覆った男達を、薄ら寒い思いで眺めた。
 彼ら犬神人《いぬじにん》は、通常、人が嫌がる仕事――亡骸を運んだり、処分したり、葬ったりする仕事を請負う。他にも、穢れるとされる仕事を引き受けて、日々、暮している。
 必然的に、護戈や柝繩らは彼等のお得意様となるが、通常、祓いや祈祷を行う聖人達が間に入って話を纏め、得たお布施の中の幾許かを手間賃として得ている。
 そんな犬神人の他にも、この都の東外れを流れる御衣木川《みそぎがわ》の支流にあたる河岸には、様々な人々が集っていた。
 河原に粗末な小屋をかけて、肌や目の色の違う者達が、肩を寄せ合うように暮らしていた。見世物小屋であったり、修繕屋であったり、鍛冶屋であったり。その殆どが他国から流れて来た者たちで、役所で正式な居住許可を取っていない者たちばかりが集まる。商船に密航したり、道なき道よりいつの間にか入り込んできた者たちだった。故に、戸籍を持たず、国の民としても認められていない。
 彼等は総じて、『流民《るみん》』と言われる。別に、『河原者《かわらもの》』と呼ばれる事も多い。
 軒下で見るからに怪しげな薬を売っている者がいる。真っ裸で泣く子供や、川で洗濯をする女達。怒鳴り散らしながら、小屋をかける男達がいる。その下で、酔い潰れて眠る者がいる。貧しく騒然とした光景ではあったが、ある意味、活気にも満ちていた。
「あ、旦那ぁ」狒狒の指先を一本、また一本と落としていた男が、突然、思い出したように顔をあげた。「あれ、なんとかしちゃあくれませんかねぇ」
「あれとは」
「あの坊主共でさぁ」
「坊主って、どこの坊主だ」
「噂じゃあ西の方から来たって坊主達で、図体のでかいのばかりが揃っていやがるんで。狐をお使いなさる仏さんの教えを広めるとか、なんとか。旦那、知りやせんか」
「知らないな」太吉は憮然と答えた。「狐と言えば、あやかし紛いじゃないか。中にはましなモノもいるとは言うが、殆どが悪戯ばかりで始末に負えんというのに、それがどうして仏に仕えるんだ」
 へぇ、と繃帯の男も頷く。
「だから、偉い仏さんって話で」
「怪しい話だな」
「あっしもそう思うんだが、そいつらが、近頃、幅を利かせておりやすんで。聖人さまの縄張りを横取りするもんだから、あっしらも割り食って困ってんでさぁ。あいつらを追っ払うかしてくれませんかねぇ」
 太吉は呆れた面持ちで、『追っ払ってくれ』、と言った男を見た。
「悪いが、そういう役目じゃないんでね」
「そうですかい、そりゃあ残念だ。ああ、かてぇ肉だな。腐らせてもこれじゃあ、こりゃあ無理か」
 男の興味が狒狒に向かったのを期に、太吉は黙ってその場を離れた。
「兄さん、ちょいと遊んでおいきよ」
 油断したところを年増女に小屋の中へ引っ張り込まれそうになって、慌てて振り払って逃げ出した。

 ――まったく、酷いめにあった!
 あんな場所へは、二度と行きたくない。だが、また、行ってこいと命じられれば、行かざるを得ない。なぜなら、それが太吉の務めだからだ。
 太吉は、役人の言われるがままにその場所へ出向いて人の話を聞いてくる『引手《ひきて》』だった。聞いた話はそのまま持ち帰って、担当の舵槻衆に伝える。それで、僅かばかりの賃金を得ている。
 内容は、日によって違う。一体、なんの話を聞いてきたのか分からない事さえある。考える必要はなく、ただの使い走りと変わらない。
 考えるのは、舵槻衆の仕事だ。太吉の他にも何人もの引手を抱えていて、色々な話を聞き纏めて判断する。情に流されず、公正な判断をする為だそうだが、その辺りの事情は太吉には分からない。
 太吉は、本当は護戈になりたかった。この国の男であれば、誰でも一度は必ず思う事だ。
 藍色の隊服に身を包んで颯爽と飛び回り、刀でばっさばっさと、あやかし共を退治する。そこには家柄も何も関係ない。いるのは、生まれついて持つ素養だけだ。
 だが、太吉への判定は、『素養なし』だった。後にも先にも、あんなにがっかりした事はない。
 であれば、柝繩衆に、とも思ったが、いかんせん、人より小柄な体形がそれを阻んだ。悪人を捕えるだけの腕力が太吉にはなかった。おまけに、度胸も勇気もなかった。
 別の方向へ、とも考えたが、職人になるには不器用すぎた。商売をするには口下手すぎて、算術が出来るわけでもない。それ以外の学もなかった。自慢できるものは何もなかった。太吉は、自他共に認める、足腰が丈夫なだけが取り柄の平凡な男だった。
 結局、出来た事と言えば、一向に成果のあがらぬ事件の判定材料を求め、都中をしょぼくれた犬のように嗅ぎ回る事だけだ。
 同じ評定省の下で務めるにしても、護戈とは天と地ほどの差がある。
 ――いっそ、郷に帰ろうか……
 脳裏に浮かぶのは、故郷の母親の温かい笑顔だ。
 小さいが、田畑を継いだ兄を手伝って暮らすのも良いかもしれないと思った。少なくとも、血腥さや、恐ろしい思いはしないですむだろう。その内、嫁の世話もしてもらえるだろうし、多少、不満はあっても、平和に暮らしていけるに違いない。
 だが、それにも躊躇いが出た。残り一生を見越して暮らすには、太吉はまだ若すぎた。それに、
『おまえは、無理だって言って、何でもすぐに諦めちまう悪い癖がある。これからは、そこんとこはよぉく考えて、根気よくしなきゃだめだよ。人間、一朝一夕で上手くやれる事なんて限られてんだ。辛い事があったって、すぐに家に帰ろうなんて思っちゃいけないよ』
 そう言って都に送り出してくれた母親に、このままでは顔向けができない。
 蹴落した小石が、水の流れに一瞬の水紋を広げた。驚いた魚達が、一斉に姿を消した。辺りには人どころか、舟一艘、見当たらない。ただ、そよぐ風が、芽を出したばかりの柳の枝を揺らすばかりだ。
 太吉はもう一度、深い溜息を吐くと、重い足取りで歩き始めた。



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