kumo


 何故、こうなってしまったのか。
 黒羽は、自室の文机の前で深々と溜息を吐いた。
 目の前には、黄楊の櫛がひとつ。
 手垢のついていない、まだ初々しい木目には、細やかな花飾りが浮き彫りにされている。如何にも若い娘が好みそうな品だ。本日の任務の合間に店に立寄って、黒羽自身が買い求めたばかりの物だった。
「誠に申し訳ございません。あれは南谿でも評判の錺職人の手による物で、人気も高ぉございましてねぇ。同じ物を何本も作るというものではございませんので、あれきりでして。少し違いますが、こちらの品では如何でございましょう。こちらも良い品でございますよ」
 揉手する店の番頭らしき男に断る間もなく矢継ぎ早に色々な品を勧められ、気が付けば、この櫛を手にして代金を支払っていた。
「どうしたものか……」
 黒羽は深く溜息を繰返した。
 銀の簪と黄楊の櫛では、まったく別物だ。敢えて共通点をあげれば、花飾りがついているだけか。これでは沙々女に渡したところで、なんの意味もなさない。渡すにしても、なんと言って渡せば良いのか分からなかった。
 仕方なく母に贈るにしては若々しく、相応しくない。妹の紗英《さえ》に与えるのが無難かとも思うが、妙に勘働きがよい上に詮索好きなところから、あれこれと煩く訊ねられそうだ。
 紗英は彼より三つ下とは思えぬほどのしっかりもので、兄が護戈になると決まった時点で自ら黒羽家を継ぐ事を宣言し、今は父の部下である官吏を婿に貰って、立派に家を切り盛りしている。そんな妹を誤魔化す自信など黒羽にはなかった。
 かと言って、他の娘に渡して、あらぬ誤解を招いても困る。
 こんな時、一番良い相談相手になるであろう和真には、今更、言える訳もなかった。あれだけ、やめろと言われた揚げ句にこれでは、大笑いされて馬鹿者扱いされるのがおちだろう。
「まったく、何をやっているのか」
 出る溜息に、際限はない。
 ふいに、障子越しに現れた人の気配に、黒羽は急いで櫛を引出しの中に仕舞った。
「お休みのところ申し訳ありません。今、ご実家から使いの方がいらしているのですが」
 声と気配は、隊士の佐久間修久《さくま ながひさ》のものだった。
「この時刻にか」
 陽はとうに暮れ、夜も五ツを過ぎている。立ち上がり障子を開けて、廊下に座す佐久間に訊ねた。
「用向きは」
「それが、お菊ちゃんがこの時間にも戻っていないそうで、こちらに来ていないか訪ねていらしたそうです」
「使いは、今、どこに」
「表玄関に待たせてあります」
 部屋を出た黒羽は、足早に玄関の方へと向かった。通り過ぎる足音の高さに、何事かと部屋から顔を出す隊士もいた。
 玄関には、黒羽家に長年務める荘吉が待っていた。上がり框《かまち》に座る沙々女が、彼を見上げた。
「お菊が戻らないって?」
 問い掛けに、荘吉は白くなった頭を下げて答えた。
「ええ、奥様から産土様《うぶすなさま》への奉納品のお遣いを言い付かりまして、出掛けたっきりまだ戻っておりませんので。もしや、こちらに顔を出していないかとお訪ねしたのですが」
「今日、お菊は来たかい?」
 沙々女は、いいえ、と首を横に振った。
「家を出たのはいつ頃だ」
「昼の八ツから八ツ半頃です」
「他に心当たりは」
「産土様のお社の方に伺いましたところ、とうに出たというお話で、それから戻ってきた様子もございません。今、皆で手分けをして探しているところなのですが」
 荘吉の答えに、黒羽は眉間の皺を深くした。
「何事にもなっていないとは思うが……分かった。私も捜そう」
「宜しければ、お手伝いします」傍で話を聞いていた佐久間が申し出た。「他の者にも声をかけましょう。人数が多い方が見付かりやすいですから」
 確かに、移動も早く夜目もきく彼等であれば、普通の者が探すよりも見付かり易いに違いない。願ってもない申し出に黒羽は頷いた。
「悪いな。頼む」
「お手を煩わせて申し訳ありません。お願い致します」
 頭を下げる荘吉に佐久間は軽く頷き、早速、寮に残る他の隊士達に伝えに向かった。
 ふ、と、「みたまや」、という沙々女の呟きを黒羽は聞き咎めた。
「御霊屋?」
「お菊ちゃん、ご先祖さまにお参りがしたいって、」
「先祖参り? お菊の実家は何処だ」
 初老の男に問うと、
「確か狭水《さみず》と聞いております。実家は染め物屋を営んでいると」
「狭水か。少々、遠くはあるが、そちらの方へも回ってみよう。或いは何かの理由で帰っているかもしれない。おまえは一旦、家へ戻って、何かあったらこちらの方へも連絡するように。ひょっとすると、行き違っているかもしれないから」
「分かりました。お願い申し上げます」
「うん、心配するな。母上にもそうお伝えしてくれ」
 荘吉は頭を下げると、帰っていった。入れ違いに、奥から、どやどやと数人の隊士達が出てきた。
「副隊長、お菊ちゃんがいなくなったって本当ですか」
「そうと決まったわけではないが、家には戻っていないそうだ」
 その答えに、隊士達は騒めいた。
「俺達も手伝いますよ。この前の事もあるし、お菊ちゃんに何かあったら大変だ」
「ありがとう。手間をかけてすまないが頼む」
 若い隊士達は快い返事で、その場で捜索する受け持ち区分を決め始めた。
「そう言えば」、と中で思い出したように旭日が言った。
「確か、多賀井くんが今日、巡回途中でお菊ちゃんを見かけたって言っていたなぁ」
「多賀井が」
 黒羽の問いに、年若い隊士はこっくりと頷いた。
「はい。呼んだけれど気付いて貰えなかった、って残念がっていましたよ」
「どの辺りでだ。多賀井はいないのか」
「多賀井くんなら、今日は安井達と遊びに出ていますよ。そう遅くはならないとは思いますけれど」
「多賀井の今日の受け持ちは、羽鷲さんに同行して間淵《まぶち》から山ヶ瀬までの間です」
「羽鷲もいないな」佐久間の答えに、黒羽の声も渋くなる。「間淵というと、産土の社と方角違いだが」
「途中で多賀井を見かけるような事があったら、手伝わさせますよ」
「すまない。頼む」
 黒羽に二丿隊の隊士達は頷きを返しながら、次々と外へ飛び出して行った。
 いつの間に取りにいっていたか、沙々女が用意よく、黒羽の愛刀を両袖に包んで差し出した。
「沙々女さん、悪いが、もし、俺達がいない間に隊長や羽鷲が戻る事があれば、事情を説明しておいて貰えないだろうか」
「はい」
 俯く沙々女から刀を受け取りながら、黒羽は微笑みかけた。
「心配ない。お菊は必ず見付けるよ」
「いってらっしゃいませ。お気を付けて」
 三つ指をつき、深く頭を下げる娘に彼は頷くと、足も早く寮を出た。
 しかし、夜が更けても一向に、菊が見付かったという報せはどこからもなされなかった。四方を探し回った隊士達が寮の方へ戻り始めても、誰からも吉報はもたらされなかった。
「陽が落ちて帰るに帰れなくなったので、どこかで世話になっているのかもしれない。朝になれば戻ってくるかもしれないから、今日はもう休んでくれ」
 やはり、ひとりで戻った黒羽は協力した隊士達に向かって言った。隊士達も、そうかもなと明るく答え、きっと、大丈夫だろうと口々に言い合って各自の部屋へと戻っていった。だが、明るい声が、かえって彼等の心配を際立たせていた。
 夜明け前、稲田や羽鷲らも寮に戻ってきた。そして、朝の支度を始めていた沙々女から菊がいなくなったことを聞き、一様に険しい表情を浮かべた。
 起きだして務めに出掛ける迄のそう長くない時間も、皆、菊が戻ったという知らせを待ち続けたが、どこからも何もなかった。



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