kumo


 午後、隊服を脱いだ黒羽は、佐久間を伴って海風寺を訪れた。
 着流し姿で連れ立つふたりは、良家の子息とその友人といった様子で、護戈衆と思わせるものは何もなかった。
 船を降りると、上流に近付いたせいか街の中よりも流れが早く、音にも力強さを感じる。
「不思議な感じがしますね、山近くにあって海風寺とは」
「ああ、そうだな」
 寺の立て札を読む佐久間の言葉に頷き、黒羽は長く続く石段を、気配を探りながらゆっくりと上り始めた。

 稲田に伴って黒羽が向かった先は、自分達の生活する寮だった。
 最初はどういう事か判断がつかなかったが、沙々女が呼ばれ、幾つかの問いかけと話を聞くうち、漸く、その理由が分かった。
 黒羽はそこで初めて、菊と沙々女が海風寺へ出掛けていたことを知った。何故、そんなところまで行ったかは、最初、沙々女も口を固くして喋ろうとしなかったが、
「その鈴は誰に貰ったのかな? お坊さんじゃないよね」
 稲田のその問いに、漸く、聞えないほどの小さな声で、お婆さんに、と答えた。
「沙々女ちゃん、言いたくないのは分かるけれど、お菊ちゃんを見付ける為にも、少しでも手掛かりが必要なんだよ。そのお婆さんが何処のどういう人かを教えて貰えないだろうか」
 そう説き伏せられて、話す気になったらしい。そのお婆さんが何処の誰かは分からないが、わざわざ占ってもらう為だけに菊が海風寺を訪れたことを知った。それでも、何を悩み、占ったかまでは、沙々女も頑として口を割らなかった。だが、それとは別に、菊が最後に目撃された場所が龍神大社にほど近い場所で、その龍神大社で海風寺の僧侶が托鉢を行っていたことも聞いた。
「さて、これで繋がったねぇ」
 満足そうな稲田の言葉に、黒羽は申し出た。
「寺へは私が行きます。午後からでも早速」
「そうだね。お菊ちゃんがそこのお坊さんに会ったのはほぼ確実だし、行ってきなさい。見付けられなくとも、居た気配ぐらいは残っているかもしれないし」
「はい」
「佐久間くんを連れていきなさい。彼なら見えるかもしれないから」
「はい」
「くれぐれも冷静に」、と最後の隊長らしい忠告にも黒羽は頷いた。

 海風寺本堂へと続く石段を上る途中、黒羽は佐久間に訊ねた。
「何かあったか」
「いえ」
 佐久間の『見える』には、特別な意味がある。
 過去にそこで起きた出来事が、断片的に見える能力を持っていた。だが、本人が言うには、いつも見えるわけではなく、たまに意識せずに一瞬だけ、薄い影のように通り過ぎて見えるものらしい。
 霊的なものが見えるのは護戈衆には当たり前の能力だが、佐久間のように見える者は珍しい。だが、意識して見たいものが見えるものではないので、本人は役立たずの能力と言っている。
 実際、それがなくとも、佐久間は黒羽にとって信頼に足りうる仲間のひとりだ。片耳の上を剃った、鶏のとさかにも似る傾いた髪形に個人的な好き嫌いは生じるだろうが、護戈衆としての評価を損なうものではなかった。
「けれど、なんだか変な感じです」、とその佐久間が言った。
「なんと言うか、清浄過ぎるとでもいうか。何もなさすぎるのが、逆に気になりますね。普通、神仏を祀る場所にしても何かあるものでしょう。参拝客が落していくものとかもあるわけですから」
「ああ、それは、私も感じている」
 人は、皆、それぞれに違う気配を纏っている。どんなに似ていても指紋と同じで、人毎にそれは違う。そして、移動する度に、その跡は薄く残る。蛍の光のような軌跡が残ってみえる。それは、時間と共に自然と消滅していくものだが、ここの場合は、綺麗に消されている、という印象を人より鋭い感覚を持つ彼等は強くしていた。
「妙な感じだ」
「そうですね。なんだか落ち着かない」
 頭上で百舌鳥《もず》の警戒する鳴き声が響き渡った。
 段を上りきり、黒羽と佐久間は視界の開けた場所を見回した。
 午前中に比べて太陽は陰り、風が木々の葉を揺らすようになっていた。空の灰色味も増している。背筋にぞくり、とする肌寒さを黒羽は感じた。
「誰もいませんね」
 佐久間の言葉通り、周辺には誰もいなかった。ふたりは真直ぐ続く石畳を進み、正面に見える本堂の階前に立った。
「もうし」黒羽は声を張り上げた。「どなたかおられませんか」
 そのまま暫く待ってみたが、応えはなかった。
「気配もありませんね。留守でしょうか」
 黒羽はひとり、履いていた草履を脱いで階を上った。
 大きな腰障子が本堂の内と外を隔てるばかりで、金門は大きく開放されていた。
 迷わず、腰障子を肩幅分だけ開けた。隙間から暗いばかりの堂内が見えたが、ここにも人の気配はない。
 正面奥に、厨子らしき箱形が見えた。箱の大きさは彼が楽に一抱えできる程度の大きさで、扉が閉まっている事だけは確認できた。
「歓喜天さまでいらっしゃいます」
 ふいにかけられた声に、黒羽の肩が跳ね上がった。
「黒羽さん!」
 驚く佐久間の呼び声に、反射的に柄に指先がかかった。が、手が滑り落ちて、帯刀していない事を思い出した。動揺を抑えきれないまま、黒羽は降って湧いたかのような男を確認した。
 いつのまに近付いたのだろう横に立つ男は墨色の衣を纏い、手には数珠を持っている。
 黒羽はゆっくりと息を吐きながら、身体の力を抜いた。
「驚かせたようで申し訳ありません」
 髪を僅かに残して刈り込んだ僧侶の頭が下げられた。
「いえ、こちらこそ勝手に上がり込んで申し訳ありません。どなたかいらっしゃらないかと思いまして」
 油断していたわけではない。ただ、この男の気配がまったくしなかった。護戈衆である彼らに気取られる事なく近付けるなど、並みの者でないことは確かだ。
 ――何者?
 しかし、今、眼前にしての気配は人並みのそれになっている。
「そうでしたか。私は、こちらで修業させていただいております正慶《しょうけい》と申します」
 警戒する黒羽の前で僧侶は別段なにもあった風なく名乗ると、開いていた腰障子を静かに閉めた。
「黒羽と申します。今、歓喜天とおっしゃられましたが、それがご本尊のお名前ですか」
「正式の御名は大聖歓喜天《たいせいかんぎてん》と申されます。大変に穢れをお厭いになられるので、外の方は堂内に立ち入らぬようお願いしております」
「それは存ぜぬ事とは言え、失礼を致しました。しかし、厨子は閉じたままなのですか」
「はい。一度、お気を損ねる事がございますと、とても厳しい仏罰が下りますので、普段はこうしてお守り差し上げております」
「それはなかなかに恐ろしい仏様ですね」
「いえ。その代わり、正しくお祀り申し上げれば、何人《なんぴと》であろうとどのような願いも聞き入れて下さる、有難い仏さまでいらっしゃいます」
「何者であっても、ですか」
「はい。分け隔てなく」
 黒羽には目の前の微笑みが、顔面に張り付いているかのように見えた。
 正慶と名乗った男は、人と比べて長躯な黒羽と並んでみても遜色のない体格で、よりがっしりとした印象を受けた。僧衣から覗く筋の張った太い首筋やごつごつとした手から、鍛え上げた身体つきである事が容易に知れた。僧と言うよりも、武芸者に近い印象を受ける。
 ところで、とその正慶に訊ねる。
「こちらでは、信者以外の方から、御明かし文を受け取ると伺ったのですが」
「はい、そのような事もあります」
「実は当家で預かる娘が、昨日より所在が不明になっております。最後に見かけた者の話では、こちらの僧侶らしき方と龍神大社の近くで一緒だったとか。それで、お心当たりがないかと訪ねて参った次第です」
「さて、私は存じませぬが、確かに、昨日、龍神大社の方へ参った者はおります。が、生憎、その者は、今、留守にしております」
「いつ頃、お戻りでしょうか」
「もう、間もなくかと。ああ、折りよく戻って参りました」
 首を巡らす正慶の後ろから、墨色の僧衣を纏った僧達が列を作って現れた。本堂裏手に茂る雑木林の方から来たらしい。



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