kumo


拾壱

 暗闇の中に僅かな薄明かりが射し込んだ。
 わずかに建て付けが悪くなった戸が、がたがたと音をたてながら開かれた。湿った空気を伴って、床板を軋ませながら入ってくる小さな影がある。額に紐飾りをつけた、白い下げ尼の頭が浮かんで見えた。
 皺を浮きだたせるその顔は、海風寺境内に店をだす占い婆だ。手には、水を張った小さな桶を抱えている。
「なんて臭いだ。生臭いったら」
 老婆は桶を床に置くと、部屋の空気を入れ替えるように戸口にむかって両袖を振った。そうして戸を閉めてから、薄暗がりの中、燭台を捜し当てた。かちかちという音と共に火花が飛び散り、蝋燭に小さな灯がともった。
「やれやれ、」老婆は、すぐ足下に落ちていた着物を拾い上げた。「本当に、鬼畜な連中だよ……」
 呟く視線の先には、揺れる蝋燭の灯に照らされて、若い娘がひとり床に横たわっていた。
 老婆は娘の傍らにしゃがみこむと、枯れ枝のような指先で娘の額にかかるほつれ髪を撫で上げた。
「あたしを恨まないでおくれよ。悪い縁に引っ掛かっちまったのは、お互い様なんだからさぁ」
 返事はなかった。
 それを気にするようすもなく老婆は袖から手ぬぐいを取り出し、持ってきた桶の水で絞ると、娘の身体を優しく拭い始めた。
 乱れきった襦袢の下から覗く白い肌には、無数の赤い傷痕が走っていた。硬い血の筋を残すものもあれば、未だ新しく周囲を赤黒く腫れさせた傷もある。溢れ出る初々しい色の両の乳房、腹、腰から太股の内側に至るまで、浅く切りつけた痕がいくつも重なるようについていた。だが、染みるだろう痛みにあがる声はなかった。
 娘は力なく四肢を床に放りだしたまま、身じろぎひとつしなかった。瞳は開いていたが瞬きはなく、深い井戸の暗さを湛えるばかりだ。
 老婆はゆるやかに上下する娘の胸元を直しながら、語りかけた。
「あんたも恋しい男に振り向いて欲しかっただけなのにねぇ。それがあんな連中の嬲り者にされて、生き地獄を味わう羽目になっちまったんだから……ほんと、悪い縁に引っ掛かっちまったもんだよ。あたしが言えたことじゃないけれどさ。ほら、よっこいしょ」
 老婆は、自分よりも一回りも大きな娘の上半身を抱え起こした。途端、ぐらり、と娘の頭が横に揺れ、老婆は娘を抱えたまま床に尻餅をついた。
 あいたたたた……
 老婆は呻きながら自らの腰をさすった。だが、ふたたび立ち上がっては、娘を抱き起こした。
 曲がった腰を精一杯に伸ばして、全身で娘を支えながら、着物を着付け始めた。後ろによろけながら袖を通し、紐を使ってそれらしく形を整えていく。汗だくになりながら帯も巻き付けてやる。
 黙ってされるがままの娘だったが、左右に揺れる内にくたりと身を折り、また床に倒れ込んでしまった。
 だが、やはり、声はなかった。起き上がることもしなかった。
「やれやれ、しょうがないね」
 老婆は娘を横倒しにしたまま、帯を結び始めた。その間も、独言ともつかないしわがれ声は続いた。
「あたしもさぁ、どうしてあんな願いを持っちまったかねぇ。息子に会いたいなんてさぁ、自分で捨てておいて、今更、会えるわけないのにねぇ。生きてるかどうかも分からないんだから。それでいいように使われて、あんたみたいな娘さんを騙して、本当にどうしようもないさ。あたしにも分かってるんだよ。でも、あん時は本当に信じたかったのさ、あんたと同じでね。多少、見えるっていったって、自分の事となるとからきし駄目だからねぇ。人に言われると弱いもんさね」その語尾は細く掠れている。「本当に、いっそ、そうやって狂っちまってた方が楽だったかもねぇ」
 憐れむと言うよりも、羨ましがるような視線を娘に向けた。
「さあ、出来たよ。ろくなおはしょりも作ってやれなかったけれど、それでも、さっきよりかはましだろ」
 着物を身に着けて傷痕を隠した娘は、感謝の言葉も何もなく瞳を宙に彷徨わせるばかりだ。
「せめて、恋しい男を道連れにするぐらいしか、慰めにはならないかねぇ」
 その時、軋む音に老婆は怯えるように振り返った。しかし、すぐに安堵の息を洩らした。
「言う通りにしてやったよ。まったくこんな事までやらせて、憐れな年寄りをいたぶるんじゃないよ。じゃあ、これで帰らせて貰うよ」
 よっこらしょ、と声に出して老婆は立ち上がると、曲がった腰を叩きながら戸口へと向かった。が、床を擦っていたその足が、宙に浮かんだ。
「なにすんだい!」
 金切り声が狭い室内に響き、すぐに呻き声に変わった。
 足が地面を求めて、必死にばたつかされる。が、そうもしない内に次第に動きは鈍くなり、ついには力を失い垂れ下がった。
 壁にかけられた一幅の掛け軸だけが、その一部始終を眺めていた。狐に乗った菩薩の色も鮮やかな口元は薄い微笑みを浮かべ、老婆の哀れな末路を見送っていた。
 みちひささま……
 消える声で、虚ろな瞳の娘が呟いた。



back next
inserted by FC2 system