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拾弐

 目を閉じて座る稲田は、腕を組んだまま動かなかった。
 一言もなく長考するその間、前に座るふたりは脚を崩すことなく、黙ってその様子を見守っていた。
「やっぱり、どう考えても無理だね」目を開いた稲田は、長い息を吐いて言った。「ざっと考えただけでも、評定省寺社部、守戈部、四丿隊ほか各隊に話を通さなければならないし、話によっちゃあもっと上も出てくるでしょう。今のところそれらを説得できるだけの材料に乏しいわけだから」
「ですが、このままでは、」
 膝を進める佐久間を、稲田は視線ひとつで制した。
「君の能力を俺達は信用しているけれど、他を納得させるのに無理なことは君にもわかっているでしょう。坊さんも怪しくはあっても、それだけだ。気配を断つにしても、修業の上で出来るようになったと言われてしまえば、それでおしまいだよ」
「それは分かりますが、なんらかの手を打つ必要はあるでしょう」
「そうなんだけれどね」、と黒羽には頷きを返す。
「でも、密かに探索したとして何もなかった場合、ばれた後が大変なんだよ。実際、ばれるだろうしね」
「どうしてそう言えるのですか。四丿隊ぐらい出し抜く方策はあるでしょう」
 僅かに頬を紅潮させる佐久間を横目に、稲田は冷静に言った。
「四丿隊を甘く見ちゃいけないよ。実戦に際しては二丿隊以上だ。あそこは都の有事の際には、真っ先に楯になるべくの人員配置だ。なにか異変があれば、すぐに気が付くぐらいの能力は有しているよ。それに、相手は坊さんでしょう。俺だったら、大事な場所には結界の一つも張るよ。それを破れたとしても、一番に疑われるのは俺たちだし。そうなった時、護戈全体の立場を悪くする事になる。俺の首だけじゃすまなくなるよ」
 だが、黒羽も簡単に引き下がれるものではない。
「しかし、お菊がいなくなった時や龍神大社と、例の笹舟が見付かった場所には常にあそこの僧がいた事になります。それを含めて考えれば、更に疑わしいとしか言いようがない」
「それは一丿隊にも伝えて任せてある」
「それ以前に、お菊の身が案じられます」
「それは俺も同じさ。けれど、今の状況では、動く事で逆にお菊ちゃんを危険に晒しかねない上に、自らの首も締めかねない」
「何か出来る事はないのですか。このまま、じっとしてなどいられません」
 一向に退く様子を見せない青年たちに、稲田は言い聞かせるように言った。
「佐久間、この場合、焦った方が負けだよ。あやかしを相手にするのとは勝手が違う。俺たちは無法者の集まりではないのだから。例え早く正しい結果に繋がるかもしれない行動も、『かもしれない』曖昧さが、後々、どこかに遺恨を残す事になる。遠回りしても通さなきゃならん筋はあるんだよ。人に甘えや狡さがある限りね。ましてや、無関係な者を巻き込むなど許されない。とは、言うものの……」
 稲田は閉めた障子側に首を巡らせた。ぽつぽつと、外から雨の叩く音がし始めていた。
「とうとう降ってきたか。なにか疼くと思えば」稲田は左腕を右手でさすりながら呟いた。「酷くならないといいね。ここんとこ、妙にいい陽気が続いたから」
 上役である男の言葉に答えず、黒羽と佐久間のふたりは未だ諦めきれない表情でその場に留まり続けた。
 と、そこへ、廊下を走って来る足音があった。かかる声もなく、乱暴に障子が開かれた。
「隊長っ! お菊ちゃんが戻ってきました!」
 突然の吉報に、部屋にいた誰もが驚きの表情を浮かべた。
「それは、本当か。無事なのか」
 身を浮かす黒羽の問いに、はい、という多賀井のはっきりとした返事がある。
「泥だらけで怪我もしているみたいですが、無事です」
「今、どこに」
「裏口から入ってきて、厨にいます。今、旭日がみています」
「よかった」
 安堵しつつ揃って菊の下へ向かおうとしたその先に、途端、寮中に響き渡る女の高い悲鳴が聞こえた。たて続けに、男の叫び声もあがる。菊がいるという厨の方からだった。
「なにがあった!」
 ただならぬ気配に、多賀井を含めた四人は急いで厨へと向かった。

 その頃、和真はひとり夜道を歩いていた。
 暖くなってきたとは言え、陽が落ちてより強まってきた風に肌寒さを感じた。夜空を覆う灰色の雲は近付く雨の匂いを濃くしていた。
 和真は靡く髪に鬱陶しさを感じながら、ひとつ溜息を吐いた。

「お待たせして申し訳ありません。水無瀬はただいま手が離せない状態にありますので、私が承ります」
 黒羽たちと話があるという稲田の代行で、本日の引き継ぎに出向いた一丿隊詰所で応対に出てきたのは副隊長の沢木だった。
 会うならば、たとえ務めであっても男より女の方が良い。性格は兎も角、水無瀬の容貌は目の保養になる。だが、そんな事を別にしても、和真はこの沢木という男が苦手だった。何故か、面と向かった時に妙に畏まってしまう向きがある。つい、自然とそういう態度になってしまうのだ。
 同じ副隊長であっても、黒羽とはまた違う雰囲気だ。一種、品行方正な印象は似ていても、沢木にはその向こうに何人たりとも立ち入れない、目に見えない一線があるように思われてならない。得体が知れないと言っても良いかもしれないが、和真はなにか凄みのようなものを感じていた。
 今も姿を見た途端に、和真の正座する膝に力が籠った。
「まずはこれを。宜しくお願い致します」
 緊張の面持ちで、引き継ぎの証である札を沢木に渡した。
「たしかに承りました」
「本日の務めとしての報告はありません。ですが、それとは別に一丿隊にはひとつお願いしたき件があります。実は、当方の隊に出入りする娘が昨日より行方知れずとなっております」、と懐より稲田から渡された菊の似顔絵を取り出し、差し出した。
「例の件もあり、一丿隊にも御助力をお願いしたく」
「例の件にですか」
 沢木はひとこと呟くように言うと、床を滑らすように紙を拾い上げた。玻璃の色の瞳が僅かに細められ、菊の似顔絵を見つめた。
「はい」
 和真は昨夜からの流れをかいつまんで説明した。
「ただ、この海風寺の僧侶の件に関しましてはまだ疑わしいというだけで、今回の件に関与した確証も得られておりません。西側の守護地域ということもあり、当隊では、暫くの間は動向に注意を払いながら様子を見るつもりでおります。一丿隊にはまず、娘を見かけることあれば保護を最優先にお願いしたいとの稲田からの伝言です。その他にも何か手掛かりが見付かれば、すぐに当方までお教え願いたいと」
「成程、承知致しました。その旨、水無瀬にも伝えさせて頂きます」
「宜しくお願い致します」
 軽く頭を下げるその前で、して、と沢木に問いかけられた。
「もうおひと方おられたでしょう。その方は無事なのですか」
「もうひとり、ですか」
「髪を長くした、同じ年頃の。たしか、幼き頃に羽鷲隊長が引取られた方と稲田隊長より伺いましたが」
「……沙々女のことですか」
 何故、沢木が沙々女のことを知るのか。和真は疑問に感じながら、目の前に座る端然たる趣の男を見た。だが、透けるような瞳を持つその表情からは、何も伺い知ることは出来ない。
「沙々女さんとおっしゃるのですか。以前、この娘と一緒にいるところを、遠目でしたが目にしたことがありましたので」
「そうでしたか。いえ、沙々女には何もありませんが」
 気にする素振りを見せず、和真も答えた。
「そうですか。ならば、良かった」
「沙々女がどうかしましたか」
 それとなく訊ねてみれば、いいえ、と首が横に振られる。
「ただ、某かの手によるものだとした場合、何が違うのだろうと思ったのですよ。同じ年頃で一緒にいて、何故、ひとりだけが行方知れずとなったのか。たまたまだったのか、それとも、そうならなかった者と何か違うのか、と」
 言われてみれば、確かに疑問だった。
 沢木は言った。
「しかし、今はそれらを考えるよりもこの方を見付ける方が先決でしょう。何事もなければ良いのですが」
 その言葉には和真も頷き、再度、くれぐれも宜しくと沢木に伝えて一丿隊を辞去した。



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