kumo


拾参

 菊と沙々女の違い――そんなものは、数え上げればきりがない。共通する事柄の方が少ないくらいだ。
 否。沙々女が特殊なのだ。他の同じ年頃の娘たちと比べても、沙々女だけがひとり浮いた存在に違いない。そこに原因を求めること自体、無理がある。それに、実際、菊が所在を不明にした件についても、まだ何があったと決めつける段階でもない。黒羽たちは寺の僧侶たちの関与を強く疑っているようだが、他の手の者によるもの、或いは、菊自身がなんらかの理由で姿をくらました可能性も否定できるものではなかった。
 兎に角、菊が早く無事に見付かるといい。
 そんな事を考えながら、和真は寮への坂道を辿った。
 と、とうとう空から雨粒がぱらぱらと音をたてて降り始めた。さほどない距離を駆けた間に、雨はすっかりと本降りになった。
 寮の玄関に着いた和真は、しっとりと湿った肩や袴を軽く払い、そして、草鞋の紐を解いた。だが、そうしている内、いつもはすぐに出てくる筈の沙々女の姿がない事に気付いた。
 ――なんだ?
 突然、感じた嫌な気配に、和真は周囲を見回した。
 異常はどこにもなかった。勿論、あやかしの姿もどこにもない。護戈の詰所や寮には、あやかしが入り込めないよう結界が施してある。なのに、皮膚の下を妙にざわついた感覚があった。いつもの慣れ親しんだ場所に、産毛が逆立つような不気味さを感じた。
 何かある。
 表情を引き締めた和真は気持を集中し、まずは、姿を見せない沙々女の気配を探った。眼には見えない神経の網を徐々に広げ、微かな気配を捜す。すると、すぐに厨にいるのを見付けた。
 厨には沙々女の他にも数人の気配を感じ取った。馴染みある世話係たちの他にも誰かいるようだ。これは、旭日のものだろうか。それから……
 ――何者?
 ひとり、慣れない気配の者がいた。触覚の様に伸ばした彼の感覚がその人物に触れた途端、心臓が一瞬にして凍りついた。考える間もなく、和真は脱ぎかけた草鞋を跳ね蹴飛ばすようにして厨に向かって走った。
 そこで眼にしたものは、赤い血。
 耳にしたのは、男と女の悲鳴。
「あんた! あんたぁっ!」
 腹を押えて蹲る源八に、はつが取縋って叫んでいた。押える指の間から、赤い血が滲み出て袖を濡らしていた。
 床にはすゑが倒れていた。薄く眼は開いていたが声もなく、ぴくりとも動かない。身体の下から、ゆっくりと血溜まりが広がっていくのが見えた。その横で加世が呆然とへたり込んでいた。
 食事中であったか、飯や汁を飛び散らせた茶碗や膳が周囲に散乱していた。
「旭日っ!」
 目の前に立つ藍色の背中に向けて、和真は呼んだ。しかし、それにも答えはなく、両手はだらりと力なく垂れ下がり、足下がぐらついていた。次の瞬間、若い隊士の身体は仰向けに大の字になって倒れた。
 血の滴を伴った凶刃がその後ろから現れた。あれは、旭日から奪ったものか。振る長い刃のその先から、赤い飛沫の数滴がその凶行を行った者の頬に飛び散った。
 和真は息を呑んだ。
 艶然と、女の色香を放った唇が笑った。途端、真冬に似た冷気が床を這い広がった。それは和真に絡みつき、彼から体温を奪っていく。
 菊、とその名を呼ぶにも舌が凍りついて回らなかった。
 よく知った娘の変わり果てた姿に、驚き以上に震えが走った。見かけだけでなく、その雰囲気が全く別人のものに感じた。
 明るく純な娘であった筈が、別人のような湿った影を纏っていた。ねっとりと絡みつくようなどす黒い瘴気に絡まれ、瞳は暗く、明るさの欠片どころか、全ての光を呑み込む闇に満たされている。でありながら、凄絶なほどに淫靡。
 菊はのけ反る様にして声高に笑った。まるで血に喜ぶ、聞く者の神経を逆立てる笑い声だった。結った髪は形がないほどに崩れ、乱れた着物の裾を引き摺る姿は狂女そのものに見えた。
「お菊、それを渡しなさい」
 一歩進み出た黒羽が、押さえた声音で片手を差し出した。だが、その表情はいつになく硬く、引き攣ってさえいる。
 笑い声が急に止った。
「みちひささまぁ」
 陶然とした、濡れた声が答えた。
「よせ、倫悠っ」
 友に向かって放たれた刹那の殺気に、和真はいち早く菊の行く手を阻んだ。高く澄んだ、鋼の重なる音が響いた。
 娘の顔が、憎しみと怒りの表情へと一変した。持つ刀の先で和真の刀を跳ねつける。と、突然、ふらり、と構えを解いた。切先を床に引き摺り、薄く笑みを浮かべて澱んだ眼で和真を見た。
 和真は間合いを取るも、刀は構えたまま油断なく菊を見返す。
 背筋をひんやりとした汗が伝った。とつとつと雨が屋根を叩く音が、やけに耳について煩く聞えた。
 菊は和真から視線を逸らすと、上目遣いで周囲を見回し、戯れているかの様子で口の中で笑う。歌うような笑い声だった。覚束ないと感じさせる足取りで左右に揺れながら、そこに集う者たちひとりひとりに視線を這わせた。
 娘の視線を受けて、はつが怯えの声を発した。隣にいる源八は血と脂汗を流しながら妻を庇うように躙った。加世は視線を菊に留めたまま、金縛りにあったかのようにその場から動けない様子だった。その場に居合わせるすべての者が、娘の異様さにどうすることも出来ず呆然と立ち竦んでいた。
 菊は和真に背を向けた。
 細く無防備なその背に、今ならば、素手で取り押さえることも可能かとも思えた。
 一瞬の気の緩みだった。
 突然、隙をのがさぬ早さで菊は踵を返すと、和真に向かって刃を閃かせた。
 あまりの変わり身の早さに、和真の動きも遅れる。が、辛うじてのところで刃を受け止めた。
 二度、三度と容赦なく叩き付けられる菊の持つ刀を防ぐ。そこに型というものはなかったが、柄を握る手に痺れが走った。到底、女が持ちえる力ではなかった。
 和真もなんとか間隙をぬって態勢を整えなおすと、素早く回り込みながら菊の攻撃を躱した。なんとか菊の手の刀を弾き飛ばそうと切先を返す。だが、物が散乱する悪い足場の上、並みの娘とは思えない刃を繰出す早さと力に、危うく翻弄されかかる。
 ――これは……
 彼の目の前にいるのは、菊であって菊ではなかった。ただ、正気を失っているばかりだとは思えない。しかし、それ以上を考えることも許さず、刃が折れるのではないかという程に執拗な攻撃が続いた。
 その激しさに、視界の端に見える稲田や佐久間、集まってきた他の隊士たちもどうにも手が出せない様子だ。相手がよく見知っている娘である分、よけいになのだろう。
 と、距離をとった菊が、また、甲高く笑った。笑いながら、急に身を翻した。
 同時に、和真も床を蹴った。
「羽鷲っ!」
 叫び声に似た、稲田の声が響いた。



back next
inserted by FC2 system