kumo


拾四

 菊の狙う先。そこには、壁際に立ち竦む沙々女がいた。
 かかる刃に臆することなく、和真はその前に躍り出た。がつ、と硬く鈍い音がした。
「倫悠っ!」
「和真、退けっ!」
 和真の刀とお菊の刀が交わった刹那、多賀井の腰にあった刀を抜き取った黒羽が横から飛び出し、二本の刀を押えていた。
 三巴に交わる刃。かかる力は、三者互角。
 退くに退けない状態で、三人は見合ったまま動けなくなった。
「みちひささま、」さも愛しい者を呼ぶ声で、菊が黒羽を呼んだ。「みちひささま。みちひささま……」
 僅かに崩れた均衡を見逃さず、和真と黒羽は同時にお互いの刀を薙いで、菊の刀をも弾いた。
 背に沙々女を庇いながら和真は、油断なく菊に向かって構えた。しかし、彼の姿は、既に菊の視界から消えていた。
 菊は、ただひとり、黒羽だけを見つめていた。
 黒羽はゆっくりと切先を下ろした。
「お菊。良い子だから、その刀を寄越しなさい。これ以上、人を傷つけてはいけない。おまえはそんな娘じゃないだろう」
「みちひささまぁ」
 僅かだが、呼ぶ声音に変化があった。
「お菊、大丈夫だから。怖い事は何もないから。誰もおまえに酷いことなどしない。さあ、私を信じてそれを渡しなさい」
 さあ、と諭す黒羽を見つめる瞳から、一滴、涙が零れ落ちた。細やかな光が、娘の瞳に射した。刀を持つ手が、大きく震えた。
 菊は視線を落とし、返り血に濡れた己の手を見た。短く怯える声があがった。「倫悠さま」、ともう一度呼んだ。
「お菊」
「ごめんなさい……ごめんな……さい」
 がたがたと音を立てそうなほどに身を震わせ、頬を溢れる涙の数が増えた次の間、携える白刃が細い首に当てられ、斜めに引かれていた。
「お菊ッ!」
 大量の真っ赤な血飛沫が吹きあがった。それは辺り一面を濡らし、傍にいた黒羽の身体と言わず顔面と言わず、全身をまだらに染めあげた。
 差し出した黒羽の手の前に、菊は倒れた。その身は尚も流れ出る血に数度震えた後、細い首が折れ落ちた。
 それ以外、誰も動けなかった。ひとりの娘の壮絶な死を前にして、誰も声ひとつあげることすらままならなかった。ただ呆然と、目の前の光景を眺めていることしか出来なかった。
「お菊……」
 黒羽が崩れるように膝をついた。手にした刀が菊の手にしていた刀に重なり、共に朱に浸った。
 加世の鋭い悲鳴があがった。
 その声に我に返ったか、稲田が声を発した。
「多賀井、すぐに先生たちを呼んで。他の者は源八さんたちに手を貸して広間に避難させてくれ」
 だが、その指示に即座に動ける者はいなかった。放心状態から抜けきれない多賀井を稲田は叱咤した。
「多賀井、聞いているのか。多賀井ッ! 早く、先生たちを呼んでこい!」
「あ……は、はいっ!」
「佐久間、安田! 時田! みな、急げッ」
 背中を押す声に、一斉に隊士たちが動き始めた。足音が轟き、途端、堰を切ったかのような喧騒に包まれた。
「源八さんはこっちへ。今、治療班の連中が来ますから、気を確かに。はつさんもこっちへ」
「加世ちゃん、今、犬養も来るから。もう大丈夫だから。おい、先生はまだかっ!」
 すゑに取縋って泣き声をあげる加世がいた。
「旭日、しっかりしろ! 目を開けろ、開けてくれっ! 死ぬなっ!」
 佐久間が眼を閉じたままの旭日を抱え、必死に呼びかけている。
 皆、我を失った様子で、声を張り上げ、駆け回った。
 その中で、和真はも悄然としながら刀を鞘に収めた。背後に落ちる音を聞き、振り返る。と、沙々女が床に蹲るようにへたり込んでいた。
 大丈夫か、と彼が訊ねるより先に、駆け寄る者がいた。
「沙々女ちゃん、大丈夫か? 怪我はないか!?」
 実の父親であるかのように心配をする稲田の前に、和真は出かかった言葉を呑み込んだ。
「かあさま……」
 小さく震える声が、沙々女の口から洩れた。細い肩に触れようとしていた稲田の手が軽く弾かれたように動いた。
 ふいに、沙々女は顔を僅かにあげると、一方向に向かって指さした。
「あれが、」
 和真たちもその指す方を見る。
 未だ呆然と座り込む黒羽の脇に倒れる菊の亡骸があった。どういう事か、と訊ねるより前に、和真と稲田もそれに気付いた。それは感ずるにも、あまりにも僅かな気配。
「黒羽っ!」
 稲田が叫んだ。
 はっ、と弾かれるように黒羽も顔をあげた。急いで床にあった刀を拾い上げようとしたが、血に浸ったそれに手も止る。
 菊の身体から黒い靄のようなものが細く浮き出初めていた。
「皆、退けっ!」
 和真は怒鳴りながら、鯉口をきった。
 宙に昇った靄は次第に形作り、太い尾を持つ一匹の獣の姿を取った。完全に形を成した獣は、素早く戸口へ向かって飛んだ。
「斬ッ!」
 それより早く、再び抜かれた刀が閃いた。
 途端、外気から隔たれた屋内に、凄まじい突風が吹き荒れた。
 立っていた者はその場で蹲り、床に散らばっていた茶碗や膳が転がる。凄まじい音と共に、床板と言わず屋根の一部までが粉微塵に砕け散り、大きな裂け目を作った。獣の高い声が響き渡り、風の中にその姿は千切れ飛んで消えていった。
 ざっ、と降りしきる雨の音と流れる水の音がはっきりと聞こえた。通り抜ける風と共にそれまで立篭めていた血の臭いが吹き払われ、湿った埃の匂いが漂った。囲炉裏の灰が振り撒かれ、厨全体を白くしていた。
 はあ、と稲田は大きく息を吐き立ち上がると、周囲を見回した。その足下の床は大きく割れていた。
「みな、怪我はないか。沙々女ちゃんも大丈夫だったか」
 落ち着いた問い掛けに娘は首を横に振り、他の者たちも一様に驚きと呆れた表情を浮かべてのろのろと身体を動かし、大丈夫な旨を稲田に伝える。
「羽鷲、やりすぎだよ」
 稲田は、叱るでもなく言った。
 和真も気まずい表情で、刀を鞘に戻した。
「ぐずぐずするな! 応急処置をすませたら、すぐに医務室の方へ運べ!」
 駆け付けた治療班の山瀬の大きくした声があった。それからは、他にも異変を感じて帰ってきたらしい隊士達も混じり、寮全体が騒然とした雰囲気に包まれた。
「坂本は一丿隊へ走って、水無瀬隊長に急ぎこの事を伝えてくれ」
「はい」
 それでも、和真の一撃で冷静さを取り戻したらしい各隊士は、稲田の指示に従って、慌てながらも先程よりは落ち着いた様子で動いた。
「倫悠、」
 和真は、その中で未だその場を離れようとしない友に近付いた。
 唯一、穴が空いたかのような静けさを保つその一角で、山瀬が黙って首を横に振り、静かに離れていった。
 菊の亡骸を抱え、大きく震える背を和真は見た。声はなかった。
 その姿は、深くて哀しい。
 長い付合いである幼なじみの涙する姿を目にするのは、和真も初めてだった。慰めの言葉も持たず、ただ傍に立ったまま、見守る事しか出来なかった。その前にどうしようもない遣る瀬なさが、川となって静かに横たわっていた。
 そこに沙々女が、ひっそりと近付いた。
「お菊ちゃん」傍らに座って、黒羽の腕の中にいる娘にかかった灰を手で払い、ほつれ髪を指先で撫でた。「お菊ちゃん、奇麗にして着替えさせてあげないと」
 黒羽が沙々女を見た。
「沙々女さんがしてくれるかい」
 堪えながらの黒羽の問いに、沙々女は頷いた。
「奥の部屋へ連れていこう。あそこが一番、静かだから」
 漸く、言葉を見付けた和真を振り返る事なく黒羽は頷いた。
「手伝うか」
 その問い掛けには、「いや、いい」、と答えた。
「俺が運ぶ」
 雨の降る音が、一層、激しく聞こえた。



back next
inserted by FC2 system