kumo


 朝一番で亞所へ昨夜の出来事についての報告に出向いた稲田は、寮に戻る早々、待っていたらしい隊士のひとり、坂本の顰めっ面に出会った。
「その様子だと、良くなかったか」
 問い掛けに、坂本の眉尻が情なさそうに下がった。
「来るのは遠慮したいとの事です。出来れば、全部、こちらにお任せしたい、との事で」
「そうか。では、黒羽家とも話して、俺たちで懇《ねんご》ろに弔ってやろう」
「でも、実の親に見送って貰えないなんて、お菊ちゃんが可哀想です」
 予想はしていたとは言え、うな垂れる部下に、「仕方ないさ」、と稲田は答えた。
「見えるわけではないからな」
「でも、取り憑いたモノは羽鷲さんが斬ったから大丈夫でしょう。その上でお祓いもして貰うんですから。そう伝えたんですけれど、信じて貰えなくて……」
「信じる、信じないの問題じゃないよ。娘があやかしに関って命を落したと世間に知られれば、家族もどうなるか分かったもんじゃない。祟りだなんだと面白半分に言い立てられた上に商売が出来なくなって、今、住んでいる場所にもいられなくなるかもしれん。それでもましな方だ。実際にもっと酷い話はあるからな。こればかりは、俺たちでもどうにもならない。親御さんだって、娘が死んで悲しくないわけじゃないだろう。ただ、これから自分達が生きていく為にも、仕方ないと諦めるしかなかったんだろう」
「でも、それにしたって、討伐の際に巻込まれたってことにしたのに。誰も望んでそうなるわけではないでしょう」
 泣き言を言いながらも、坂本も詮なき事と分かっているに違いない。ただ言わずにはおれないのだろう。
 菊が取り憑かれて刃傷に及んだことは表立っては伏せたにしても、それでも、あやかしに関って命を落としたというだけで、目に見えぬ穢れに冒されたと人々は怖れる。子や孫の代にまで祟りが続くことを怖れる。目の前で彼等が声を大きくしてそうではないと言い尽くしても、伝承でしかないそれを頑なに信じこんでいる。刀で斬られることによってあやかしは無に還り、穢れは浄化される。目に見えぬ作用は同じであるのに、こちらは何故、信じられないのか。だが、見えぬものを怖れる気持を詰るわけにもいかない。
 俯く部下の肩に、稲田は手を乗せた。
「坂本、背筋を伸ばせ。護戈衆らしく顔を上げろ。お菊ちゃんや旭日の為にも、今日の勤めをこなせ」
「……はい」
 頭を下げ、どこか頼りない様子で詰所へと向かう部下の背を見ながら、稲田は密かに嘆息した。彼にしても、意識をしていなければ背が丸まりかけてしまう。人の死はそれだけ重い。ましてや、身近にあった者であれば尚更だ。
 稲田は自室の前を通り過ぎ、普段は滅多に使用する事のない奥の部屋の戸を開いた。そこには、菊とすゑの亡骸が枕を並べて眠っていた。
 馥郁《ふくいく》たる焚かれた香の匂いが、稲田の鼻先を掠め外へと流れ出ていった。
「沙々女ちゃん、大丈夫かい」
 やはり、一睡もしていないだろう枕元に座る娘に声をかけた。娘は黙って頷いた。
「そうかい。無理するんじゃないよ」
 労る言葉に、ひとりで菊の身体を拭い浄めた娘は、いつもと変わらぬ表情で俯いた。
 気丈と言っても良いものか。はつは源八に付き添い、加世は心折れて床に伏している。その中で沙々女だけが、いつもと同じ表情でいつもとは違う仕事をひとりでこなしていた。
 稲田は身体も重く、沙々女の横に腰を下ろした。そして、菊の顔を覆った白い布を除け、手を合わせる。
 唇には紅がひかれ、ほんのりと薄化粧を施された娘の死顔は穏やかで、まるで眠っているかのようだった。咽喉に丁寧に巻かれた繃帯が、痛々しく感じた。
「着物、あげたのかい」
 夜具から覗く撫子色に気付いて訊ねると、「ごめんなさい」、と小さな声が返ってきた。
「いや、いいよ。汚れた着物のままじゃあ可哀想だからね。お菊ちゃんも喜んでいるだろう。この櫛も沙々女ちゃんのかい」
 真新しい黄楊の櫛が、綺麗に梳られた髪に飾られていた。
「黒羽さまが」
「そうかい。良かったな、お菊ちゃん。よく似合うよ」
 生きている時であれば、頬を赤らめ、さぞかし喜んだに違いないだろう。しかし、自らの色を失った頬は、もう応える術を知らない。
「すゑさんもありがとう」
 隣に眠る女の亡骸にも、稲田は手を合わせた。
 沙々女を庇って刺されたのだと、後から聞いた。
『倫悠さまに近付く女は許さない!』
 菊はそう言って、真っ先に沙々女に襲いかかったのだそうだ。その前に庇うように飛び出していった。
「本当に今迄、よくしてくれた。これからは、旦那の傍でゆっくりと休んでくれ」
 前任者の頃から二丿隊にいた女の夫を、稲田は知らなかった。ただ、早い内に亡くなったと聞いていた。それで、すゑが護戈衆の妻になった事を後悔したかは知らない。物静かな女は、誰にも何も語ろうとはしなかった。
 何も知らないが、せめて、あの世で夫との再会を喜んでいてくれれば良いと思う。そう思わなければ、不幸を嘆く事しか出来なくなる。それは、生き残った者にとっては辛い事だ。
 稲田は隣に座る、とうに身寄りをなくした娘に言った。
「あとから舵槻衆からの迎えが来る。一度、検分をしたいんだそうだ。弔いはその後になるな」
 沙々女より返される言葉はなかった。
 稲田もそれに何を言うでもなく、暫くの間、黙って菊の顔を見続けた。
「なぁ、沙々女ちゃん」長い沈黙の後、稲田は重い口を開いた。「昨日の事で、あの時の事を思い出したのか」
 はい、と小さな声が答えた。
「もしかして、ずっと?」
「はい」
「あんな小さかったのに」
「はい」
 そうかい、と稲田は口の中で呟いた。
「俺は忘れていたよ。いや、忘れていたわけじゃないんだが、沙々女ちゃんがここに来て一緒にいる内、思い出さなくなっていた。だが、昨日のことで、はっきりと目の前に突きつけられた気がした。己のした事を忘れるな、ってな……俺や羽鷲さんのこと、恨んでいるかい」
 いいえ、と静かな声が答えた。
「ここにこうしていられるのは、おじさまたちのお陰ですから」
「そう言ってもらえると、少しは救われた気になる」でも、と稲田は天井を見上げた。「でも、いつか、俺たちを恨む日が来るかもなぁ」
 その返答には、幾許かの間があった。
「お菊ちゃんは、和真さまを恨んだりしていないから」
「そうか。そうだな」細かく震えそうになる声を押さえて、稲田は答えた。「いつか、一緒に母上のお参りに行こう」
「はい」
「お菊ちゃんや、すゑさんがいなくなって、沙々女ちゃんも寂しくなるな」
「はい」
 頷いてから沙々女は繰り返して呟いた。
 寂しい、と。



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