kumo


 詰所で待機する和真は、奥の板間で静かに座る友を見た。
 その表情は端正で、乱れる事を知らないかのようだった。若干、顔色は悪くはあったが、憔悴している様子はない。昨夜の血に塗れた時の表情を思い出させるものは、何も残ってはいなかった。それどころか、最も精神的に参っているだろう筈が、そんな様子も微塵も感じさせないでいる。いつも通り落ち着いた、身綺麗と思わせる様相をしていた。
 黒羽は他の隊士達を巡回に送りだしてから一言も口を聞かず、瞳を伏せ、身じろぎひとつなく座っている。それが、いつもよりも余計に、何を考えているのか和真には分からなくも感じた。
「寮に戻って休んできたらどうだ。ここは俺がやっておくから」
 土間からの上がり口に腰掛けて、和真は声をかけた。伏せていた瞳が、やっと彼の方を見た。「顔色が悪い」、と付け加えると意外にも、苦い微笑が答えた。
「ただの寝不足だ。大丈夫だ。ここでこうしている方が落ち着く」
「そうか」
「ああ。おまえは大丈夫そうだな」
「まあな。慣れているから」
「おまえが言うと別の意味に聞こえるな」
「そりゃあ、そういう意味だからだろ」
 はは、と軽い笑い声がたった。が、すぐに瞳は伏せられた。
「何を考えている」
 問えば、「お菊のことを」、と静かな答えがあった。
「助けてやれなかったのか、もっと、何かしてやれることがあったのではないか、と考えていた」
「それで、何か思い浮かんだか」
「いいや」
「だろうな。あれが今の俺達に出来る精一杯だった。悔しい事にな」
「そうだな、悔しいな。本当に何もしてやれなかった」
「ああ。けれど、おまえはしてやれただろう」和真は言った。「最後にお菊ちゃんを呼び戻す事が出来た。取り憑かれたまま、何も分からず死ぬ事だけは避けられただろ」
「そんなのは、してやった内に入らないさ」
「多賀井がそれを聞けば怒る」
「多賀井が?」
「夜中に雨の中であいつ、ひとりで泣いていたんだ。自分は何も出来なかった、動くことすら出来なかったってな。畜生って喚きながら、悔しそうに泣いていたよ」
 土砂降りの雨の中に佇み、声をあげて泣いていた少年の年に近い隊士は、朝になれば眼に赤くした名残はあったものの、誰よりも強い眼差しをしていた。その表情は、一晩で、急に大人びたかのようにも見えた。
「そうか、多賀井が……彼には本当に悪いことをしたな。刀を駄目にしてしまった」
 人の血を浴びた刀はあやかし相手には役には立たない。評定省への申請が通り次第、すぐに新しい刀を支給されるだろうが、手に馴染んだ刀の喪失感は簡単に埋められるものではないだろう。しかも、それまでは脇差のみで過すことにさぞかし心許ないに違いない。それでも、多賀井は何ひとつ文句を言うことはなかった。
 黒羽は立ち上がると、和真の傍らに移動した。そして、問いを投げ掛けた。
「あの時、おまえはどうするつもりだった。お菊を斬るつもりだったか」
 あの時、と指す刹那を思い出し、さあ、と和真は瞳を伏せた。
「どうかな。何も考えていなかった……そうだな、多分、おまえが止めなければ斬っていただろうな」
 昨夜、今、片腕にある刃を研ぎながら、何度も自問した答えを口にした。
 彼が出なければ、沙々女は菊に斬られていただろう。夢中で飛びだしていったあの時、己に殺意があったかどうか、和真自身にも分からなかった。沙々女が危ないと考えるより前にそうしていた。
「嘘をつけ」、と黒羽は言った。
「おまえに斬る気などなかったよ。でなければ、刃を受け止める事などなかっただろ。おまえの腕ならば、軽く逸らすかいなしてから、一太刀にすることも出来た筈だ」
「どうだかな。分からんよ。おまえこそ、何故、あそこで出てきた」
「さあな。どうしてだろうな」
 黒羽の瞳も伏せられた。
「それよりも」、と和真は胸中を洩らした。
「街でお菊ちゃんを見かけた時、引き留めるべきだったのではないかと、呼び止めようとした多賀井を留めるべきではなかったか、と今になって思う。もし、あの時、声のひとつもかけてやれば、こんな事にはならなかったのかもしれない」
「よせ」初めて黒羽の声が鋭さを帯びた。「今更言ったところでどうにもならない事は、おまえにも分かっているだろう」
「……そうだな」
 もし、ああしていれば。もし、こうしていれば。言わずとも、後悔は誰の胸の内にもあるに違いなかった。それを口にしてしまったところは、やはり、自分も気弱になっているようだ、と和真は堪えきれずに沈む心に思う。
 それが伝染してしまったのだろうか。
「俺はこんな事になるまで、お菊の気持ちに気付いてもやれなかった」黒羽がぽつり、と言った。「おまえは知っていたのか」
 和真は頷く。
「ああ、おまえしか見ていなかったからな」
「そうか。駄目だな、俺は。女の気持ちなんて、ひとつも分かりゃしない」
「そんなもんさ。俺だって分からんよ」
「そうなのか」
「ああ。でも、分からん方が良いのかもしれないとも思う。例え分かったとしても、応えられるとは限らんからな。それはそれで辛いだろう」
「そうだな。辛いな」
 それでも、耐えるしかないのだ。それも、生きている者に与えられるもののひとつと言えるだろう。
 和真と黒羽は、暫し降る雨の音と流れる水の音に耳を傾け、この世からいなくなった娘を忍んだ。
 と、その双眸に、ふ、と影がさした。
「おい、稲田はいるか。見舞いに来たぜ」
 ぶっきらぼうなその物言いに、和真は我知らずうちに立ち上がっていた。そして、開けた戸口を塞ぐ巨体を鋭く見上げた。
「隊長は留守ですが」
 冷静さを保つ二丿隊副隊長の答えに、四丿隊隊長は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「せっかく、この雨ん中来たってのによ。どこに行ったんだ」
「評定省へ報告に。その後は、寮の方に戻る予定ですが、いつになるかまでは」
 その返答に、峰唐山は、「ああ、爺ぃの所かい」、と頷いた。
「それじゃあしょうがねぇなぁ。寮に邪魔させてもらうか。ちぃっとばかし、急ぎの用もあるしな。おい、寮へはこっちの道でいいのか」
「案内させましょう」
「おい!」
 和真は声をあげた。先だっての理不尽な条件を呑まされたことを忘れたわけではない。
「羽鷲、頼むよ」
 だが、それを知っているだろう黒羽は口調も柔らかに、それでも副隊長の顔で言う。
 それを前にして言い返すことも出来ず和真は、不機嫌さも露に戸口へ向かった。



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