kumo


 三顧の礼、などという言葉を太吉は知らなかった。
 元は、国を収めんとした男が有能な軍師を招くにあたって、その住居を三度訪れて懇願した、という故事から生じた言葉らしいが、当然、太吉に国を統治しようという大それた野心はなく、訪れた先も、何処にでもよくある下駄屋だったりする。そこの女房の固い口を開かせるまでに三度訪れさせられた、というだけの事だ。
「あたしもこんな事を口にしたくないよ。どんな災いがあるかしれやしないんだから」
 雨で買いに来る客もいないだろう店先に、ぽつん、と座った女は、口に何かを含んでいるかの調子で、もごもごと喋った。それでも暇だったのか、人恋しくなったのか、前回に比べて重い口が、幾分、軽くなったようだ。
「そりゃあ、生まれた時からお登紀お嬢様のお世話をさせて貰ってたからね。大抵の事は知ってるつもりさ。でも、今更、こんな事を話したってねぇ」
「そう言うなよ。おまえさんだって、義理立てだけでこの先一生、ずっと胸の内に抱えているのも気持ち悪いだろう。話せば楽になるんじゃねぇのかい。それが、お嬢さんの供養になるかもしれないし。おまえさんが話したなんて、誰にも知られないようにするから」
「当たり前だよ。いらない火の粉を被るなんて、まっぴらごめんさ」宥める言葉に太りじしの女は怒り声にもなったが、次には、しゅん、と肩を落した。「けど、お嬢さんも我儘なところもあったけれど、あんな亡くなり方をするような事をしていたわけじゃない。きっと、あのおはるの祟りに違いないよ」
「おはるって」
「おはるは、ほら、あの、おはるさ。常葉屋の」
「常葉屋のおはるって、あのおはるかい!? あの、あの一家皆殺しの!」
「しっ! 声がでかいよ、兄ちゃん」
 太吉は慌てて口を押さえると、他に誰もいないにも関らず、ひそひそ声で訊ね返した。
「おはるとお登紀さんは、知合いだったってのか」
「おはるは、お嬢さんの常磐津のお師匠だったんだよ。前のお師匠さんとは、ちょいと折合い悪くしてね。去年の夏頃から変わって習い初めたのさ。気の好いお師匠さんだって機嫌良く通ってたのが、それが、まさか、あんな……恐ろしいったら」
「けれど、あの『悪女おはる』だろ? 狐憑きだったって噂だが」
「そうだろうよ。でなけりゃ、とてもあんな事をするような人には見えなかったし、出来るわけないだろ。女ひとりで、大の男を何人も殺っちまうなんてさ」
「ああ、まぁ、そうだな」
「常葉屋の囲い者だったって事も、後から聞いて驚いたもんさ」
「じゃあ、お登紀さんがああなったのも、その狐のせいだってのか」
「きっと、そうに違いないよ。ひとり歩きはその前からだけれどね」
「ああ、占いに通ったとか。どこの店だったんだい、そんな熱心に通うなんてさ」
「さあ、知らないね。気付かない内に、ふい、といなくなっちまうんだから。散々、ひとりで出歩くのは危ないって言ったんだけれどね。聞く耳もたずでさ」乳母だった女は、拗ねたように頬を膨らませた。「小さい頃は、いつも誰かがみていなきゃいけないような、人一倍、臆病な性質だったのにねぇ。夜なんかでも、あやかしがいるとか言ってびいびい泣いて、寝かしつけるのにそりゃあ苦労したもんだよ。それが、変われば変わるもんさ」
 でも、と太吉は、更に訊ねた。
「何を悩んでいたんだろうな。何不自由なく暮らしていただろう大店のお嬢さんが」
 それには、思い当るように、ああ、と返事があった。
「多分、手代の六助さんとの事じゃないかねぇ」
「手代の六助?」
「お嬢さんと六助さんは、出来ちまってたんだよ。たまたま、逢引してるところを見ちまってさ。あんときゃ、あたしも驚いたよ。いつの間にってさ。でも、そんな事が旦那さんの耳にでも入ったら、あたしにもとばっちりがくるだろ。なんで、ちゃんとみていなかったってさ。だから、言うに言えなくてさ」
「なんとかって店の若旦那との縁組みが決まっていたんだろう」
「それも親同士が勝手に決めたもんだったからねぇ」
「ああ、そうか」
「お嬢さんもさ、あんな事になって本当に可哀想に。こんな事になるって分かってりゃ、あたしももっときつく言っておくべきだったって、今になって後悔してんのさ」
 雨垂れの音の下、太吉と下駄屋の女房は同時に溜息を吐いた。




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