kumo


 二日間に渡って降り続いた雨も止み、青空が広がっていた。残る湿気に太陽が照り付け、蒸した暑さを感じる陽気となった。
 太吉はぬかるんだ道の水溜まりを避けながら、二丿隊詰所へと向かっていた。しかし、胸の内では、大いに不安を感じていた。
 引手の仕事を始めてそう長いとは言えなかったが、こんな命を受けたのは初めてだった。護戈の隊へ行く理由が、どう考えても分からなかった。仕事には違いないのだろうが、何をさせられるのか見当もつかなかった。
 ――無茶を言われなけりゃいいけどな……
 隊長の稲田の名は、太吉も噂で聞いた事がある。隊長どころか、おおよそ護戈衆らしくない男という話だ。それがどういった意味を指すのか、想像もつかなかった。しかし、恐ろしいあやかしを退治する者たちを纏め上げてるのだ。相当に怖い男なのではないかと思う。機嫌を損ねる事があれば、何をされるか知れたものではない。
 歩く太吉の頭が憂鬱にますます垂れた。
 二丿隊詰所の前に立っても、太吉はまだ躊躇していた。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかず、ひと息吐くと、閉められた戸口を思いきって開けた。
「あの、ええと、どなたかいらっしゃいやすか」
 開けたそこはだだっ広い三和土になっていて、大きな机と幾つもの腰掛けが並んで置かれていた。だが、人っこひとりいない。てっきり、大勢の護戈衆がいるとばかり思っていた太吉は、気が抜ける思いがした。
 はい、と上がり口の向こうから返事があって、赤みがかって見える短髪の若い護戈衆が顔を出した。線が細い感じはするが、優しげで整った顔立ちは役者と言っても通用しそうだった。どんな強面が出てくるかと身構えていた太吉は、少しだけ安心した。
「あの、今日、こちらに来るように言われて来た者ですが、稲田隊長はおられやすでしょうか」
 舌を噛みそうになりながら言うと、隊長ですか、と不思議そうな表情で問い返され、再び不安を募らせた。
 とその時、「はいはい」と奥から別の軽い返事があって、白羽織を身に着けた中年の男が顔を覗かせた。
「俺が稲田だけれど、舵槻の方から来た人かい」
「あ、へぇ」
「へえ、意外に若いねぇ。うちの隊士たちとそう変わらないじゃない。もっと、年がいっている人かと思っていたよ」
 人の良さそうな笑顔を浮かべる男を、太吉はまじまじと見つめた。想像の逆をいく意外さに、ろくに反応出来ずにいた。
「舵槻からですか」
 青年の問い掛けに、稲田は、うん、と頷いた。
「お菊ちゃんの件で調べなきゃいけないらしくてね。暫くの間、寮の方にも出入りするよ」
「というと、引手ですか」
「そう。というわけで、今から寮に戻って話をしてくるから、後の事よろしくね」
「わかりました」
「それから羽鷲が戻ったら、顔出すように言ってくれないかな」
「分かりました。伝えます」
「それじゃあ、行こうか」
 事情が分からないまま、誘われるに従って、太吉は稲田の後について詰所を出た。
 鼻歌を歌いながら歩く白羽織の背中を、それとなく見る。
 背は太吉よりも高いが、平均的な男のそれに入る。肉付きもはっきりとは分からないが、筋骨隆々とも違う。顔の作りにしても、少々、にやけがかっているが、どこにでもいそうな感じだ。どう見ても、普通としか言いようのない男だった。それが逆に不思議に思えた。
「いやぁ、思ったより早く動いてくれて助かるよ」、と白羽織の背中が言った。
「正直、心配してたんだ。引手をひとり貸してくれ、と頼んだものの、本当に来てくれるかどうか不安だったんだ。いや、本当に助かる」
「そうなんですか」
「だって、あの評定省でしょう」
「まぁ、そうですね」
「なにするんでも規則、規則で嫌になっちゃうよねぇ。融通きかなくて、冗談言っても通じなくてさぁ。あそこの人たちって、何が楽しくってやってんだろうねぇ」
 鯉に似た舵槻衆の姿が太吉の頭に浮かんだ。くすり、とした笑いが出た。
「確かに」
 でしょう、と振り返る顔にやんちゃさが見えた。それを見て太吉は、この人の下で働くのは面白いかもしれないと思った。少なくとも、鯉顔の舵槻衆の下よりは良さそうだ。
「ところで、名前をまだ聞いていなかったね」
「太吉です」
「太吉くんかぁ。うん、頼りにしてるよ」
「へい」
 まだ、はっきりと何も分からぬ内から、太吉は笑顔で頷いていた。



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