kumo


 季節の変わり目らしく、日毎に違う気温は、人の身体の調子も変えてしまうようだ。
 布団に入ってもなかなか寝つけず寝返りを繰返しては、うとうととした途端にまた目が覚める。疲れているのに眠れない。しかし、太吉の場合は、時候のせいばかりとは言いきれなかった。
 この二日間というもの、昼間の出来事が次々と脳裏に現れては、毒となって彼の安らかな眠りを妨げていた。
 おんぼろ長屋の一室で、太吉は臥床《ふしど》も狭しと、ひとり密かに暴れていた。
 人並外れた峰唐山の恐ろしさに身体を縮こませ、無謀にもその男に立ち向かい、ぼろぼろにされた和真にうなされ、和仁口少年の大人顔負けの口達者さに何度も寝返りを打った。
 その寝顔は、百面相。
 しかめ、歯軋りをし、呻き声をあげ、夜着をかき毟る。時折、混じるいびきも苦しげだ。と、その顔が、急にだらしなく、にやけたものになった。
「沙々女さん……」
 小さな寝言が、涎を垂らさんばかりに開けた大口から洩れた。
 荒かった寝息が安らかなものに変わり、ひとつ大きく溜息を吐くと、静かに眠り始めた。

 和真はまんじりともせず、薄暗い天井にぼんやりと浮かぶ方陣を睨みつけた。
 腹を立てていた。峰唐山に。そして、己自身に。
 四方に方陣が張られた部屋で横たわりながら、ひとり歯噛みした。全身がずきずきと痛み、そのくせ、腫れ膨らんだ箇所は熱を帯びて鈍く感じる。
 山瀬の診断では、骨折はなくともひびぐらいは入っているだろうとの事だ。他にも、打ち身、切り傷と、全身くまなく特製の軟膏を塗りたくられ、犬神人のように全身を繃帯と晒で巻かれて治療棟の特別な床《とこ》の上に転がっている。
 痛みで曇る和真の耳に、連続する足鳴りと木太刀を打ち合わせる音が聞こえてきた。時々、気合いの声も混じる。
 事件後、時間があれば、多賀井を中心とした若い隊士たちが自主的に道場に集まり、熱心に剣の稽古をするようになったその音だ。
 それを耳にするだけで、余計に落ち着かなくなる。身を捩った瞬間、胸から腹までが鋭く痛んだ。痛みは波となって、頭の天辺から手足の指の先まで伝わった。しかし、胸の内に疼くしこりは、それ以上に和真を苦しめた。方陣の部屋は患者の精神の安定をも促すものであったが、今の和真に効くものではなかった。
「畜生……」
 口の端が痛むにもかまわず、唯一、出てくる言葉を吐く。
 何故、あの一振りを躱せなかったか。何故、あの拳を予想出来なかったか。何故、あの一瞬にあの巨体を見失ったか。
 これらの問いに対する答えは、全て同じだ。
 彼が弱かったからだ。予想を遥に超えて、峰唐山が強かったからだ。
 始める前は、巨躯に頼った力任せの剣とたかを括っていた。だが、それはまったくの見当違いだった。
 和真の剣を悉く躱す早さがあった。臨機応変に応ずる、びくともしない防御力があった。攻め自体に早さはなくとも、ここぞという一刀の振りの早さと激烈さがあった。そして、何よりも、汚いばかりに勝ちに拘る姿勢があった。
 その結果、峰唐山は多少の青痣はついているものの、今頃は遊び歩いている頃だろう。そして、和真はこうして横たわっていることだけしか出来ない。
 無様だ、と思う。
「たしかに剣の筋ぁ悪かねぇ。だが、型通り過ぎてつまらねぇな」
 四丿隊道場で、和真が打込んだ木太刀を肩に真っ正面から受けて尚、涼しい顔をして峰唐山は言った。
 馬鹿な、と怯んだのは一瞬の事。すぐに相手の気の高まりを感じ取った。発する気の膜が、和真の一撃の勢いを殺していた。
「縄《じょう》」
 空の左手を振りながらのぼそり、とした声を聞いた時には既に遅し。自身の手で起こした細い風の鞭を和真の木太刀に巻き付けると、そのまま軽く捻りを加えた。木太刀を握っていた和真は、もんどり打って床に倒れた。
「汚ねぇぞ!」
「ああ? なに言っていやがる」床に這い蹲りながら喚く和真に、峰唐山は意外そうな表情を浮かべた。「てめぇも護戈衆だってんなら、やっとうばかりが喧嘩じゃねぇだろうが。次いくぞ」
「くそっ!」
「俺とまともに立ち合いたきゃあ、もう少し剣の腕を磨いてから来るんだな」
 その時は立ち上がりこそしたが、その後もいいようにやられるばかりだった。
 ――畜生!
 情けなくて仕方がない。悔しさを通り越して涙も出ない。
 二度とこんな屈辱は味わいたくない、と和真は心の底から思った。
 もっと、強く。
 峰唐山と真っ向から渡り合える程に強く、勝つ程に強く、それ以上に強くなりたい、と和真は痛む心をより固く絞った。だが、どうすれば良いのか、何をすれば良いのか、分からなかった。

「どうしたもんかな」
 稲田は、自室でひとり頭を悩ませていた。
 太吉の協力を得て、事件についてひとつの筋道が見え始めていた。だが、確たる証拠は何ひとつなく、疑問ばかりが山積している。これらをひとつずつ検証し、解きほぐしていかなければならないのだが、いかんせん、手駒が少なすぎた。下手に動けば、王手飛車角の憂き目に遭いかねない。
 では、手駒を増やすか?
 それは憚れた。菊の受けた仕打ちを知る者をこれ以上、増やしたくはない。特に黒羽には知られたくなかった。心優しい青年がそれを知れば、羽鷲以上に怒りに駆られるだろうことは想像に難くない。そして、今まで以上に彼を恋い慕った娘の心持ちを嘆き、己を責めもするだろう。
 そして、何より菊が知られるのを嫌がるに違いない。あの世に逝った者であるから尚更、その御霊の遺志に背くような真似をしたくはなかった。だが、しかし。
「西かぁ」
 西の地域は、隊長としては最古参の榊夏水《さかき なつみ》が率いる七丿隊の持ち場だ。嘗て、稲田も羽鷲義雅と共に所属していた。
 榊は昨今、珍しいほどに人柄のよく練れた人物で、稲田の要請にもすぐに応えてくれるに違いなかった。
 しかし、問題がひとつ。
 和真が四丿隊からボロ雑巾のようになって舟で送られて帰ってきた事は、半ば予想していたとは言え、稲田に溜息を吐かせた。
「この忙しい時に……君も、いい加減に大人になんなさいよ」
 治療棟に運ばれる間に、そう言わずにはおれなかった。
 太吉の話によれば、峰唐山と顔を合わす早々、あっ、という間に挑発に乗ってしまったそうだ。その後、道場で木刀が折れるまでにこてんぱんにやられてしまったと言う。
「いや、もう、止めようにも止められなくて……」
 申し訳なさそうに謝る引手の男には、「世話をかけた」、と頭を下げるしかなかった。
「でも、あっちも悪いですよ。沙々女さんのことをあんな風に言うなんて」
 峰唐山が沙々女について下卑た冗談を言ったのが切っ掛けだったと、太吉からの弁護があった。
「まあ、羽鷲にとっては、沙々女ちゃんは妹みたいなもんだから」
「そうなんですか。へえ」
 実際のところはどう思っているか分からないけれど、と心の中で稲田は呟く。
 しかし、それにしても喧嘩両成敗とは言え、隊長格に表立って刃向った事は隊規に違反する行為だ。理由はどうあれ、管理する立場として不問に処するわけにはいかない。
 これをどう処理するか。
 理性ではひとつの方策が浮かぶ。だが、感情では抵抗があった。そこが悩み所だ。
「仕方ないか……」
 稲田は忸怩たる思いを抱きながら、長い時間をかけて結論を引き出した。そして、決心したように頷くと、文机に向かって書状をしたため始めた。

 悔しがっている内に、いつの間にか眠ってしまったようだ。
 目を開くと、室内は障子を通した柔らかい光で満たされていた。賑やかな小鳥の鳴声からして、今日も天気は上々のようだ。
 だが、気分は未だすぐれない。
 和真は腹筋だけで起上った。治療が効いたのか、身体の痛みが殆どなくなっていた。若干の痣と多少の違和感はあるものの、節々も自由に動くまでに回復していた。
 山瀬はそんな彼に、問題ない、と言い、若干、長めの説教も付け加えた。そして、稲田の所へ行くようにと伝言を受けた。
 和真が母屋に戻った時には、他の隊士は既に出掛けた後だった。急いで用意された卵粥を平らげ、真新しい隊服に着替えた和真は詰所へと向かった。
 詰所には稲田がひとり残っていた。和真の代わりに黒羽が巡回に出たらしい。
「もう、いいの」
 上司の問い掛けに、前に座った和真は頭を下げた。
「はい、ご迷惑をおかけしました」
「本当だよ。今後は少し自重しなさい。時には我慢も辛抱も必要だよ」
「はい」
 それで、と言う。
「峰唐山は強かったでしょう」
 確信を持ったこの問いには、和真も唇を噛みしめた。
「はい。対峙して実感しました。もし、真剣であったらば、命はなかったと思います」
「だろうね。奴とまともに遣合えたのは、後にも先にも羽鷲さんだけだからね」
「『おまえは、本当にあの羽鷲の血縁か』、と問われました」
「まぁ、ふたりとも、そういう意味では別格だから。ところで、今回の件について、君は罰を受けなければならない。隊長格に向かって刃向った罪だ。分かっているね」
「はい」
 神妙な顔つきで頷く和真に、稲田は言った。
「君には、二、三日の間、隊を離れてもらう」
「それは、謹慎という意味でしょうか」
「少し違う」稲田は首を横に振ると、傍らに置いた文箱から一通の書状を差し出した。「ここに七丿隊の榊隊長への書状を用意したから、自分に何が足りないかよく反省して、教えを乞うてきなさい。今から出れば、今日の便に間に合うだろう」
「榊隊長へですか」
 それは、和真にとって思い掛けない罰だった。
 七丿隊隊長、榊の名は和真にとっても馴染深かった。直接の面識はなかったが、叔父の義雅が尊敬し、師と仰ぐ者として以前よりその名を耳にしている。その人に会う機会を得る事は、今の和真にとって願ったり叶ったりの事だった。
 稲田は書状の内容をかいつまんで和真に説明すると、
「ついでに、返事を持って帰ってきなさい。榊隊長に訊かれたら、全部、答えなさいよ。くれぐれも御迷惑をかけないように。俺からよろしく言っていたと伝えておいて」
「はい。自重します」
「それから、あっちには白虎の守り湯が湧いている。傷によく効くから、試してみるといい」
 稲田らしい心遣いが、和真にはいっそう有難くも感じた。
 ほかに護戈の印が捺された割り符と幾許かの金子も渡された。
 それらを受け取り、和真は低く頭を下げた。
「では、行ってまいります」
「行ってらっしゃい」
 和真は詰所を出ると、支度を整えに寮へと走り戻った。
 心中かかる雲が、一気に風で吹き飛ばされていくような心地がした。
 追い風が和真の背を押した。


back next
inserted by FC2 system