kumo


拾壱

 船室に寝転びながら、和真は権造の話を頭の中で反芻していた。
 思わぬ所で聞いた思わぬ話は、和真の心にも少なからず波を立てていた。
 和真の叔父、義雅は、一度、八丿隊に配属されて後、和真が三つの年に七丿隊へと異動になっていた。以来、九年間、公務などで年に一、二度ほど都に戻って来る程度で、滅多に会う機会はなかった。
 それでも独り身であった為に、戻った折りには、実家である和真の家へ泊まるのが常だった。その度、和真も剣を教わったり、隊での出来事を聞かせて貰いもした。普段は語る言葉も物静かな、穏やかな人であったと記憶している。
 ――龍神か……
 和真にしても、不思議な話だと思う。
 護戈になって以来、数多のあやかし、魑魅魍魎をその目にしてきたが、蛇体のものはあっても龍と言えるものは眼にした事がなかったし、はっきりとした目撃談もこれまで聞いたことがない。社に祀られていても、それが実在するものと考えた事はなかった。伝えられる存在としてしか認識はなかった。
 それは、雨雀之森領の泊で沙々女を連れた義雅が乗船した後、都へ向かって航行する途中、起きたことだと言う。

「伸ばした手の先が見えなくなるような濃い霧の早朝でございやした。秋といってもまだ稲穂の刈り入れも残っている時期で、そんな霧が出るような季節でもなかったんでやすが、恐ろしいくらいに辺り一面が真っ白でやした。あっしも長年、船に乗っておりやすが、未だにあんな濃い霧に出遭った事はございやせん。それで、岩にでもぶつけたら大事と、漕ぎ方には止めるように言い付けました。霧が晴れるのを待つ事にしたんでやすよ」

 ところが、船は止らなかった。
 思った以上に川の流れが強いらしく、船はゆっくりと東へと流れ続けた。錨を下ろそうと判断した権造は、自ら船尾の方へと移動していった。船の軋む音を聞きながら縁につかまり、手探りで慎重に歩を進めた。

「船尾に向かって歩いてやしたんですが、人の動く気配にふっと見たら、甲板の真ん中に小さい黒い影がございやすんですよ。あやかしが出やがったか、と身を硬くしやしたんですが、ころころと足下に何かが転がってきやす。見れば、鞠でございやした。ああ、これはあの守護さまが連れた女子のもんだ、じゃあ、あの小さい影はその子だと分かったわけでございやすよ。ところが、その影が船尾の方へ行くじゃありやせんか」

 この霧の中、川に落ちでもしたら助からない。そう思った権造は声をかけたそうだ。だが、返事はなく、見えていた影も霧の中に隠れてしまった。権造は後を追いかけた。

「ところが、船尾の先がなんとなしに見えた所で、急に、ぴたぁっ、と足が甲板に吸い付いちまったみたいに動かなくなってしまったんでやすよ。金縛りっていうには、足だけが動かないって感じでやしたか。ようやく追い付こうって所で、そこからどうにも進まなくなっちまいやしたんで。ところが、女子は、どんどん行っちまう。ついには、よじ登って艫《とも》の先っぽまで行っちまいやした」

 そして、その前に姿を現したものがいた。

「真っ白の霧の中に、ぼうっと長い影みたいなもんが真直ぐに立って見えやした。最初は何か分からなかったんでやすが、それが、右に左にくねり始めやして、なんとなく生き物だって気がしやした。それにしたってでかいもんでやすよ。この船の帆柱の高さぐらいはあるんでやすから。今度こそあやかしに違ぇねぇって、背筋がぞぉーっとしやした。あんなに恐ろしいと思った事は、後にも先にもあれ一回きりだ。きっと、あの子を食うつもりで呼び寄せたんだ、と思いやしたね。そうこうしている間に、女子は先の先まで行って、そいつに向かって食ってくれって言わんばかりに両手を差し出してるんでやすよ。可愛い子でやしたから、きっと魅入られたに違いないと思いやした。と、霧の中に赤いもんがふたつ光って見えやしたんで。ぴかぁっと光って、ふたつに燃える篝火のようでやした。それが、そいつの眼だってのはすぐに分かりやした。ああ、もう駄目だ、って正直、思いやしたね」

 ――魅入られた……
 幼い沙々女がそこで何を見たのか、和真には想像がつかなかった。
 異形に魅入られたが為に沙々女はあのように無口になり、表情を失ったのか、それとも元々そうであったが為に異形に魅入られたのか。
 和真には判断がつかなかったが、無関係ではない気がした。
 それから、思わず権造は眼を瞑ったそうだが、沙々女が食われる事はなかった。
 いつ来たのか義雅が、あらん限りの声で沙々女を呼んだそうだ。

「てまえの声は元からでかいでやすが、あの時の守護さまの声は相当でやしたよ。近くのてまえの皮膚がぶるぶる震えたぐらいで。本当に必死のご様子でやした。やはり、身体が動かないようでやしたが、それでも何とか近付こうと必死でもがいてやした。『沙々女、こっちへ戻っておいで』ってねぇ。『母上と約束しただろう、私とも約束した筈だ。だから、早くこっちに来るんだ』、って何度も何度も呼びかけなすって、怖いくらいでやした。それで、女子は、やっと気が付いたみたいに振り返ったんでやすよ。そうしたら、すうっ、と急に霧が晴れ始めやしてね。てまえの身体も、嘘みたいに軽くなったんでございやすよ。ええ、その時には、そのでかい影もございやせんでした」

 ところが、急に船が大きく横揺れした。
 あっという間に、沙々女は船外へ放り出されてしまったそうだ。だが、義雅が文字通り、一足飛びにその身体に飛びついたという。

「慌てて、てまえも下を覗いたんですが、その時、船の底を潜るようにして長いもんが通り過ぎて行くのがはっきり見えたんでございやすよ。魚の鱗みたいにきらきら光りながら、身体をくねらせてどこかへ消えていきやした。ちゃんと足みたいなもんもついてやしてね。その時、ああ、あれは龍神さまだったんだ、って分かったんでやすよ」

 船から落ちた沙々女は、うねる川面の上に立つ義雅にしっかりと抱きかかえられて泣く事もなく、ぼうっと龍の去っていった先を見つめていたそうだ。
 その後、船上に戻った義雅と沙々女を乗せ、船は他に何事もなく都に辿り着いたという。

「てまえは、今の今迄、てっきり実の親子だと思っておりやしたが、違ったんでやすね」、と権造は彼に言った。
「けれどあの時の守護さまは、やはり、守護さまだって実感しやしたねぇ。実の子にしても、あそこまで必死になれるかどうか分かりやせん。叔父御は、本当にご立派だったと思いやすよ」

 和真は何の返事も出来なかった。ただ、何故か、子供の頃のはっきりとしない、寒々とした感情を思い出していた。


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