kumo


拾伍

 北谿。二丿隊の寮。
 夕刻、その日の務めも無事に終ろうかとみた稲田は黒羽にあとを任せると、一足先に戻って太吉からの報告を受けていた。
「良い話じゃないですよ」、と稲田の私室で両ひざをぴったりと合わせて座る引手の男は言った。傾きかけた西日を頬に受けながら、その表情は冴えない。
「聞こうか」
 稲田の言葉に励まされるようにして、太吉は重い口を開いた。
「まず、茜という娘が奉公していたという曲水亭についてですが、言われた通り、近所で少し話を聞いてみやした」
 前日、太吉は茜の奉公先であった旅籠の曲水亭へ行き、奉公人達に話を聞いたのだが、大した内容の話は何もなかった。皆、茜が悩んでいた事すら知らなかったと答えるばかりだった。
「そそっかしいところはあったけれど、よく働く娘だったよ」
「弟を学舎《まなびや》へやりたいとか言ってたかね。自分と違って頭の良い子で、それ稼ぐ為に都に出てきたって。父親は早くに亡くしたって聞いたけれど」
「まあ、器量よしってわけじゃないが、愛嬌のある娘でさ。いつもにこにこしてて、何かを悩んでる様子もなかったと思うけれどねぇ」
 ただ、特に懇意にしている男がいなかったかとの問いにひとりの奉公人が、
「年頃だったし、あったかもしれないね」
 そう答えた時の面を掠めた笑みが、やけに気になるものだった。
 その報告を受けて稲田は、改めて旅籠自体を調べるよう指示をした。今はその報告だ。
「主人が、多少、吝《しは》しいってぐらいで、そんなに悪い評判はなかったんですが、一軒だけ、近くの茶屋で水撒きしていた女に声をかけてみたところ」
 太吉はそこで、いったん口を閉じた。
「なんだって」
 稲田は先を先を促した。
「……あそこの宿では、奉公人の娘が身を売っているって言うんです。お上の目もあるので、大っぴらに客引きなんかはしてないけれど、娘目当てに常宿にしている客もいるそうで」
「はぁ、なるほどねぇ。茶屋にとっては商売敵だ」
「あくまでも噂でしかないですけれど」
「でも、火のない所に煙は立たないしねぇ」
「実際、そういう宿があるってのは耳にしていましたけれど、あそこがそうだって言われると嫌なもんですね。茜って娘も郷にいる弟の学費欲しさでやっていたかと思うと哀れだと思うし、知らずに懐いていた和仁口くんも可哀想に思いやしたよ」
 消沈する小声に、「子供には話せないわなぁ」、と稲田も頷いた。
「旅籠の方はそれだけだね。で、占いの婆さんの方はどうだった」
 太吉は深い溜息を吐いた。
「こっちも、ろくな話じゃないです」
「それでも聞くよ」
 励ます笑みに引き手の男は頷き、再び、話し始めた。
「取り敢えず、海風寺へ見に行ったんですが、今日も婆さんはいやせんでした。それで、参拝客に訊ねてみたんですが、やはり、最近、見かけないとの話で」
「坊さんは」
「見かけやせんでした」
「ふうん。じゃあ、婆さんの方は。いつも下りる桟橋までは突き止めたんだったよね」
「はい。そちらにも足を伸ばしてみやした」
「見付かった?」
「えぇ、難儀しやしたけれど、あちこち訊ねて。すこしは噂にもなってたんで、なんとか住んでいる長屋を見付けることが出来やした」
「で、話は聞けた? なんだって」
 期待する言葉に太吉は申し訳なさげな表情を浮かべると、いいえ、と答えた。
「留守だったの」
「いいえ、つい、昨日のことなんですが、家の中で首を吊ってるのが見付かったそうで」
 ありゃりゃ、と稲田は声をあげた。
「亡くなってた!」
 ええ、と太吉もまた溜息を吐いた。
「近所にそれとなく聞いてみたところ、そのまま何日か経っていたみたいで、変な匂いがするってんで大家さんが開けてみて初めて、梁からぶらさがっているのを見付けたそうです。その後、番所にしらせたところ、婆さんの持ち物で目ぼしい物はあらかた評定省が浚っていったそうで」
 ううん、と流石の稲田も途方に暮れたようすで、腕を組んだ。
「自害かねぇ……理由はなんだろう。何か聞いた?」
「いえ。ひとり暮らしだった上に近所付き合いも悪かったみたいで、親類縁者がいるのかどうかも分からないって同じ長屋の連中は言ってやした」
「怪しい奴を見かけたって話は」
「それらしい話も何も。こちらも引手って事は隠してやすんで、そう詳しくも訊けやせんでした。けど、死んでいる事さえ気が付かなかったってくらいですから、なかったんじゃないですかね」
「まぁ、そうだろうなぁ。そうかぁ、こっちも切れたか」
 稲田は深い溜息を溢した。
「これからどうしやすか」
 太吉の問いにも、どうしようか、とくぐもる声で答えながら考え込む。
「あとは直接あたるしかないけれど、寺社部の手前、表沙汰になれば問題にもなるし、もし、そうだったりしたら危ないしなぁ。羽鷲が何か持って帰ってきてくれれば良いけれど、」
「じゃあ、羽鷲さんの帰りを待ってってことになりやすか」
「そうだね。それまでも次の手を考えてみるし、他からも連絡次第では進展があるかもしれない。あしたも、また頼むよ」
「はい。じゃあ、あっしはこれで」
「あぁ、ご苦労さん。また明日」
 閉まる障子を前に、稲田は天井を見上げた。
「どうしたもんかなぁ」
 暫くそうしてのち、ふいに立ち上がると、部屋を出て行った。

 太吉は、厨の方から裏口を使って帰る。来る時もそうしている。
 それは、目立たないようにする為もあるが、それよりも、沙々女に会える可能性が高いからだ。特に夕方となると、隊士たちの食事の支度で必ず厨にいる。
 沙々女の姿を眼にする事は、太吉にとってここ毎日の細やかな幸せだった。
 初めて会った時、こんなに綺麗な娘がこの世にいたのかと思ったものだ。まるで天から舞い降りた天女のように思えた。以来、声を交さないまでも、その姿を垣間見るだけで、彼は夢心地になれた。
 果たしてその日も、窯の前で煮炊きする娘の姿があった。
「お邪魔しました」
 大きな声で挨拶するのも、振り返って欲しいからだ。
「御苦労さま」
 しかし、答えたのは加世だった。沙々女は彼よりも鍋の中身の方に興味があるらしい。がっかりしながら、太吉は草履を履いた。
 行こうとしたその時、「待って下さい」、と声があった。振り返ると、沙々女が小さな風呂敷包みを彼に差し出した。
「お煮しめ、どうぞ」
 思わぬ事に戸惑っていると、奥にいたはつが「沢山作りすぎちゃったから」、と笑顔を向けた。
「羽鷲さんがいない事を忘れててね。それでなくても、多過ぎて」
 癖だねぇ、と寂しそうな声が言った。
「そうですか。じゃあ、遠慮なく」
 務めて明るい口調で太吉は答えると、沙々女の手から包みを受け取った。
 それだけで、太吉の胸は浮き立った。だが、折角、目の前にある綺麗な顔を、真直ぐに見る事も出来ない。嬉しいばかりに照れ臭くて、白い手ばかりを見つめた。
「ひっくり返さないようにね」、と注意するはつの方を見てしまう。
「ありがとう」
 沙々女には盗み見るようにして、やっとそれだけ言えた。沙々女は頷くように瞳を伏せると、囁くような声で挨拶があった。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 たったそれだけのことだが、太吉はいつも以上の幸せを抱えて家路についた。
 二丿隊から太吉の住む長屋までは、歩いておおよそ半里ほどの距離がある。生憎、伝馬船ではかえって遠回りになる理由から、毎日、徒歩で通っている。
 農村育ちで足腰が丈夫な事もあって、太吉は歩く事が苦にならない。同じ歩幅で同じ拍子で、どこまでも歩き続ける事が出来た。
 だが、今日に限っては、その歩みも乱調子だ。早足だったかと思うとゆっくりになり、ゆっくりになったと思えば早足になり、と調子が定まらない。それというのも、手に持った風呂敷の中身が気になって仕方がないせいだ。
 立ち止まって隙間を指先で開いては、中身を覗いて匂いを嗅ぐ。椎茸の出汁の匂いも香しく、涎が溢れ出そうになるのを堪えて、早く家に帰ろうと歩き始める。その繰り返しだった。
 ――沙々女さんの手料理……
 それは、太吉にとって、法外な幸運に感じた。出掛けた羽鷲にも、一言、感謝の言葉を述べたいくらいだ。足が地につかない、とはこの事だろう。
 否、路地を抜けようとしたその時、現実に身体が宙に浮いた。いきなり、背中が板に強く打ち付けられていた。
 手から荷が離れ、器の割れる音を聞いた。
 あ、と残念がる間もなく両衿を捕まれ、首が締めつけられた。
 息苦しさに太吉はもがき、上を向いて口を大きく開けた。両手で、衿元を締めつけるものを掻き毟った。指先に人の手の感触があった。
 首が更に強く締めつけられる。身体ごとより高く持ち上げられ、全身の力が抜けた。拠所を求めて動く足が壁板を蹴るが、苦しさに変わりはなく、掴まれる力はびくともしない。
 苦しい。痛い。
 路地の間、軒で区切られた空の色が赤く、次に薄暗く見えた。抵抗する力も抜け、目が開けていられなくなった。
 それっきり、太吉の意識は途切れた。


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