kumo


拾陸

 露天の湯船に浸かりながら、和真は満天の星の瞬きを見上げて息を吐いた。夜の冷気の中、心地よい疲れを感じていた。
 これだけしごかれたのは何年ぶりだろうと思う。七丿隊流の案内というのは、随分と手荒いものらしい。否、これこそ稲田よりの和真に与えられた罰というものなのか。それとも、お仕置きと言った方が正しいかもしれない。
「いて……」
 切れた口の端の痛みに、和真は指先で押さえた。草でかぶれたか、あちこち痛痒くもある。
 と、そこへ、「ああ、いたいた」、と声がして湯気の向こうから近付く者がいた。ゆっくりとした徒歩で湯船の傍に立った。
 年行きは、和真と変わらないくらいか。外見は浅黒い肌に黒々とした澄んだ瞳を持ち、短髪をハクビシンを思わせるような白と黒に綺麗に染め分けていた。細身ではあるが無駄のない肉付きをした男で、袖のない身軽な藍の装束に、後ろ腰には刀身の短い刀だけを帯びている。脇差はない。変わりに、脚に回された袋に手裏剣らしきものが幾本か仕込まれているのが分かった。どうやら、見かけだけでなく、護戈としての闘い方も一風変わっているらしい。しかし、そのような風体であっても、警戒心を抱かせるものはなにもない。殺気はまるでなく、腰に下がる木札に標された雪輪の紋を、和真も見て取った。
「二丿隊からの使いで来たっていうのはあんたかい」
「そうだが」
 答えれば、右手が差し出され、気の良さそうな笑顔が向けられた。
「七丿隊、本所一班班長を務める笹霧だ。よろしく」
「羽鷲だ。よろしく」
 湯につかったまま、和真も差し出された手を握る。
「貝塚さんにここにいるって聞いて来たんだが」笹霧はそう言って、しげしげと和真を眺めると吹き出すように笑った。「随分とやられたみたいだなあ。それやったの、貝塚さんだろ。容赦なかったんじゃないか、あの人も人の悪いところがあるから」
「ああ、半分はな。底なし沼に叩き落とされて、崖から突き落とされて、その上、岩まで落された。その間も竜巻を当てられたり、水柱の中に突っ込まされたりと色々と仕掛けてくるし、何度も死にかけた」
 貝塚は技を出し惜しみするようすもなく、和真が沼から這い上がった先から攻撃を仕掛けてきた。多少は手加減もあったろうが、その腕も見事なもので、流石に大隊の副隊長を務めるだけあると思わせるものだった。が、実際、受ける立場の和真にとっては避けるのも必死。直撃は免れたものの幾度となく吹っ飛ばされ、野薔薇の薮に突っ込み、山犬にも追いかけられる始末。反撃に出ても躱されるばかりだった。お陰で治ったばかりの傷と痣の数を増やしていた。
 笹霧のけらけらとした笑い声が響いた。
「そりゃあ、御愁傷さまだ。七丿隊の新人への歓迎の儀式だが、客人にまでそこまでするってのは珍しいな。でも半分って」
「ああ、こっちに来る前に、ちょっとな」
 苦々しくも答えると、笹霧は、ふうん、と推し量るように頷きながらも、それ以上の詮索はなかった。
「ああ、でも、貝塚さんが、『うちの隊に来ても充分やっていけるだろう』って話していた。珍しいんだぜ、あの人がそう言うのって」
「へえ」
「都とは違うだろうからさ」
「まあ、確かに」
 確かに、平地や整備された水路、瓦屋根ばかりの都では経験できない半日だった。和真には地の利がない分だけ不利ではあったろうが、褒められているのかどうかは分からない。
 複雑な表情をみせる彼に、笹霧は掌の大きさの器を差し出した。
「これは、その貝塚さんからだ。特製の軟膏。傷や軽い打ち身程度には効くはずだ。あと、かぶれにも」
「ああ、わざわざすまない」
「いや、ついでだ。実は頼みというか、用があってな」
「俺に?」
「うん。明日もこっちにいるんだろう。良ければ、昼から付合ってくれないか。隊長の許可は得ている」
「それはかまわないが、どこかへ行くのか」
「あんたに会いたがっている人がいるんだ」
 さて、そう言われても、和真にはそれらしき人物の心当たりがない。幼い頃に一度、訪れたことはあっても知り合いがいる筈もなく、その後、二丿隊でこちらへ異動になった者もいない。
「叔父の知り合いとか」
 そう訊ねてみれば、首が傾げられる。
「叔父さん? いや、多分、知らないだろうな。会ったこともないだろう。ただ、『今日、東から来た客人を連れてこい』って話だから。たぶん、お告げがあったんだろう」
「お告げ?」
「うちの一族にはそういうものがあるんだ。所謂、託宣みたいなものかな。けれど、一族以外の者に関る事は、滅多にあるもんじゃない。俺もこんな事は初めてだしな」
 と答える笹霧の表情にも微かな戸惑いの色が伺える。
「大丈夫なのか。あやかしの類じゃないのか」
 危ぶむ問いにも、ううん、と自信なさげな返事があった。
「違うと思うけれどな。まぁ、嫌ならいいんだ。俺から適当に断っておくし。別に聞いても聞かなくても、害はないだろうから」
 妙な話だ。奇妙な申し出だが、
「いや、行くよ」
 和真は頷いていた。好奇心が動いたという事もあるが、聞いた方が良いと、言いようのない勘みたいなものが働いた。
 そっか、と笹霧は白い歯を見せた。
「じゃあ、明日、昼飯の後に行こう。案内する」
「よろしく頼む」
「こっちこそよろしく。ああ、早くあがって来いよ。皆、都の話を聞きたくて酒を用意して待っている。白虎の湯は傷に効くが、浸かりすぎれば毒にもなるぞ」
「ああ、分かった。すぐに行く」
 それには、和真も笑顔で答えた。
「じゃあ、あとで」、と軽く手をあげて、笹霧はその場を離れていった。
 都とは気風もなにもかもが違うが、そう悪いところでもなさそうだ、と和真は思う。なにより、叔父や稲田がいた隊だ。なにかその頃の話しも聞けるかもしれない。帰ってから、それとなく稲田をからかってみるのも意趣返しとしては面白いだろう。
「……そういえば、」
 沙々女もこの地にいて引取られたのだったと思い出す。本人はもとより、稲田もその時の事情を知っている風ではあるが、敢えて口にしようとしない。気になっていたと言えば、気になっていた事だ。
 菊に刃を向けられた時、かあさま、とその言葉を沙々女が口にしたのを聞いたのも初めてであれば、あの時の強ばった稲田の表情も思い出される。
 ――貝塚さんなら知っているか……
 旧知の仲の上、口調からしても未だに親しそうではあるし、何かしら知っているに違いない。あとでそれとなく訊ねてみよう。
 和真はそう思った。


back next
inserted by FC2 system