kumo


拾漆

 どうも稲田の行動はおかしいと、黒羽は感じていた。
 稲田は部下に対して口喧しく言わない代わりに、自分の行動に対しても口を挟ませないところがある。それでも、副官の彼にはそれとなくでも何処にいるのか、何をしているのか、手掛かりらしきものを必ず残していた。黒羽もそれなりに把握しているつもりだった。ところが、ここ二、三日に限っては、動向がまったく掴めないでいる。今日も、早々に寮へ戻ってしまったことは良いとして、その理由がわからない。
 何の、ではなく、何故か、だ。
 稲田が菊の事件について調べているのは分かっている。だが、それに何故、彼を介入させないのかが分からない。黒羽も当事者のひとりとして関って良い筈だ。むしろ、積極的に関るべきだと感じている。だが、稲田がそれをさせないでいる。
 他の隊士たちの間でも、あれから稲田から一言もないことに不満が出始めている。彼等とて、よく知る娘の非業の死を目の当たりにして、そのままにしておけるわけがなかった。しかし、それを知りながら、稲田は黙殺を通している。
 おそらく、あの引き手が稲田の手足として、調べているのだろうことは容易に想像がついた。
 表向きは舵槻衆による取り調べという話しだったが、その場に居合わせた彼には、通り一遍の質問をしただけに留まっていた。上手く話を進めたようにも見えたが、不自然さも感じた。これだけの事が起きてあの程度の調べで済むわけがないと思う。
 そして、和真だ。
 七丿隊に行かせるなど、黒羽も聞いていなかった。峰唐山への反抗の罰として鍛え直させるために行かせた、とだけ説明があったが、どうにも納得しがたい理由だ。
 罰ならば他にどうでもしようがあるし、未だ回復していない旭日の分も含めて手の足りない今、わざわざ最も頼りになる隊士を他の隊へ行かせる道理がない。
 黒羽としても実務を任せられる事に吝かではなかったが、肝心な所で蚊帳の外に放り出されている気がしてならなかった。彼を想い、死んでいった憐れな娘の事を考えるだけで、じっ、となどしていられないのは、彼も同じだ。
 黒羽は、稲田に直に訴え出ようと足を急がせた。
 寮へ戻って捜してみれば、厨に通じる間で沙々女と立ち話をしているところを見付けた。
「……じゃあ、お菊ちゃんはそういうものを見た事があるって言ったんだね」
「はい」
「そうか。ありがとう」
 やはり、と黒羽は確信した。
「隊長」
「ああ、御苦労さん。悪かったね」
 稲田の表情に、いつもとなんら変わる所はなかった。茫洋とした表情で、だからこそ、心の内が読みにくい。
「お話があります」
「悪いけれど、後にして貰えないか。ちょっと立て込んでいてね」
「すぐに終ります」黒羽は意志の固さを見せて言った。「お菊の件をお調べになっているのでしたら、私にも手伝わせて下さい。分かった事があるなら教えて下さい。このまま、黙って見ていることなどできません」
「手伝って貰ってるじゃない。俺がいない間、隊の面倒みてもらってるでしょう」
「私が言いたいのは、そういう事ではなくて!」
「らしくないねぇ。少し、頭を冷やしなさいよ」稲田は穏やかに言うと、嘆息した。「今、おまえさんが動けば、佐久間や他の隊士達も黙っていないでしょう。通常任務もこなせなくなるよ。そうなれば、評定省も煩いどころじゃないだろうし、調べるどころじゃなくなる」
「おっしゃる事は分かります。でも、私は、」
「みんな動揺してんだから、副隊長のおまえさんがどっしり構えてないと、隊として成り立たなくなる。辛いのは分かるけれど、それも役付きの務めさね」
「しかし、」
「実際に現状として、話せることはまだ何もないんだよ。だからって、おおっぴらにも動けない。その辺のことは、おまえさんにも分かっているだろう」
 そう言われてしまえば、黒羽に返す言葉はなかった。宥めるように彼の肩を、稲田は軽く叩く。
「その内、何か分かったらちゃんと教えるし、手伝って貰うこともあるだろう。それまでは、今まで通り頼むよ」
 と、玄関から加世の小さく悲鳴をあげる声が聞こえた。
 何事か、とふたり揃って駆付けると、上がり口にぐったりと横たわる太吉の姿があった。
 稲田は絶句し、黒羽は急いで太吉に駆け寄った。首に手で絞められた痣がくっきりと残っていた。辛うじて息はあるが、細く頼りない。すぐにでも処置が必要だろう。
 三和土に立って白い片袖の折れを直す来訪者を稲田は見た。
「君が助けてくれたのか」
「たまたま襲われているところを通りかかったもので。ここが一番近かったので連れてきましたが、お知り合いでしたか」
 三丿隊隊長白木は、大した事ないと言わんばかりにすました顔で答えた。
 黒羽は引手の男を抱え上げた。
「先生の所へ連れていきます」
「すまない。頼むよ」
 黒羽は太吉を抱えて、早足で治療棟へと向かった。
 その途中、渡り廊下で沙々女と行き合った。
 沙々女はぐったりとする太吉を見て、首を僅かに傾げただけだった。どうしたのか、と問うこともなく、軽く頭を下げて擦れ違った。そこには、何の感情も感じ取れなかった。
 その様子に慣れたこととは言え、黒羽は身の内にあったもどかしさが、急に硬い重しとなったような気がした。
「先生、急ぎお願いします」
「これは、直ぐにこちらへ」
 意識のない太吉の様子をみた山瀬が、冷静にも手際よく処置を始める。
「首を強く絞められたね。脈は弱いがこれならば助かるだろう。君、三番目の棚のそれを持ってきて」
 それを聞き、黒羽も安堵の息を溢した。暫く様子をみた後、あとを山瀬に任せその場を離れた。
 母屋に戻りながら、だが、と心の重さを改めて感じる。
 沙々女のあれは、一体、どういうことなのだろうと思わずにはいられなかった。同じ冷静にしても、山瀬のそれとはまったく別物だ。意識のない太吉をみても、驚くでも怯えるでもない。まるで、人を人として見ていないように感じる。
 思い返せば、菊の時でもそうだ。
 親しくなかったわけでもないのに、あれほどの死に様を目の当たりにしても虚ろになるでもなく、涙ひとつ溢さなかった。誰もが我を失っている間も普段通り変わらぬ姿で、淡々と目の前のことをこなしていた。その様は、気を患い寝込んでしまった加世と対照的だった。
 あれには、隊士たちも流石に異様に思ったものである。言葉にしないでも、沙々女が並みの娘ではないと不審を抱き始めているのを感じる。
 黒羽が初めて沙々女に会ったのは、十三も終りの冬の初めだ。
 剣術道場の後、和真に誘われて飯を呼ばれに彼の家を訪れた時、ひとり庭で鞠を放り投げて遊ぶ姿を見かけた。
「親戚の子か」
 和真に妹がいないことは知っていた。
 いや、と答えがあった。
「親を亡くしたのを叔父が引き取って、うちで預かっているんだ」
「叔父さんって、護戈衆のか」
「そうだ」
 友の憮然とした表情から、少女にあまり良い感情を持っていないように思えた。
「他の子と遊んだりしないのか」
「しないな。いつも、ひとりでいる。その方がいいんだろう」
「へぇ、うちの妹は近所の子と遊んでは煩くて仕方がない。よく喋るし、口から生まれてきたんじゃないかって皆に言われている」
「じゃあ、逆だな。あいつはずっと黙ったまんまで、何を訊いても答えない」
「ふうん」
 少女の手から逸れた鞠が、彼等の足下まで転がってきた。
 黒羽はそれを拾い上げると、立ち尽くしたままの沙々女の下へと持っていった。はい、と手渡すと、目の前の少女は俯いてしまった。
「おい、早く来いよ」
 苛立つ和真の呼ぶ声があった。
 ああ、と答えて振り向いた背中に、「ありがとう」とはにかむ小さな礼があった。もう一度、振り返った時には、鞠を抱えて逃げるように去っていく小さな後ろ姿があった。それは、とても恥ずかしがっているようで、人馴れしていない幼さと受け取れた。
 あの頃の沙々女は、感情の発露というものがはっきりと感じ取れたと思う。大海に落ちた一滴の雨のような淡さではあったが、確かに存在した。
 その後、道場からの帰り道にある社で、沙々女が幾度となく彼等を待っていたことがあった。必ず、ふたり分の握り飯と傷の手当ての道具を持参していた。
 そういう時はきまって彼等が喧嘩した後であったりしたので、思わず和真と顔を見合わせたものだ。
 境内で傷の手当てをして、和真と並んで握り飯を食べた。握り飯は不格好ではあったが、とても美味く感じた。そうやっている内に、いつの間にか和真とも仲直りをしていた。その間、沙々女は黙って社にある神木の大樹を眺めていた。何も言わなかったが、その背中はとても嬉しそうに見えた。
 しかし、今はそれも分からなくなった。
 護戈になり、稲田に呼ばれるようにして二丿隊に配属が決まった。そして、沙々女がより近き存在になったと知った時には驚きもしたし、喜びもした。だが、ふたたびまみえた時、当の沙々女にはまるで見知らぬ者であるかのような態度を取られ、密かにがっかりもした。
 以降、沙々女は変わらず無表情のままだ。口の端に僅かな笑みを溢すことも、瞳を潤ませることもない。いつの間にか、沙々女の周囲に見えない壁のようなものが出来ていた。異様なほどに影が薄くなっていた。
 一体、離れていた二年の間に何があったと言うのだろうか。
 黒羽はその理由が分からない。
 和真に訊ねても、知らないと答える。
 だが、それは、憐れむ事なのだろうか。
 事件後、様々な感情を持て余している黒羽にとって、心の片隅では沙々女を羨む気持ちがあった。
 苦しい、と思った。


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