kumo


拾玖

「一言で言えば、鬼でありましょうな」
「鬼、だと?」
 ちんまりと座り、食べさしの餅を手に持ちながら答える目の前の聖人を、水無瀬は鋭く睨め付けた。しかし、それを受けても、墨色の衣を纏ったそれなりの年であろう剃髪の男は、素知らぬ顔で餅を食べている。
「正しくは茶枳尼天《だきにてん》と申しましてな。狐に乗った天女の如き美しい姿の菩薩さまでありますよ。元は鬼であったと伝わります」
「なんで、そのあやかしの親玉みたいな奴が祀られるんだい」
「鬼と言っても、あなた方のおっしゃるものとは、ち、と違いますな。元は悪さをするものであったのが仏の教えに心を入れ替え、その配下として下ったものでありますよ。仏はその広い御心で、ありとあらゆるものに慈悲をお与えになりますのでな」
 口調ものんびりと聖人は餅を咀嚼し飲み込むと、残りの餅も口の中へ放り込んだ。
 聖人は都東の犬神人を纏める者のひとりで、稲田から得た情報から水無瀬が捜し出して呼びつけた者だ。
 本来は引き継ぎのついでに稲田も共に、と思っていたが、連絡をする手間を惜しんだ為に、彼女だけがこうして話しを聞くこととなった。
 巡回中の為、他に部下はいないまでも護戈の詰所だ。独特の緊張した空気が流れる中、板間に腰を落ち着けた壮年の聖人は、悠然たる様子で言った。
「いや、実に美味い餅でありますな。見目麗しい方を前にこうして口にしておりますと、寿命が伸びる思いが致します。もひとつ頂いてもよろしいですかな」
「好きなだけ食せ」
「これは有り難い」
 では、と聖人は目の前の三方に積まれた餅を恭しい手つきでもうひとつ摘んだ。水無瀬は煙管片手にそれを眺めつつ、改めて問いかけた。
「それで、その茶枳尼天とやらが、狐を使うというんだな」
「はあ、そうですな。私が知る限りでは。捜せば、他にもありましょうが」
「では、その茶枳尼天というのはどういう仏なんだ?」
 それに聖人は、手に持った餅を宙に浮かしたまま、首を傾げた。
「はあ、まあ、私も他の宗派のこと故、詳しくは存じませんが、以前、その和尚より聞いた話では、もともと茶枳尼天とは、死ぬ六ヶ月前の人間を見付けて取り憑いては、身中にある『人黄《じんおう》』を食べる鬼であったそうでありますよ。人の頭の先から足の裏までを半年に渡って舐め回してしゃぶり尽くした後、最後に息を呑み、血を吸い取って命を奪い取るなんとも恐ろしいものであったそうです。人黄というのは、確か、人の魂魄だとか穢れ。欲や、或いは煩悩とされるものだとか言うておりましたか。なんでも、これが人の命を保つものであり、身中に降りては赤子の身体を形成するものであると。頭頂部の十字のところにある六粒の『あまつひ』と呼ばれるものであるとも言われているそうで。まあ、うろ覚えでありますが、そういう話しでした」
 口に餅を詰めたまま、もごもごと動かしながら答えるその前で、水無瀬の美麗な顔が硬く強ばった。
「つまり、人となる元を喰らうってわけか」
「そうなりますかな。ですので、仏となる以前は人が死ぬのを待ち望み、病になるのを喜び、治癒を妨げていたとか。そうしているところを、毘盧遮那仏《びるしゃなぶつ》に調伏され、死人のそれなら食べても良いと許され仏となった、というものだと伺いました」
「なんでそんなものが祀られる」
「はあ、祀れば、栄華栄達、ありとあらゆる福徳、己が欲する世さえ得られるそうですよ。なんでも叶うと。その代わり、死ぬ時に自分の人黄を差し出す事が条件だそうで」
「世の中をすべて思いのままに出来るってわけかい」
「そういう事にもなりましょうか」
「大それたもんだね。仏ってのは、一体、何様のつもりだい。欲を持つなと言いながら、一方では欲を煽るようなもんがいる。人を惑わし、試そうって魂胆にしか思えないね」
 とん、と強い音がして煙草盆に灰が落された。煙管に八つ当たりするかのような水無瀬に向かって、いえいえ、と慌てた返事がある。
「たとえ、餅を咽喉に詰まらせて苦しんだとしても、餅が悪いわけではありますまい。仏道にありますれば、俗世の尺度とまた違うもの。衆生を正しき道へと導く務めを蔑ろにすれば、それこそ地獄へと落ち、鬼の厳しい仕置きを受けることになりましょう。茶枳尼天にしても死人だけを相手にしているわけですから、本来は大人しい性質とも申せましょうし。現にこれを御説明下さった和尚は、それはそれは御立派な、慈悲深い御方でありました。なにせ急な病に行き倒れていた拙僧をお救い下さったのですから」
「だが、他に、道を違えても欲を満たしたいと思う者もいるかもしれないじゃないか」
「中には心得違いをする者もおりましょうな。ですが、畢竟、無理でありましょう」
「ほう」水無瀬は心持ち顎を上げて、聖人を見下すかのような視線を投げ掛けた。「そう言える根拠は」
 聖人は手にある餅を置くと、ひとつ咳払いをして答えた。
「仏法におきましては、身にそぐわない望みや呪を求める場合、非常に時と根気と手間のかかる儀式やらが必要とされておりましてな。相応の対価を求められもします。これも聞いた話で御座いますが、茶枳尼天に好む肉類や人黄を常に供えれば、速やかになんでも願いを成就させるというので、行者によっては自分の眼を刳り貫いて捧げる者もいたとか、いないとか」
「どっちなんだい」
「いや、そういう話しで。されど、欲の為にそこまでする者も滅多におりますまい。下手をすれば己が命も失いかねませぬ。加えて、因果応報。ひとたび天の道を外れれば報いを受けるのは必定。それだけの犠牲を払うくらいならば、身を粉にして真当な道を歩んだ方がよほど楽でありましょう。よしんば、それを行ったとしても、茶枳尼天に於ても元は鬼であったものが仏の慈悲にて救済せられたもの。異端であるその仏に身を捧げることにより、終には救いを得られることにもなるのではないか、と。暗にそう悟るよう教え示しているのではないか、というのは私の意見でございましてな」
 聖人の言葉の前に、ふ、と水無瀬は考え込むように瞳をそらした。脇息に肘を預け、閉められた障子の向こうに視線を向ける。
 その様子に安心したように、聖人は一度は置いた餅をふたたび手に取った。そして、それを口にいれようとしたその時に、なあ、と声がかかった。
「別に供えるのは己の肉でなくても良いんじゃないのか」
 それには渋々と餅を下ろして、はあ、とおざなりな返事がある。
「確かに私が一時、御厄介になっておりました寺では、魚や鳥の肉がお供えしてありましたが」
「それがどこぞの人であればどうだ」水無瀬はゆっくりと首を巡らし、目の前の聖人を見やった。「その人黄というものが好物ならば、目玉を刳り貫くよりも喜んで、すぐにも願いを叶えてくれるんじゃないのかい」
 それには聖人の顔も青ざめた。腕に通した数珠が、ざらり、と音をたてる。
「……その菩薩さまの如き美しいお顔で、恐ろしいことをおっしゃる」
 しかし、対する女の剣呑さが薄らぐことはない。
「たとえば、先ほど聞いた六月に至らずとも、死に瀕した人間を供え、息を呑み、血を啜って死に至らしめる呪法とか、そういうのはないかい」
「いえ、まさか」、と即座に答えが返った。
「然様な恐ろしき話しは聞いたことはございませぬ」
「ほう、では別の話しでも聞いたかい」
 水無瀬は口元だけで微笑んだ。聖人は僅かに背をのけ反るようにしてから、力を抜くように溜息を吐いた。
「たとえ、そんな呪法があったとしても秘義や奥義の類とされ、限られた者にのみ口伝えられるものでありましょう。拙僧のような通りすがりの者には話しますまい。ただ、」
「ただ、なんだ」
「たまたまうっかりと覗いてしもうたのですが、御本尊が獣の頭蓋骨でありましたな。普段は隠されておられたのですが、斯様なものを御本尊にするとは、と驚いたものです」
「人ではなかったのか」
「いえ、間違いなく獣のものでありましたな。この位の小さな。犬かとも思いましたが、それこそ、狐であったやもしれませぬ」
 ふうん、と水無瀬は頷いた。
「だが、それも灰になっちまったんだろ。和尚も一緒に」
 はい、と聖人も頷く。
「半月とおりませなんだが、命を救われた御恩は忘れられるものではございませぬ。いつか再び、お礼に出向こうと思ってはおりましたが、それから暫くして火事で亡くなられたと風の噂で耳に致しました。信じる仏は違えど同じ仏門に身を置く者として悟りを求める心に偽りはございませなんだ。残念なことでありました」
「いつごろの話しだい」
「三年《みとせ》より前の話でございます」
「しかし、最近になって、その茶枳尼天を祀るという者たちに会ったんだろう。信者を奪われたかして。抱えの犬神人が不満を溢していると聞いたが」
「いえいえ、さほどのことでは。二、三度、然様なことがあったというだけで。ただあの者たちも僅かばかりの布施と手間賃で暮しております故、つい、文句も出たのでありましょう」
「それはどんな奴だ」
「棺《き》を運ぶ姿を、ちらり、と目にしただけでありますが、すげ笠を被り、粗末な恰好をした者たちでありました。犬神人たちとは違い、人足にも足りそうな堂々たる体躯の者たちでありましたが」
「それだけで、よく坊主と分かったものだね」
「はあ。一言、聞えた真言がそちらのものでしたので。それに、これも変わったもので、茶枳尼天法を修したい者は、僧形をなしてはならない決まりであるそうでから」
「へえ。それは、また、どうして」
「僧形をしておりますと他の諸仏菩薩なども集まり、茶枳尼天は怖れて逃げてしまうそうでありますよ。ですので、そうと気付かれぬよう彼の寺にても和尚や門下の僧は髪を残し、鈴《りん》の代わりに石を打ち鳴らしたりしておられました。それと同じ恰好でありましたからな。しかし、」
 と、そこで聖人は、ふ、と口を噤んだ。
「どうした」
 問う水無瀬に向かい、不思議そうに首を傾げた。
「今、思い出したのですが、その者たちに似た者をついこの間、市井で見かけたのでありますが……いえ、人違いでありましょうな」
「どうした、言ってみろ」
 居丈高に促せば、聖人は更に首を捻った。
「その時のその者は拙僧と同じく墨の衣を身に着け、深い饅頭笠を被っておられたのですよ。やはり、同じ仏門の者というのは、気になるものですからな。拙僧はこの通り丈立《たけだち》も高くはござらぬ故、それとなく近付いて下から伺った時に、ふ、とあげたお顔が似ていたような……しかし、聞きなれぬものでありましたが、真言も違うものを唱えてらして。まあ、雰囲気というかが似ていたというだけでございますし、やはり、見間違いやもしれませぬな」
「なんだと!?」
 水無瀬の一際、厳しい声があがった。


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