kumo


廿参

 何かあるとは思っていたが、貝塚の反応は予想を超えるものだ。逆に、和真の方が驚きを感じる。
「いいえ。沙々女はうちに、私の実家にいたので」
 これを言ってはまずいのだろうか、そう迷いながらも答えた。
「実家とは、羽鷲さんの」
「はい。こどもの頃に叔父が引取ったのを連れてきて、うちで預かっていました」
 呆然とした表情が和真を見た。しかし、その瞳に彼の姿は映ってはいなかった。うって変わり、狼狽えた様子で独言のような呟きが答える。
「なんだよ、ふたりして……聞いていないぞ」
「貝塚さん、あいつは一体、なんなんですか。叔父も、稲田さんもあいつの事に関しては何も説明しようとはしなかったし、何も言わない。流民の囲い者の娘だからですか。それとも、他に何か理由が?」
 ああ、と呻き声を出して貝塚は頭を抱えた。そして、分からないという風に髪を両手で掻き乱した。
 徒事ではない貝塚の様子に、傍らで見守る和真も不安を募らせた。続けざまに問うのさえ躊躇わせる。暫く黙って様子を見守っていると、頭に置いた手がだらりと落された。
「あの娘は……なにか言っているか」
「いいえ。何も」
「なにか、稲田に対して態度がおかしいとかそういう事も?」
「いえ。毎日、普通に接している筈ですが」
「そうか」
 首を傾げる和真の横で貝塚は酒徳利を掴み取ると、ひとくち呷った。手の甲で口を拭うと一言、問う。
「知りたいか」
「はい」
「どうしてもか」
「はい」
 暗に、訊いてくれるなと言う言葉を前に、和真は頷いた。
「あの娘のためにか」
「叔父と隊長と、俺の為にもです」和真は答えた。「誰も何も言おうとしない。当人にとってはそれで良いかもしれないが、周囲にいる者にとっては煩わしい部分もあります。いらぬ憶測を並べるよりは、知りたいと思います。その上で力になれる部分があるならば、とも」
「そうか」、と和真の言葉に貝塚は頷き、「悪いが」、と言った。
「詳しいことは、俺には言えんよ。何も聞かされてはいないし、知らない」
「でも、」
「言える事は、あの娘の母親が殺められた時に、討伐したのは羽鷲さんと稲田だ。そこで何があったかは知らない。詰所に戻ってきた時のふたりの顔は酷く青ざめていて、まるで死人のようだった。怖いぐらいだったよ。何があったか、ふたりとも何も言わなかった。小さなおんなの子をひとり連れて、稲田は利き腕だった左を失った。そして、一時、大刀が二振り、ふたりの腰から消えていた」
 簡潔な説明ではあったが、その意味するところに和真の息も止る。何があったかなど、護戈衆ならば想像に難くない。ましてや、あの菊の出来事があった後ならば、尚更。
「あの傷痕……」
 袖の下にある稲田の左腕に残された引き攣れたような傷痕は、和真も知るところだ。
 ――数度、会った事がある。尤も、その頃はまだ小さくて何も覚えちゃいないだろうが……
 沙々女を迎えに来たその時、稲田は何を思っていたのだろうか。
 沙々女は何を思ったのか。
 沙々女を連れて来た時、義雅はどんな思いを抱いていたのか。
 目の前を通り過ぎていた風景の中に見過ごしていたものの大きさに、和真は愕然とした。
 貝塚の話は続けられた。
「それからもその件に関しては、何も言おうとしなかった。俺たちにも説明はなにひとつなかった。ただ、それからあの娘は、ここにいた。男――母親を囲っていた男が何度か取り戻しに来たが、羽鷲さんは頑として引き渡そうとしなかった」
「父親に返さなかったのですか」
「いいや、男はあの娘の父親じゃない」
「そうなんですか?」
「あの娘の母親はいつからか流れてきたんだが、その時には既にあの娘は産まれていた。それをあの男が無理矢理、囲い者にしたんだ。最初は母親も嫌がって断っていたそうだが、当時、あそこ一帯を仕切っている男が相手だ。周囲も助けようにも今度は自分の身に災いが降り掛かることになる。見てみぬ振りを決め込んだらしい。そんな中、女の身ひとつでいつまでも抵抗できるものではないさ。逃げようとしたところを捕まえて、娘を人質に言う事をきかせたらしい……というのは、俺たちも後から知った話だ。羽鷲さんがあの娘を渡さないよう、調べたことだった。父親ではないあの男に渡せば、先行きは見えている。可愛い子だったから廓に売られるか、それとも、大きくなったところを母親と同じ身にされるか。なんにしてもろくな話じゃない。それでも男は、後見人である事を主張して粘ったが、結局、榊さんも出てきてな。男も叩けば埃の出る身だ。半ば脅すようにして、奪い取った形になった。当時はそれなりに騒ぎになったもんさ。そういうこともあってか、それからすぐにふたりは異動していった」
 何も言えない和真に、貝塚は自嘲気味の笑みを向けた。
「俺はてっきり、親無し子として評定省に引き渡すかすると思っていたんだが。まさか、羽鷲さんが引取ったなんて思わなかった。それに、稲田も……放ってはおけなかったんだろう」
「父親は。あいつの本当の父親はどうしたんです」
 それには、さあな、と首が横に振られた。
「母親も父親の事は誰にもなにも言ってなかったそうだ。流民だったし、どこぞで命を落したか」
「そうでしたか」
 父親がいればそんな事にはならなかっただろう、と和真は思う。ひょっとしたら、今頃、家族で幸せに暮せていたかもしれない。彼らに会うこともなく。
「……あの娘ももう年頃だろう。奇麗になったか」
「……奇麗ですよ。とても」
 だが、その美しい顔に笑みが浮かぶことはない。涙を流すこともない。誰にも何も言おうとしない。
 出そうになる言葉を、和真は飲み込んだ。
「そうか」、と貝塚は頷いた。
「母親も奇麗な女だったからな」
「どんな女だったんですか、母親という人は」
 その問いには、貝塚はいまにも頭上に降り落ちてきそうな満天の星空を見上げた。
「翡翠《ひすい》という名の、髪を長くした澄んだ水のような青い目をした女だった。俺たちが彼女を知った頃には、もう囲い者にされた後だったが、それでも奇麗な女だったよ。遠目で見るしかなかったが、とても美しかった」
 その眼差しは、映る静かな光に面影をみているかのようだった。

 寮の部屋で眠りに就くまでの間、和真の頭に浮かんだのは、少女の頃の沙々女の姿だった。
 見えなくなった姿を捜す内、大木の下で蹲るようにしゃがみこんでいるところを見付けた。丸く小さくなっている様子は寂しそうで、誰かを待っているようにも感じた。
 だが、照れ臭さに優しく声をかける事も出来ず、おい、とぞんざいに呼びかけた。
「こんなところにいたのか。帰るぞ」
 差し出した手に驚いたように、顔があげられた。
 翡翠――彼女の母親の名前。そして、沙々女の瞳の色だ。
 いつも伏せられている瞳が深い水の色にも似た碧色をしている事を、和真は初めて知った。
 初めて見る色に、少年だった和真は息を呑んだ。それまでに見た事のあるどんな玉《ぎょく》よりも美しい色だった。
 あの色をもう一度見たい、とそれから幾度となく思った。
 あの瞳をもう一度見たい、と深い意識の下で少年の和真は願っていた。


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