kumo


廿伍

 近付くにつれ、その家は古くはあったが粗末なものではなく、手入れの行き届いたものと知れた。それだけ、婆さまが一族の間で尊敬を受けているという事なのだろう。
 ぼう、と牛の鳴く声が聞こえた。機を織る音も聞こえてくる。
 立派な山毛欅《ぶな》の樹の脇を抜け、開け放たれた戸口から当たり前の様子で家の中に入る笹霧の後に和真も続いた。土間に立てば、声をかけるまでもなく、ひとりの若い女が衝立の向こうに姿を見せた。
「姉ちゃん」
「さっきからお待ちかねだよ」
「うん、じゃあ、上がれよ。遠慮するな」
 笹霧の促しに、和真は女に向かって軽く頭を下げると、草鞋の紐を解いた。
 薄暗い家の中は、廊下のない部屋続きの作りになっていた。隅の機織り機には、色鮮やかな織りかけの布がかけられている。質素な生活が伺える板の間を抜け、黒い板戸を開いた先に、畳の敷かれた八畳間があった。
 そこに珍しい風合いの色数の多い布に包まれて、ぽつんと座る老人の姿があった。
 背を丸める姿は小さく、想像していた以上の高齢である事を伺わせた。無数の沁みと皺がかった顔は、目鼻立ちもはっきりしない。まるで、古い樹の切り株を思わせる佇まいだった。婆さま、と聞いてなければ、性別さえはっきりしないだろう。
 低く掠れた声がした。
「笹霧の坊かえ」
「ああ。婆さま、連れてきたぞ」
 声を大きくして笹霧が答えると、皺の間から小さな目が開いた。ぱっくりとひびが割れる中から、水晶の玉が覗いたようにも見える。
 盲た瞳で何を語るか。
 老婆は口先を尖らせるようにもぐもぐと動かしながら、言った。
「暫く振りであったが、元気そうじゃの。お若いのも、遠い所をよくおいでなされた」
「羽鷲和真です。初めてお目にかかります」
 自己紹介をすると、少しだけ頬が緩んだ。
「おぬしが来た事を知らせる声あっての。昔話をしてやれ、と言われた。しかし、昔の事とは言ってもいつの昔の事か。この通り、長く年寄りを続けておるでの」
 そこへ、先ほどの女が甘い香のする茶を運んできて口を挟んだ。
「あんたの知る者がこの地にいた事はあるかい」
「叔父が昔。やはり護戈で、楽水の方にいました」
「いつ頃だい」
「十二年ほど前まで」
 笹霧の姉は、ああ、と頷くと、老婆の耳元に向かって言った。
「婆さま、まだ夕賀にいた頃の話だ。こっちに移り住む前の」
「ああ。夕賀か。そう昔ではないの」
「夕賀にいた事があるのですか? では、翡翠という名の女の事は御存知ありませんか、青い眼をした」
 和真の問いかけに老婆の口が、また動いた。
「その名は久し振りに聞いたの」
「知っているのですか」
 身を乗り出さんばかりになった和真を、横に座った笹霧が黙って押し留めた。
 気付いて座り直す前で、老婆は、さて、と口にしたきり黙ってしまった。それから口は閉じられたまま、動こうとはしない。眠ってしまったようにも見える。もどかしいながらもそれでも我慢して待つと、暫くして言葉を紡いだ。
「一族の者ではなかったが、近しき者であったの」
「懇意にしていたのですか」
「そうではない。あれは声を聞く者であったしの。直には知らずとも、声が教えてくれた」
「声を聞く者とは、どういう意味ですか」
「ありとあらゆる御霊の声を聞く者だの。わしらとは少し違うが、言い換えるとすれば巫女かの」
「巫女、ですか」
「おそらくの。しかし、いかんせん、若すぎた。護る眷族も傍におらなんだ。不憫な娘よの」
「まだ小さな娘がいたでしょう、沙々女という名の」
 和真の言葉に、おお、と老婆は声をあげると、くしゃりと顔を萎ませた。
「おったの」
「覚えていますか」
「覚えておるよ。あれも同じ者だったしの」
「同じ者とは、巫女という意味ですか」
「ときどき森へと来ては、声を聞いておったの」
 ――やはり、
 和真は、瞳を伏せていた。
 なんとなくそうではないかという予感はあったが、他人の口からはっきりと聞かされると、後悔に似た思いが湧いて出てくる。隊士たちと比べても、すべてのものの気配に敏い沙々女の様子に気付かなかったわけではない。おそらく、それだけを見れば、和真にも勝るだろう。それを気付かない振りをしていた。彼等とは違うものを見て、聞いているのだろう娘は何も語りはしなかったから。 「母親が死んでから、とんと聞かんようになったが、今頃どうしているかの」
「息災にしています」僅かに沈んだ声に和真は答えた。「今は、都に暮らしています」
「おお、おお、それは良かったの。ほんに、良かった」
 老婆は何度も頷いた。
「でも、笑わないんです。泣きもしない。およそ人らしくはない」
 ああ、と頷きがある。
「それは呪《しゅ》だの。母親がかけたかの。それが解けなんでおるか」
「呪? 母親が我が子を呪うのですか」
 驚いて問うと、見る事のない眼が開き、彼に向けられた。
「強く声を聞く者は、過ぎれば魂を持っていかれるしの。心が激しければ、おおよそ並みの者でも人ならざるものに取り込まれるよ。心の定まりきらぬ幼さであれば、尚更だの」
「まさか」

 ――可愛い子でやしたから、きっと魅入られたに違いないと……

 和真の脳裏に権造の言葉が過った。
 何も映さない瞳は、静かに皺の中に沈んだ。
「せめて、子の命だけは護ろうとする母心だの」
「解く方法はありますか」
「その娘が愛しいかえ」
「そういうわけでは、」
 和真の手は、知らず内に喉元の熱さに触れていた。
 老婆はからかう事をせず、静かに言った。
「愛しいのでなければ、そっとしておく事だの。生涯、慈しむ覚悟がなければ、触れてはならぬよ。でなければ、母親と同じ道を辿るしの」
「どういう意味ですか。母親と同じ道とは」
「巫女だからの。業深き男と交われば、男の持つ毒に傷つき蝕まれ、慈しむ男と交われば、男の聖さに充たされる。並みの者ならば毒に堪え切れず、吐き出しては己を保つが、巫女は堪え、己が壊れるまでひっそりと抱え込む。魂を刺される痛みに耐えながら、丸く保とうとするしの」
「どういう事ですか。母親は取り憑かれたのではないのですか。それで護戈……叔父たちに討たれたのでは、」
 かさかさに乾いた咽喉が、出る声に痛みを伴った。隣にいる笹霧から息を呑む声が聞こえたが、老婆に驚く様子はなかった。
「そう大差ないかの。生きた男の悪しき心に穢されるも、ものに取り込まれるも」
「それはどうにも出来ない事なのですか」
「悪しき巡り合わせというものはどこにでもあるものだよ、お若いの。望むと望まざるに関らずの」憐れな娘だの、と老婆は繰り返し口にした。「人の心は刃と同じだしの。未熟な者はあたら振り回しては、他の者を傷つける。傷つけられた者は出来た斬り口を硬く尖らせては、また別の者に向けるしの。熟練した者は鞘に収める事を知る。時を選び、他を護るに使う。しかし、それにしても別の者を傷つけるが同じことだしの。出来ぬ者は己を壊すしかないの」
 老婆の言葉は、どんな薬よりも和真の胸に痛く沁みた。
「護る眷族がおらなんだことが、あの娘の不幸。何か理由あってのことじゃったかの」
 消えゆく語尾が、女の末路の憐れをより感じさせた。
「どこから来たのでしょう」
「さて、どこからやら。おそらく遠き地よりの。古の血が流れる者であったか」
 編んだ白髪の小さな頭が振られた。
「お若いの。情あるならば、その娘、道を違わぬように助けておやりなされ」
 和真の中に未だ消えぬ躊躇いがあった。が、はい、と小さく答えると、皺だらけの顔が、また、くしゃりと萎んだ。


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